[インタビュー]益田場外発売所が廃止も、今もなお熱く輝く"益田魂"。スピーディキック管理の藤原智行調教師が振り返る益田競馬

2024年1月、古くからの競馬ファンを驚かせるニュースが飛び込んできた。
『益田競馬場の跡地にあった"東京シティ競馬益田場外発売所"が廃止』。
益田競馬といえば、SNSでも"チーム益田"として情報を発信していて、ファンのなかでも元関係者同士の絆が深いことで知られる。そんな関係者の方々は、古きホームである場所の廃止にあたり、何を感じたのだろうか──。

3年連続でNARグランプリを受賞した地方を代表する牝馬・スピーディキックを管理する浦和の藤原智行調教師に、その想いを伺った。

28歳で益田競馬の廃止を経験

祖父は騎手・調教師、父は調教師、いとこには海外でも活躍した道川満彦騎手と、競馬一族で生まれ育った藤原智行調教師。物心つくころから馬に囲まれた生活で、小学校の卒業文集にも『夢はトップジョッキー』と書いたほど。しかし体調面の問題で騎手学校を退学したことで、目標を見失った時期があったという。

「子供の頃からの夢を断念したので、もう馬の仕事はやりたくないとしばらく塞ぎ込んでいたことがありました。しかし父から『仕事を手伝ってくれ』と言われ、再出発することに。小学生でも外厩などで馬に乗っていましたし、元から馬の扱いは好きでした」

調教師である父の指導のもと、厩務員となった藤原さん。
厩務員になったのは19歳のことだったが、そこからしばらくの間、28歳から受験可能となる調教師試験を目指して下積み時代を過ごすことに。

──しかし満を持して28歳となった時に、益田競馬の廃止が決まった。

「厩務員になった当初は、しばらくして廃止されることになるとは思っていませんでしたからね…。ただ、それから10年経って、新潟や中津などが廃止されて…という流れがありましたから、正直、周囲でも『(益田競馬も)そろそろやばいかな』という雰囲気はありました。署名運動をしたりと抵抗はしていたんですが、結局、流れを止めることはできませんでしたね」

「益田競馬の馬場の砂を瓶に詰めて…」

「益田競馬といえば、自分が育った場所。厩務員や騎手で競馬場の近くに集まっては、BBQや海水浴をしたり、湖にみんなでかき氷食べにいったり…思い出はたくさんありますね。また、競馬学校は父の勧めで福山競馬場の所属で入学していますが、その縁で、当時お世話になった黒川調教師や柳井さん(現・佐賀競馬 調教師)をはじめ福山の人たちとも交流がありました。交流競馬の時、声をかけていただいたりと楽しかったのを覚えていますね。あの時代を懐かしむ気持ちは今もあります」

益田競馬のクラシックタイトルは、厩務員時代にすべて獲得している藤原さん。
三場交流(園田・福山)でも、益田競馬の所属としては40年ぶりの勝ち星をあげる偉業を達成。
親子での快進撃は、益田競馬が廃止するまで続いた。しかし非情にも、廃止の日は訪れる。

「甲子園じゃないですが、益田競馬の馬場の砂を瓶に詰めて持ってきました。今も自宅に飾っています。南関東に引っ越してきてからも『益田競馬、再開されるんだって!』という夢を何度も見たほどです。そんな場所がなくなってしまうのは寂しいですね」

当初、廃止になってからの補償があまりないという噂もあったが、蓋を開けてみるとスムーズに話が進んだ。御神本騎手などは廃止前の早いうちに大井に移籍するなど、次なる活躍の場を見つけていったという。「きっと、他場での教訓をいかしていたのでしょう。あとは、ゴネてもしょうがないという益田競馬の人々の気質もあった気がします」と振り返る。

「今も南関には20人以上は元益田競馬の関係者がいますね。あれから22年経っていますが、南関に来た仲間は誰もやめていないんじゃないでしょうか。益田を経験しているから、浦和は天国のような環境ですしね(笑) 浦和競馬場では、ボロ(馬糞)を業者がとりにきてくれるんです。益田は自分たちで掃除して集めて、農家の方々に配りに行っていましたから…」

給与面でも、移籍後は大きな改善があった。益田競馬はどんなに多くの馬を担当していても固定の月給制だったが、浦和は頭数分だけ報酬も増える。飼料事情なども、益田と浦和とでは大きな差があったのは事実である。

「こちらに来て寂しいなと思うことと言えば、他厩舎が明確にライバルという点でしょうか。益田競馬には競馬場全体が仲間という雰囲気がありました。あの頃は隣の厩舎で疝痛になった馬が出たらみんなで手伝ったものですが、こちらでは様子を見に行くと『野次馬じゃないんだから』という雰囲気になってしまいます。まあ、勝負の世界ですから悪いというわけではないんですけどね」

「益田競馬が廃止になったのは、技術がなかったからではない!」

「ひとつ声を大にして言いたいのは『益田競馬が廃止になったのは、技術がなかったからではない』ということです。今こうして南関で渡り合っている元益田競馬の関係者は少なくないですが、益田競馬には彼らよりもさらに高い技術を持つ面々がいました。日本一小さな競馬場ではありましたが、レベルは決して低くなかったんです。そこを忘れないでいきたいですね」

益田競馬には、1歳馬を買い付けて自分達で育成をして競走馬として仕上げていくという風習があった。育成を専門的な牧場に任せるのではなく自ら育て上げるというのは、既に競走馬としてデビュー可能な馬たちを仕上げることと比べて、得られる経験の量が全く異なる。藤原さんはそうした風習を振り返り「人を乗せたことがないところから始めるので、毎年のように育成の事故で誰かしらが骨折していました」と笑う。

「まだ舵が効かないような馬を制御できるように調教するんです。うちの厩舎では馬主さんに依頼されて毎年4〜5頭を買っていましたが、本当に野生馬のような馬たちでしたね(笑) 父が『この中でお前の良いと思った馬を担当しろ』と言うもので、毎年プレッシャーを感じながら馬を選んでいました。調教師の息子というポジションのおかげで先に選ばせてもらえるわけですが、実はどの馬も購入金額に大きな差はありませんでした。ぱっと見だと似たり寄ったりにも感じられる馬たちから良い馬を選ぶのは、結構難しいものです。その甲斐あって、相馬眼は養われましたね。僕が乗り付け・育成から担当した馬でも、益田三冠競走は8勝くらいしています」

また、益田競馬は、身体の状態が万全でない馬がやってくることも少なくなかった。現場では、そうした馬たちを"もう一度立て直して、競走馬としてやり直させる"ことも求められてくる。藤原さんは、益田競馬の関係者について「脚を痛めている馬でもどうにかして再び活躍させる技術があった」と語る。

「父は、馬を扱う人間として心から尊敬できる人でした。子供の頃から『馬に全てをささげているな』とは思っていましたが、間近で見るようになってからは驚くことの連続で…。20歳からは自然と、父親に敬語を使うようになっていました。なかなかあそこまでは馬に人生をささげられないような、すごい人だな、と。お酒も飲まないですし、馬のことしか考えていない人でした。管理する40頭の馬すべてに管理日記をつけていましたし、細かいことまでよく覚えているんです。日本全国を見渡しても、あそこまでの人がどれほどいるか…」

益田競馬時代に調教をつける藤原さん

場所は無くとも消えることのない"益田魂"

藤原さんが浦和で調教師になった頃、川崎に移籍していた沖野騎手が『年に一回くらい、元益田競馬の関係者で集まろう』と呼びかけたのが、益田会の始まりだ。店選びは、南関のトップジョッキーでもある御神本騎手が担当するのだとか。

「普段から益田競馬のグループチャットは賑わっていますね。誰かが重賞を勝つとお祝いの言葉が飛び交います。自分もスピーディキックで浦和桜花賞を制した時などにはメッセージをたくさんいただきました。飲み会も欠席したことはないですし、今も良い仲間ですね」

藤原さんの耳に『益田競馬場の跡地にあった"東京シティ競馬益田場外発売所"が廃止になるかもしれない』という一報が届いたのは、2023年10月のことだった。ネット馬券などが主流となった現代において、場外馬券場の需要は減り続けている。元益田競馬の関係者も『なんとか残せないものか』と、立て直しに向けて試行錯誤はしたそうだが、12月に入って廃止が決定した。

「廃止決定と聞いた時は『もっと早く聞いていれば…』という無念さがありました。JRAの馬券も売っていませんでしたし、厳しい状況だったのは理解しています。ただ、益田という場所に競馬場があったという証拠がなくなったという寂しさがあります。場外馬券場としてでも建物がある限りは『ここは昔、競馬場だったんだって』という話が出たはずですが、その建物もなくなってしまうとなると…」

"東京シティ競馬益田場外発売所"の最終営業日が近づき、SNSでその旨を発信をした藤原さん。SNSでは大きな反響があり大きく周知されることとなったが、藤原さんは「これが益田競馬場にできる最後の貢献かな」と語る。

「SNSなどが発達した現代社会ですから、記憶や記録に残していくことはできるはずです。最後の場所がなくなってしまった以上、皆さんの記憶から消えないように益田会の発信は続けていきたいですね」

最終日を迎えた際の投稿には「絶対忘れないよ!」「これからもチーム益田を応援し続けます!」といった反応もあり、目頭を熱くしたファンも少なくなかった。スタッフにはいつも敬語で呼び捨てなどもしないように気をつけているという藤原さん。「義理人情をなくしたくないですね」と語るその信念には、益田競馬で培われた魂がしっかりと宿っている。

そして"東京シティ競馬益田場外発売所"が廃止となった翌月、フェブラリーS。
そこには藤原さんの管理するスピーディキック──鞍上には、御神本訓史騎手の姿があった。
2年連続"チーム益田"で挑んだ中央G1の舞台。結果は13着だったが、パドックやスタンドにはスピーディキックのグッズを身につけたファンも多く、改めて存在感を示す挑戦だったことは間違いない。

これからも次なる目標に向かい、"チーム益田"の躍進は続いていく。


【参考】
発売最終日のニュース映像はこちら

消えゆく競馬の灯「日本一小さな競馬場」場外馬券売り場廃止へ 発売最終日の関係者に密着(島根・益田市)|FNNプライムオンライン(https://www.fnn.jp/articles/-/650347

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