一年の計は金杯にあり〜白い稲妻・タマモクロス〜

「一年の計は金杯にあり」
競馬の世界には、こんな言葉がある。
その年の1番初めに行われる重賞競走が「金杯」であるからだ。
競馬ファン、ともすると競馬関係者にとっても金杯はいわば、「初詣のおみくじ」のような感覚があるのかもしれない。
決まってウィナーズサークルで鏡開きをしてから始まる正月競馬は、ダービーや有馬記念にも醸し出せない非常に和やかな独特なお祭りムードがある。
きっといつの時代も正月競馬というのはそういうものなのだろう。


そういった人の心持ちだけではなく、実際に金杯をきっかけにしてその年のスターダムを駆け上がった馬たちがいることも忘れてはならない。
近年ではラブリーデイが中山金杯を制したのち、1年間でGⅠ2勝を含む重賞5勝を積み上げJRA賞最優秀4歳以上牡馬に選出。古くはダイユウサクが金杯(西)(現:京都金杯)を制したのち、その年の有馬記念で14番人気という低評価を覆して勝利している。
金杯は、馬たちにとってもその年の運勢を占う大事なレースであることは変わりないようだ。

1988年の金杯(西)の覇者もその年のスターダムを一気に駆け上がった。
タマモクロス。
その父シービークロスの異名を継いで「白い稲妻」と呼ばれ、日本競馬史に名を刻む名馬である。

前年末、鳴尾記念で重賞初出走初制覇を果たしたタマモクロスは、オーナーの「金杯は縁起のいいレースだから是非使って欲しい」という強い意向で金杯に駒を進めたという逸話がある。
レースではスタートしてから後方を追走、道中から進路を探すものの前が開かず4角を回って依然16頭立ての最後方、しかも内目という追い込み馬にとって絶望的なポジショニングから鞍上南井克己の鞭に応えて馬群を縫うように加速し、最後は1番内を選択。
直線だけ、しかも最内から15頭をごぼう抜きという衝撃的な競馬でオーナーの期待に応え、重賞2連勝を飾った。

金杯を制したタマモクロスのその後は、ご存知の通りである。
次走の阪神大賞典を3頭が縺れる大接戦の中、1着同着で制覇、父シービークロスが3着に敗れた天皇賞(春)では1番人気に応えて父の無念を晴らした。
続く宝塚記念では1番人気こそニッポーテイオーに譲ったものの、レースでは磐石の競馬でGⅠ連勝、引退レースだったニッポーテイオーに引導を渡した。
当時としては珍しく夏の休養を挟んで前哨戦を使わず天皇賞(秋)に直行。中央転厩後破竹の重賞6連勝で前走でダービー馬をも破った宿敵オグリキャップを迎え撃つ。
日本競馬史上初めて、2頭の芦毛が繰り広げた壮絶な頂上決戦は年長のタマモクロスに軍配。
自身の重賞連勝を史上最多タイ(当時)の6連勝に伸ばし、史上初めて天皇賞春秋連覇を達成、オグリキャップの連勝を止めた。
次走のジャパンカップでは凱旋門賞馬トニービンら世界の強豪を相手に1番人気に支持され、再びオグリキャップを下して日本馬最先着を果たすも、アメリカのペイザバトラーを半馬身捉えきれずに2着惜敗。
もともと体質が強くなかったタマモクロスはこの秋2戦でかなり疲弊していたようで、年末の有馬記念を前に調子が下降していたが、ファン投票1位及び単勝1番人気に支持されて出走。
3度目にして最後の直接対決で、初めてオグリキャップの後塵を拝する2着となり、これを最後に引退、種牡馬入りとなった。

オーナーの意向により2年に満たない短い競走生活だったが、金杯から始まったタマモクロスの1988年は、史上初の天皇賞春秋連覇、宝塚記念制覇のGⅠ3勝を含む重賞5連勝の活躍が評価され、JRA賞の3部門(年度代表馬、最優秀5歳以上牡馬、最優秀内国産馬)を受賞する快挙の年となった。
オーナーの進言通り、タマモクロスにとって金杯は縁起のいいレースになったのである。

もちろん、年明け初戦を金杯ではなく、当初の予定通り日経新春杯を使っていたとしたらこの活躍がなかったか──と言われれば、それは甚だ疑問ではある。
しかし、前年秋まで燻っていたタマモクロスにとって、勝負となる一年の行く末をこの金杯が変えた、と言われればもしかするとそうなのかもしれない。


タマモクロスの生まれ故郷「錦野牧場」は慢性的な負債を抱えていた。
代表の錦野昌章氏は自らが惚れ込んだグリーンシャトーという牝馬に『白い稲妻』シービークロスを掛け合わせて生まれた仔馬に牧場の命運を託した。
その仔馬は映えない芦毛で牝馬のような華奢な馬体をしていたが、錦野氏にとって自身が思い描くサラブレッドの理想形だった。
のちのタマモクロスである。
「この仔馬が高く売れれば……」
その思いとは裏腹に、仔馬は500万円という安値しかつかなかった。
それでも活躍さえしてくれれば、生産者賞として牧場にも賞金の一部が舞い込んでくる。
錦野氏はそれに賭けていた。
「あの馬がデビューするまでは待ってくれ」
錦野氏は各方面にそう頭を下げて回ったとされている。

しかしデビュー当初のタマモクロスはデビュー戦で直線で伸びきれず7着、3戦目にダートで初勝利をあげ次走では空馬に絡まれて落馬競走中止。
その後はダートばかりを4戦使って、2着1回3着2回の通算8戦1勝2着1回3着2回と、あまりに平凡な成績だった。
普通なら「まだこれから」「来年がある」などという言葉で我慢できる成績だったが、錦野牧場の体力はそこまで持たなかった。
タマモクロスがデビューして半年が経った秋、遂に資金繰りが困難となり牧場は倒産してしまったのだ。
錦野氏が惚れ込んだ母グリーンシャトーも差し押さえの対象になり錦野氏の手から離れ、タマモクロスの故郷「錦野牧場」は姿を消した。

全ての清算が終わり、「錦野牧場」が完全に消滅した秋。
母グリーンシャトーが、錦野牧場を放出されてから様々な牧場を転々とする中で腸捻転を発症し死亡した秋。
それまでうだつのあがらぬ競走馬だったタマモクロスは突如として7馬身差、8馬身差の圧勝を演じ、勢いもそのままに年末の鳴尾記念をも制してみせた。
そして年が明けて1988年、前述の金杯へ駒を進め、一気に年度代表馬まで上り詰めたのである。

生まれ故郷と、そして母とを同時に失ったタマモクロスが、それと時を同じくして突如激走を始めたのは単に「馬が完成したから」「それまでの条件が合わなかったから」などという無機質な言葉で括っていいものなのだろうか。
あの秋、タマモクロスの中に何かが芽生え、何かが弾けたと思うのは私の思い過ぎだろうか。


「芦毛の馬は走らない」
日本競馬史には確かにそう言われていた時代があった。
1988年10月30日の東京競馬場、タマモクロスとオグリキャップの死闘を、理不尽に「弱い」とされていた芦毛の両馬による頂上決戦を、当時の人々はどのような心持ちで目の当たりにしていたのだろうか。

偶然か必然か、それとも運命の悪戯か。
オグリキャップという競馬界きってのアイドルホースが芦毛でなかったら、宿敵でなかったら、もしかするとタマモクロスはただの強い馬で終わっていたのかもしれない。
昨今の日本競馬において芦毛の馬がGⅠを勝つことなど、そう珍しいことではない。
その「芦毛伝説」はここから始まったのだ。

タマモクロスの活躍を待つことなく牧場の命運は絶たれ、タマモクロスがどれだけ陽の目を浴びようと「生産者」と書かれた表彰台の上に錦野氏が立つことはなかった。
しかしグリーンシャトーに惚れ込み、タマモクロスに牧場の命運を託した錦野氏の相馬眼は決して間違ってはいなかった。
彼の作り上げたその馬はオグリキャップとともに確かに日本競馬を変えた。
1人の男が信じた、追求し続けた理想が日本競馬の1つの常識を覆したのである。

2020年は新型コロナウィルスによって世界中が混乱する中、日本競馬界ではここに改めて書く必要すらないほどの偉業がいくつも成し遂げられた。
これらの偉業を目の当たりにした時、ファンの我々はどうしても間近でその馬に関わり、メディア露出の多い騎手、調教師、厩務員、オーナーに目を向けがちであるように思う。
無論、彼らが競走馬に向ける情熱には敬意を表するべきであるし、競馬をよく知らない人たちのためにも、もっと表に立って馬に携わる人たちの情熱やドラマを世の中に広めて欲しい。
しかし、少なくとも我々のような競馬ファンは、今もこの島国の各地で、かつての錦野氏のような情熱をもった人々が日本競馬の根幹を支えていることを決して忘れてはいけない。
彼らが作り上げた渾身の馬たちが陽の目を浴びる時、「生産者」と書かれた表彰台に立つその誇らしい姿にも熱い眼差しを向け、最大級の賛辞を送るべきだと、私は思う。

まだファンファーレとともに大歓声が湧きあがるあの日常はしばらく戻りそうにはないが、それでも少しずつ止まっていた時は動き出し始めている。
今年はいったいどんなドラマが、私たちを待ち受けているのだろう。
どんな誇らしげな姿を目にすることができるのだろうか。
今年もまた、馬が走る。

写真:かず

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