競馬にはドラマがあります。

時に笑い、時に悔しがり、時に怒り……

そして、時に涙する。

そんな風に感情が動かされるのも、真剣勝負だからこそ。

前回のテーマトーク「私が競馬で泣いた時〜悲しみの涙編〜」に引き続き、今回は「私が競馬で泣いた時〜感動の涙編〜」をお届けします。


過去の相棒に贈るG1制覇を見届けたとき。

競馬で泣いた日。──私がそれを語るためには、ある1頭の馬と1人の男に焦点を当てねばならない。

馬の名は、テイエムオペラオー。

20世紀最後……あるいは21世紀のはじめ、競馬界に君臨した『覇王』である。彼の数々の輝かしい功績は、今更詳しく述べる必要はないだろう。

自他共に認める当時の『現役最強馬』でありながら、レースで手綱を握ったのは当時20代前半の若手ジョッキー・和田竜二騎手ただ一人だけだった。所属していた厩舎の恩師であり、オペラオーを管理していた岩元市三調教師(当時)の「弟子を一人前の騎手に育てたい」という想いに応え、人馬一体で一時代を築いた。

オペラオーが引退する際に和田騎手は、

「オペラオーにはたくさんの物を貰ったが、あの馬には何も返せなかった。これからは一流の騎手になって、オペラオーに認められるようになりたい」

とコメントし、ひとつの誓いを立てた。

「再びG1を勝つまでは、オペラオーには会いに行かない」

しかしその先に待っていたのは、高く、そして長くそびえ立つ「G1の壁」だった。

何度、何十度挑んでも、どうしても勝てない。2012年にワンダーアキュートとのコンビでJBCクラシックを勝ち、交流G1のタイトルを手にしたものの、それでも中央のG1ではあと一歩及ばなかった。40歳にして年間94勝のキャリアハイを打ち立てた2017年ですら、G1の勝ち星にだけは歯がゆいくらいに手が届かなかった。

そして、2018年。

5月も半ばを過ぎた頃、突然の報せが届く。

5月17日、テイエムオペラオー急死。

ついに相棒との再会は叶わなかった──かに思われたが、実はオペラオーが亡くなる前、和田騎手は一度彼に会いに行ったことがあったそうで、その時は挨拶代わりにひと噛みされたらしい。「中央でG1を勝って出直してこい」という愛のムチだったのかも知れない。

結局「G1を勝ってオペラオーに会いに行く」という誓いは果たせぬまま、最愛の相棒は天に旅立ってしまった。

それから約1ヶ月後の6月24日。

和田騎手は宝塚記念でミッキーロケットに騎乗していた。

3歳の秋から長く手綱を取り続け、癖を熟知していた『お手馬』だ。

この日は奇しくも、テイエムオペラオーがメイショウドトウに初めて破れた17年前の宝塚記念と同じ日付であり、その時オペラオーが入った4番枠に──偶然にも──ミッキーロケットが入ることになった。

ミッキーロケットはスタートを決めると好位につけ、そのままじっと機を伺う。4コーナーを回ると、和田騎手がちょうど馬一頭分だけ外に出し、最短距離で直線に入って先頭に躍り出た。その後ろから猛然と迫ってきたのは、香港から参戦したワーザー(Werther)だった。

2馬身、1馬身と差を詰められ、ここまでか……と私が諦めかけたその時。

ミッキーロケットは再び加速し、ワーザーの追撃を振り切ろうとしたのだ。

3/4馬身、半馬身、1/4馬身とワーザーが必死に差を詰めるものの、先頭だけは譲らないミッキーロケット。

その光景に、私は在りし日の『覇王』の姿を重ねていた。どれだけ僅差でも、必ず先頭でゴールに飛び込んできたあの姿を。

そしてミッキーロケットと和田騎手がクビ差粘り切り、先頭でゴール板を通過したとき、ウインズにいた私は人目も憚らず号泣した。

JRA史上、最長間隔となる17年ぶりの中央G1制覇。

それは単なるひとつの白星ではなく、亡き最愛の相棒に捧ぐ、長きに渡った努力と執念の結晶だった。

文:ほてらみ

障害の名実況とともに、競馬の大ファンに。

同級生の騎手を志す子に、競馬を教えてもらった記憶がある。以来G1レースは欠かさず見る程度には、競馬に触れてきた。だが、それでも自分が競馬にどっぷりハマるとは、夢にも思っていなかった。

その日、私は本当にたまたま、テレビでレース中継を見ていた。まだ見たことがなかった、障害の大レースだ。

レースがスタートすると芦毛の馬が異常な大逃げを打つ。道中で2番手とは4〜5秒程の差。逃げ切りだろうと思いはじめた。

ここで「おや?」と気がつく。一頭の鹿毛が追いかけてきていたのだ。

だが、絶望的な差だ。

これでは届かないだろう……と思いながらも、何故かその馬から目が離せない。

3コーナー付近で、画面が切り替わる。

「嘘!?」

差が明らかに縮まっていた。 

『さあ、前王者か?現王者か?』

2頭の息詰まる攻防。

直線、みるみる差が縮まる。

まさに意地と意地のぶつかり合い。

呼吸さえ忘れて、見入る。

そして、私が生涯忘れることのないだろう馬の勝ち名乗りがあがった。

『オジュウチョウサン、ゴールイン!』

瞬間、拍手を止められなかった。視界が歪んで画面が見えなかった。頬をつたうそれが涙だと気づくのに、時間はかからなかった。

名前も知らなかった1頭の鹿毛、オジュウチョウサンに私は魅せられてしまった。

その後彼は数々の偉業を成し遂げ、その後平地挑戦という道を歩んでいる。賛否はある。だが彼の進む『誰も知らない道』を、私は応援せずにはいられない。夢を見ずにはいられない。頑張れと言わずにはいられないのだ。

結びに一つ。

競馬を知らない人によく聞かれる。

競馬って面白いですか、と。

私はそういう人に自信を持ってこう返す。

『まずは第140回中山大障害を見てほしい。競馬の魅力が詰まっているから』

文:ジャーマン

父の無念を晴らす快走〜2008年日本ダービー・ディープスカイ〜

2008年6月1日。

その日は、世代の頂点を決める舞台・東京優駿(日本ダービー)の第75回が開催される日だった。

そこからさらに遡ること、7年。

皐月賞を断然人気に応えて制し、「まず一冠」とまで言われた「超光速の粒子」アグネスタキオンが、私は大好きだった。

彼は、当時荒んでいた私に、色々なものをくれた。紛れもない名馬だった。

だから、屈腱炎の報に触れた時、私は目の前が真っ暗になったような感覚に陥ったものだ。

それから7年が経ち、皐月賞でタキオン産駒の芦毛・キャプテントゥーレが勝った。

しかしその矢先、キャプテントゥーレは骨折。

悲しみに暮れる中、バトンを受け継ぐようにマイル王の座に上り詰めたのは、同じタキオンの子にして父の写し身のようにまばゆい栗毛を纏った優駿・ディープスカイだった。

そして彼は、父が立つことのなかったダービーの舞台に、1番人気で臨んだ。

私には、どんな形であれ、彼は「完勝」するという確信があった。

そして迎えた、ダービー最後の直線。

全てを大外から呑み込もうとする栗毛馬がいた。

誰あろう、ディープスカイだ!

そして彼は、スマイルジャックに1馬身半差をつけて勝利した。

直線入り口で一瞬前が壁になってなお、大外から何もかもを置き去りにするあの異次元の末脚に、私ははっきりと父の面影を見た。

その瞬間、私は溢れる涙を抑えることができなかった。

父が、その舞台に立つことすらできなかった日本ダービーの舞台。その父の生き写しのような栗毛の優駿が、見事に躍動してみせたのだ。

あのダービーが行われた6月1日。

それは、私の誕生日でもあった。

あれから、もう11年が経った。

私は今でも、あのダービーを「最高の誕生日プレゼント」だったと思っている。

文:Liffle

思い出の名馬が復活勝利を収めた時

2002年2月2日、京都競馬場。

気になる後輩の女の子を誘い出す事に成功していた。

男の性で、いい所を見せようとするものの、惜しいとも言えない大外れが続く。

薄っぺらくなった財布を抱えて迎えた準メイン、エルフィンステークス。

パドックで一頭の馬に目が行った。

チャペルコンサート。

出走馬の中で一番の小柄。しかし青鹿毛の馬体が、やけに恰好よく見えた。

他はわからないけども、この子が勝つ。

……そう思って彼女の単勝を買った。

結果はハナ差で1着。

写真判定が解けた瞬間、後輩とその場で飛び上がって喜んで、ファストフードのお店に向かった。

そんな楽しい思い出から、彼女の馬券を買い続けた。

あの日以来、チューリップ賞3着、オークス2着に入るがそれ以後は馬券どころか掲示板すら飾れなくなる。そんな日々が1年も続くと「もう無理だろうなぁ」と、彼女の馬券を買わなくなった。

しかし、再び彼女の馬券を買う日が突如やって来た。

2004年7月4日、WINS難波。

メインの米子ステークスに彼女の名前があった。

紙上には前走12着と共に芳しくない着順が並ぶ馬柱。

だか、この馬柱を見た瞬間──あの京都で感じた、いや、それ以上の──何かを感じた。

今、彼女の馬券を買わなかったら一生後悔する。

そう思うとATMでお金を下し、文字通り「有り金全部」、彼女の馬券に投じた。

結果は半馬身差で1着。

オースミハルカを交わして先頭に立った瞬間、突然涙腺が全開して涙が零れた。

好きだった馬の2年5ヶ月振りの勝利をこの目で見られた、声援を送れた、そんな彼女の馬券を買えた。

馬券が当たった以上の、嬉しさ。

それが涙の理由だった。

あれから17年。競馬で泣く事はない。

次に泣く時は白山大賞典で地元馬が勝つ時……かな?

文:ヨドノミチ

震災後、勇気をくれた障害馬の激走に。

東日本大震災の後、ドバイワールドカップを勝ったヴィクトワールピサに勇気をもらったという人は多いと思う。もちろん私もその一人だ。

しかし、今日はもう一頭の、私に勇気をくれた馬のことを書きたいと思う。

2011年の阪神スプリングジャンプは、東日本大震災の影響で、当初の予定から9日後に延期された。

このレースに、ずっと応援している馬が出走してきた。

オープンガーデン。

父はかつての障害王者ゴーカイ。

ゴーカイのファンだった私が、その産駒で、しかも障害競走を走るオープンガーデンを応援するようになったのは必然だった。

オープンガーデンは、J・GⅠで2着1回、3着2回と大舞台でたびたび好走する一方で、掲示板にも載らない大敗を喫することもあった。

大敗する時には共通点があった。

『3か月以上の休み明け』。

彼は使いつつ良くなるタイプで、裏を返せば休み明けはからっきしだったのだ。

2011年阪神スプリングジャンプに出走したオープンガーデンは、前年の中山グランドジャンプ以来、11か月ぶりの出走だった。

ずっと応援してきたからこそ分かる。

さすがに、今回は厳しい。

無事に周ってきて、次の中山グランドジャンプに繋がるレースになってくれれば……。

しかし、テレビ越しに観た彼の走りは、力強いものだった。

震災があってから、先の見えない漠然とした不安感から、世界から色が無くなったように感じられていたのだけれど、彼の走りを見ているうちに、世界に色が戻ったように感じた。

オープンガーデンが最終障害を飛越して、先頭のテイエムトッパズレを捉えたとき、自然と涙が溢れた。

この涙は、嬉し涙とも違う。

きっと、いろんな感情が複雑に絡み合った涙だったのだと思う。

文:びくあろ


さて、皆さんいかがでしたでしょうか?

競走馬の走りに感動し、涙し、勇気づけられる──競馬を応援していると、そんな経験に巡り合う事があります。

そしてこれからも新たなる感動が、きっと競馬場で待っている事でしょう。

編集:緒方きしん
写真:Horse Memorys、ゆーすけ

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