[インタビュー]1994年、中津競馬でデビュー。重賞戦線でも活躍した女性騎手、小田部雪さんが振り返る当時の思い出。

佐賀競馬場に、新たな競馬新聞が誕生した。

『日本一』が休刊となり、それに代わるように『馬物語』という新聞が発行されるようになったのである。

新しい新聞の登場だけでなく、その予想陣の顔触れに驚かれた方もいらっしゃるかもしれない。そこには2人の元騎手の名前が記されていた。兒島真二さんと、小田部雪さんである。

今回は、いま話題となっている小田部雪さんにインタビュー。全3回で、騎手時代の思い出や引退してからの日々などについて伺っていく。


小田部雪さんは1976年6月4日生まれ。中津で調教師をされていた小田部磨留男調教師を父に持ち、兄1人と弟2人という4人きょうだいの、上から2番目の一人娘だった。

──騎手を志したのは、いつ頃で、きっかけは何だったのでしょう?

「中学2年の時です。進路を考えた時にどうしようか……と悩んでいたのですが、中津でデビューされる直前の安東章騎手がインタビューを受けていました。それを見て『カッコイイな!』と思ったんです。それが騎手を目指したきっかけでした」

──お父様は調教師ですし、ご家族は喜ばれましたか?

「いいえ、大反対されました(苦笑) 特に母は『大ケガするかもしれない』と心配していましたね。それに当時はまだ女性騎手にとって厳しい環境といえる時代でした。なので2時間ぐらい説得されたのですが……最後は、両親が根負けして認めてくれました」

小田部さんの兄は騎手を志したものの、身長が伸びてしまい断念。そして2番目の小田部さんが騎手になり、後に弟も中津で騎手となる。ご両親を説得して騎手を目指すことになった小田部さんは、あるものを手渡されたという。

「父が、ジャージを買ってくれたんです。それを着て、学校に行く前の朝5時から7時まで厩舎作業をやりました。主に寝藁の上げ下げをやったのですが、筋力をつける目的だったようです。騎手課程は一回で合格しました。勉強はイマイチでしたけど、運動神経は良かったのかもしれません(笑) 厩舎での生活から、騎手候補生の仲間たちと栃木県での寮生活が始まりました」

──騎手学校時代の思い出はありますか?

「今でも覚えているのは、朝5時半に起床、点呼のあとに各自の持ち場を掃除していたことですね。そしてその後、体育館に集められてトレーニングをします。その日担当する教官によってメニューは違うのですが、腕立て100回とか、綱登りを朝起きたばかりの体でやるのは大変でした。ストレッチだけの日もたまにあったのですが、その時はラッキーと思いました(笑)」

──当時、女性で騎手を目指すというのは珍しかったんでしょうね。

「髪型は『肩にかからない長さ』がルール。同じ学年には女性の騎手候補生もいました。ただ、ある日突然いなくなってしまったんです。授業で、補助なしで馬に飛び乗ることをやったのですが、その子は1週間やっても出来なかったので、辛かったのかな…。同部屋だったのですが、急に1人になってしまい、淋しかったことも覚えていますね」

──学校を辞めたいと思ったことはありましたか?

「ええ、何回も(笑) 親に電話して話を聞いてもらっていたのですが、母親は決して『頑張れ』とは言いませんでした。逆に『帰っておいで』と言うのですが、そう言われると“じゃあ、もう少し頑張るか”“簡単に辞めちゃダメだ”と思い直すようにしました」

──1994年、17歳で騎手デビュー。初騎乗はイイデメアリーという馬でした。

「はい、よく覚えてます。この馬の厩舎には所属の騎手の方もおられたのですが、父が頼み込んで私が乗れることになったんです。勝てるはずの実力がある馬でしたし、周りからの期待もすごく大きかったのですが……3着に負けてしまいました。というのも、私がペース配分を間違えてしまったんです(苦笑) 上手く追えませんでしたし、馬もバテてしまい、期待を裏切ってしまいました」

──ただ、初勝利はこの翌日にすぐ達成されましたね。

「騎乗していたのは、ミヤノコマンドという馬でした。この馬を担当されていた厩務員さんは元騎手の方。調教もこの方がつけられていて、具体的に『こう乗ったら良いよ』というアドバイスも頂いてレースに臨みました。勝てた時はホッとしました」

──デビューした1994年4月9日は、かなり人も集まったと聞きます。

「その日はマスコミの取材もすごく多かったです。テレビや新聞、雑誌といった様々な媒体の方がたくさん来られて、まるで芸能人の記者会見みたいでした(笑)」

──騎手を目指されたきっかけは、先輩の安東章騎手がインタビューを受けている姿を見て、と仰っていましたが、今度は小田部さんがその立場になられたわけですね。

「確かにそうなんですけど……自分がインタビューをされる側になると、とても大変でした(笑)」

無事にデビューや初勝利を達成した小田部さんは、騎手としての実績を着実に積み上げていき、1998年にワシュウタカハルとのコンビで重賞2勝。2300mのアラブ新春賞と、1760mのガーネット特別を勝利した。

「ワシュウタカハルもよく覚えてますよ! すごく行きたがる馬でした。道中、掛かってしまうことがあるので、折合いをつけるのが大変で……。ガーネット特別は益田競馬場との交流競走で、かなり強い馬も遠征してきたのですが頑張ってくれました。無事に勝てた2つの重賞ももちろん鮮明に記憶していますが、それと同様に印象に残っているのは同じ98年のアラブチャンピオンです。有馬さん(澄夫騎手)が乗ったアイコマキングに負けてしまいました。個人的にどうしても勝ちたいと思っていたのですが、結果として焦って仕掛けが早くなってしまい……とても口惜しい思いをしました」

──小田部さんは、他にもヨウメイカイカで重賞を制覇していますね。

「ヨウメイカイカでは中津菊花賞を勝ちました。ワシュウタカハルも、ヨウメイカイカも辻三郎調教師の管理馬でした。辻先生と父の厩舎は隣同士だったので、それが縁で私もよく辻先生の馬には乗せて頂きましたね」

──調教師をされていたお父様は、どんな方でしたか?

「とても厳しい人でした。改めて今、写真を見返しても怖そうな風貌ですが、その見た目通りに怖い人でした(苦笑) 食事の時も背筋を伸ばしていないと怒られましたし、挨拶の声が小さいと『そんな声じゃ、挨拶してないのと一緒だ!』と怒鳴られたこともありました。そうやって厳しく躾けてくれたことは、今では感謝しています」

──ご家族が関係者というのは、心強かったのでは?

「父が他の厩舎に頭を下げて私を乗せてくれたことは何度もありました。それに、佐賀競馬場に遠征した際には父と知り合いの調教師さんから騎乗依頼を頂いたこともありました。荒尾に移籍して所属した幣旗先生は父の弟弟子でした。そういう意味でも、父には大変助けてもらいましたね!」

そんなお父様の厩舎で乗り役をしていた当時、中津競馬場の雰囲気は「とてもアットホームだった」と小田部さんは振り返える。

「厩舎生まれ厩舎育ちだったので、小さい頃から顔なじみの関係者も多かったです。同級生のお父さんが厩舎関係者、ということもありましたし、家族ぐるみでお付き合いをしていた人たちも多かったです。私が騎手になっても関係者というより、親戚のおじさんみたいな距離感でもありました。もちろん会話する時は敬語は使ってましたけどね(笑)」

規模が小さい競馬場だからこその連帯感が生まれていた中津競馬場だったが、2001年に思いもよらぬ、まさに激震が走ることとなる。「中津競馬の廃止」という決定が下されたのだ。

次回は、その中津競馬の廃止について振り返っていただく。

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