空白の20秒、その衝撃 - 1996年第57回菊花賞ダンスインザダーク

直線の映像を見るたびに心が揺さぶられる。
あれは一体何なのだろう。

ダンスインザダークが菊花賞で見せた33秒8の末脚は「豪脚」「鬼脚」などと評されることが多いが、個人的にはどれもしっくりこない。
とにかく、私の四半世紀を超す競馬歴のなかでも『ナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎打ち(阪神大賞典)』、『トウカイテイオー奇跡の復活(有馬記念)』に匹敵するベストレースのひとつだ。
競馬を始めたての人に対して、その凄さを知ってもらうのに必ず紹介するレースの一つでもある。

ダンスインザダーク。
父サンデーサイレンス、母ダンシングキイ。
兄にエアダブリン、姉にダンスパートナーを持つ良血馬だ。
エアダブリンの活躍もあって、社台ダイナースサラブレッドクラブで募集された際には、同期の評判馬バブルガムフェローの募集価格3,600万円を上回る4,000万円がつけられた。

結論から言ってしまえば、ダンスインザダークの現役生活は1年にも満たなかった。
しかし短くも中身の濃い1年だった。
直前の皐月賞回避。まさかのダービー惜敗。執念の菊花賞制覇。そして直後に屈腱炎で引退。
8戦5勝。G1勝利は菊花賞のみ。
記録上はこんなものだ。

だが、そんな記録だけでは語れない強烈な印象を私たちに残したのがこの菊花賞だった。
この菊花賞があるからこそダンスインザダークがあるといっても過言ではないほどに。


1996年11月3日。見事な秋晴れ。
京都競馬場には12万人を超すファンが詰めかけた。
関西G1の入場曲「The Champion」にのって各馬が本馬場に入場してくる。

1枠1番にはサクラケイザンオー。年明けデビューで春のクラシックには間に合わなかったものの、夏に力をつけてセントライト記念で2着となり菊花賞に駒を進めてきた。
前週の天皇賞秋、1番人気に支持されたサクラローレルで敗れたサクラ軍団×横山典弘騎手と同じコンビで、1週遅れのサクラ開花となるのか注目が集まっていた。

2枠4番には奇跡のダービー馬フサイチコンコルド。
ダービーで7番人気ながら圧倒的1番人気のダンスインザダークを交わし、わずかデビュー3戦目でダービーを制した逸材である。

5枠10番にロイヤルタッチ。
鞍上はカナダのウッドバイン競馬場にて行われたブリーダーズカップ・クラシックにタイキブリザードで参戦し、帰国したばかりの岡部幸雄騎手。

6枠11番にはセントライト記念の勝ち馬ローゼンカバリー。
黒と黄色の縦縞のメンコが印象的であった。さらにカシマドリーム、ミナモトマリノスといった当時のJリーグ全盛を思わせる名前の馬も出走していた。

──そして大外17番枠に、ダンスインザダークと武豊騎手。

レース後に橋口弘次郎調教師が「仮柵を外したAコースの大外枠ですから、馬場の悪いところを通らされると思っていたのですが……」と振り返っていたことからもわかるように、決して有利な枠ではなかった。


秋晴れの京都に響くファンファーレ。
ファンの興奮が伝染したのか、いつもよりもテンポの速い演奏であった。

逃げると目されていたナムライナズマが大きく立ち遅れたために目立たなかったが、ダンスインザダークもやや出遅れた。
各馬が1周目の第4コーナーにかかる。サクラケイザンオー、ローゼンカバリーらが先団を形成し、第2集団にフサイチコンコルド、その直後にロイヤルタッチが続き、ダンスインザダークと武豊騎手はその後方の内に落ち着いている。

1周目の直線に入ると実況の杉本清氏がダンスインザダークを探した。
「ダンスインザダークは果たしてどこにいるんでしょうか。ダンスインザダークを探すのでありますが……ダンスインザダークは思いのほか後ろであります」
最初の1000メートルは1分1秒から2秒の平均ペースだった。

しかしここから、ガクンとペースが落ちる。
先頭にはローゼンカバリーが立ち、1馬身後方の2番手にサクラケイザンオー。
そこから3〜4馬身離れたところにフサイチコンコルドとロイヤルタッチが並び、ダンスインザダークは更にそこから2〜3馬身離れた位置を進んだ。
行きたがる馬を必死に抑える騎手が目につきはじめ、抑えきれない馬たちが外から上がっていく

向こう正面。
フサイチコンコルドが若干ポジションをあげる。
つられてロイヤルタッチも動き、ダンスインザダークも離されまいとついていこうとする。
第3コーナーの坂の頂上あたりから外にいた馬たちの動きが激しさを増す。
一方で、内にいたダンスインザダークはバテて下がってくる馬のために動けず、ポジションを下げてしまっていた。

4コーナー手前、ロイヤルタッチとフサイチコンコルドが手応えよく上がっていくのに対し、ダンスインザダークは内で動けない。
この時点で、前に12頭、後ろに4頭。菊花賞では絶望的とも思える位置だった。
杉本氏の実況がそれを伝える。
「ダンスインザダークは馬込みでもがいている! 割ってこれるか! 17番ダンスインザダーク、割ってこれるか! 一番内であります。ダンス、ピンチか! ダンス、ピンチか!」

そこまで言って杉本氏は、「さあ第4コーナーをカーブして直線……」と、先頭集団に目を移した。
それはあたかも、ダンスインザダークの勝利を諦めたかのようだった。
ここから実に20秒、距離にして400メートル弱、ダンスインザダークの名前は実況に一切出てこない。

杉本氏の懸命な実況が続く。優勝争いは激しくなっていた。
「マウンテンストーン、ケイザンオー、サクラケイザンオー、ローゼンカバリー!」
「そして6枠から1頭飛んできた! ローゼンカバリーか!?」
「おお~っと、これは何だ? おおっ、フサイチコンコルド、フサイチコンコルド!」
「そしてロイヤルタッチ来た、ロイヤルタッチ来た、ロイヤルタッチ!」
「サクラケイザンオー、サクラケイザンオー!」

優勝争いはこの3頭に絞られた──かに見えた、次の瞬間。

黒い物体がどこからともなく突っ込んできた。

「おおっと、ダンスきたぁー!」
杉本氏が驚いたように叫ぶ。
──景色が、一変する。

武豊騎手はダンスインザダークをいつの間にか、先頭を争っていた3頭の外に出していた。
一体何が起きたのかわからなかった。
「もの凄い脚だ! ダンスインザダーク!」

騎手の手腕もさることながら、ダンスインザダーク自身の強烈な意思を感じさせるような追い込み。
前をいく3頭を一瞬にして呑み込んで、2着に1/2馬身の差をつけて勝利をもぎ取った。
ゴール板を駆け抜けた武豊騎手は珍しく右手で何度もガッツポーズを見せ、今度は左手を握り、ダンスインザダークの首筋を「よくやってくれた!」とばかりにポーンとたたいた。

しかし、どれだけ筆を尽くしても、この菊花賞でのダンスインザダークの走りを文章で伝えるのは至難の業だ。
ぜひ、映像を見てほしい。
直線でダンスインザダークと武豊騎手がどのような動きをしていたのかを。

いつの間にか先頭中団の背後に忍び寄り、外から一瞬にして差し切る。
──何か来る……!
ゴール直前、先頭で優勝争いをしている3頭は敏感に感じ取ったに違いない。
それは、鬼脚とか豪脚とかではなく、肉食動物が草食動物に襲いかかるかのような恐怖すら覚える脚。

直線に入ってからの、ダンスインザダークの名前が一度たりとも呼ばれなかった『空白の20秒』と、その後景色が一変する衝撃。
こんなレースは、他になかなか見当たらない。

写真:かず

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