エイシンガイモン - 越後の水があっていた、いぶし銀のマル外

現代競馬を根本から変えた、種牡馬サンデーサイレンス。1994年に初年度産駒が登場すると、翌年、わずか2世代でリーディングサイヤーを獲得。以後、2007年までその座を守り続けた。

一方、その登場とほぼ同時期に、強烈な存在感を放ち始めたのが外国産馬、通称「マル外」である。当時、クラシックに出走権がなかった3歳の外国産馬にとって、1996年に創設されたNHKマイルカップは、春の大目標。現在ではすっかり死語となってしまったが、第1回から外国産馬が6連覇し、別名「マル外ダービー」とも呼ばれていた。

ただ、年末に行なわれる2歳GⅠは、もちろん外国産馬も出走が可能。その舞台では、サンデーサイレンス産駒をはじめとする内国産馬vs外国産馬、はたまた外国産馬同士の熱き戦いが、毎年のように行なわれていた。

そんな、サンデーサイレンス産駒と外国産馬が登場しはじめた時期にいぶし銀の存在感を見せ、デビュー直後から、サンデーサイレンス産駒のライバルに恵まれすぎたのが、エイシンガイモンだった。

エイシンガイモンは、1995年10月、京都芝1600mの新馬戦でデビュー。

父のシアトルダンサーⅡは、米国無敗の三冠馬シアトルスルーの半弟という超良血。1歳セリで、1310万ドル(当時のレートで約31億円)という超高値で落札され、現役時は5戦2勝で終わったものの、良血ゆえに種牡馬入りを果たした馬である。

そんな超良血馬を父に持つエイシンガイモンは、米国産のマル外。単勝1.4倍という圧倒的な支持を集めたデビュー戦を、いかにもというスピードを見せつけ7馬身差の逃げ切り勝ち。まずは、無事に初陣を飾ったのだ。

続いて陣営は、次走に黄菊賞を選択。1番人気は、デビュー戦で、いきなりレコード勝ちを決めた、同じ外国産馬のスギノハヤカゼに譲り、サンデーサイレンス産駒のイシノサンデーが2番人気に続いた。

結果、この一戦を制したのはイシノサンデー。エイシンガイモンは、1馬身半差の2着に健闘し、3着のナナヨーストームとは5馬身の差。2頭のレベルが抜けて高かったことは間違いなく、相手が悪かったとしかいいようがないレースだった。

その証拠に、次走の白菊賞では、ナナヨーストームと再戦して7馬身差をつける完勝(2馬身差で2位入線のゼネラリストが4着に降着し、ナナヨーストームが繰り上がり2着)。黄菊賞の走りが本物だったことを証明し、3週間後、GⅠ・朝日杯3歳ステークスの舞台に立つため、勇躍、東上したのだ。

その大舞台で、関東馬を代表して待ち構えていたのは、またしてもサンデーサイレンスの逸材・バブルガムフェロー。デビュー戦こそ敗れたものの、折り返しの新馬戦と府中3歳ステークスを快勝した実力馬。関東No.1ジョッキーの岡部騎手と、No.1トレーナーの藤沢和雄調教師の“黄金タッグ”という点でも注目を集め、1番人気に推されていた。

対するエイシンガイモンも、現役No.1ジョッキーの武豊騎手を鞍上に迎え2番人気。武騎手と外国産馬のコンビで、サンデーサイレンス産駒との対決といえば、スキーキャプテンとコンビを組みフジキセキと対戦した、前年のこのレースと同じシチュエーション。燃えないはずがなかっただろう。

ゲートが開くと、ともに好スタートを切った2頭。予定どおり、バブルガムフェローが逃げるジェブラズドリームの直後へつけたのに対し、エイシンガイモンは、これまでのレースとは一転。速い流れを見越してか、中団より後ろ7番手まで下げた。

しかし、そこは天才・武豊騎手。もちろん、好スタートを無駄にするために後方追走を選択したわけではない。レースは、その読みどおり11秒台のラップが連続し、前半800m通過が46秒5、1000m通過58秒3のハイペースとなっていた。だが、残り600mの標識を通過する前後で、少しペースが緩んだところを見逃さないのが天才ジョッキーたる所以。勝負所で、依然がっちり抑えたままのバブルガムフェローを外からあっという間に交わすと、出し抜けのような格好で先頭に並びかける。

さらに、4コーナーではライバルにフタをするような進路取り。仕掛けを遅らせた上でリードを開き、レースは最後の直線勝負を迎えた。

直線に入り、リードを2馬身半に広げて逃げ込みを図るエイシンガイモン。一方のバブルガムフェローも、ようやく坂下でジェブラズドリームを捉えて2番手に上がり、確実に盛り返して前との差を詰める。

そして、残り100m。ついにエイシンガイモンと馬体が合い、そこから2頭のマッチレースになると思われたが──。

やはり、サンデーサイレンス産駒の実力は恐るべきものだった。そこからぐいっと前に出たバブルガムフェローは、体半分リードを取ると、最後は追われないまま悠々とゴールイン。天才ジョッキーの奇襲を跳ね返し、見事GⅠタイトルを手にしたのだ。

ただ、武騎手からすれば、またしてもサンデーサイレンスのエース級が相手で強すぎたとはいえ、2年連続で勝ちを阻止されたのだから、悔しさもひとしおだったはず。結果、あれから四半世紀が経った2021年現在でも、2着は5回あるもののこのレースを勝てていないことから、『競馬界の七不思議』とも言われている。

このレースを最後に、2歳シーズンを4戦2勝2着2回で終えたエイシンガイモン。2度の敗戦は、いずれもサンデーサイレンス産駒のクラシック候補が相手で、この馬もまた、世代トップクラスの実力の持ち主といって間違いなかった。翌春のクラシックに出走権はないものの、5月には、第1回を迎えるNHKマイルカップという明確な大目標がある。そのビッグタイトルを獲得するため、始動戦に選ばれたのが年明けの京成杯だった。

ところが、単勝1.7倍という圧倒的な支持を集めたこの一戦で7着に敗れる。続くきさらぎ賞では、またしてもサンデーサイレンスの良血で、それぞれ兄姉にクラシック勝ち馬をもつロイヤルタッチ・ダンスインザダークの後塵を拝し3着。

その後も微妙に歯車が狂ったまま、クロッカスステークスで3着に敗れると、NHKマイルカップのトライアルに生まれ変わったニュージーランドトロフィーで2着。さらに、本番のマイルカップでは、同じシアトルダンサーⅡ産駒の外国産馬、タイキフォーチュンに敗れ8着。

充実していた前年の秋から一転。年明け以降、実に5戦連続で勝てないレースが続いたのだ。

ここで陣営は、中6週とこれまでよりもやや間隔を開け、オープンの菩提樹ステークスに出走することを決断する。出走馬は、最終的にプラウドマンが取り消し、8頭立てと手頃な頭数。もちろん、GⅠ2着の実績馬など他にはいない。鞍上にも、朝日杯3歳ステークス以来となる武騎手を迎えて必勝態勢。それは、惜敗を繰り返すエイシンガイモンに、勝ち癖をつけてもらおうと選ばれたレースだったのかもしれない。

そんな陣営の気持ちに応えるように、エイシンガイモンは2着ヒシビートに3馬身差をつける完勝。実に7ヶ月ぶり、3歳となって初めての勝利を収めた。

デビュー以降、ほぼ月1回のペースで出走し、早くも10戦を走り抜いたエイシンガイモン。しかし、いまだ重賞のタイトルは手にしていないまま。そこで次走に選ばれたのが、当時、3歳の外国産馬には、お世辞にも似つかわしいとはいえない越後路のマイル重賞、関屋記念だった。

武騎手が継続騎乗したこともあってか、古馬との初対決にも関わらず、ファンからは単勝1.8倍の高い支持。出走12頭中、3歳馬はただ一頭という状況でもあったが、結果は、道中5番手追走から直線で抜け出す横綱相撲。シャインフォードの追撃を抑え、見事、重賞タイトルを獲得したのだ。

レース内容はもちろんのこと、賞金を加算できたこの勝利は非常に価値あるものだった。次なる大目標は、当然、秋のGⅠマイルチャンピオンシップ。ここで、ようやく夏休みが与えられ、前哨戦のスワンステークスから本番へと向かうステップが選択された。

──ところが。

3ヶ月の休み明けで出走したスワンステークスは、7着に敗戦。勝ち時計は、当時のJRAレコードとなる1分19秒3で、これは2021年8月現在でも、芝1400mの歴代5位タイという超優秀な勝ち時計である。ただ、そんなハイレベルの一戦を制したのは、1年前の黄菊賞で先着したはずのスギノハヤカゼだった。

すると、そこから調子が狂ってしまったのか、次走のマイルチャンピオンシップで17着に敗れると、3戦連続で二桁着順の憂き目に遭ってしまう。さらに、翌2月のすばるステークスでは、初のダート戦に浮上のきっかけを見出すも適性なく11着と大敗。

一方、かつて接戦を演じたバブルガムフェローとダンスインザダークは、それぞれ天皇賞秋と菊花賞を制し、ロイヤルタッチも皐月賞と菊花賞で2着。また、春に皐月賞を制したイシノサンデーは、秋にダービーグランプリを勝利すると、続けて年始の京都金杯も連勝。エイシンガイモンの不振とは対照的に、かつてのライバル達は、中央競馬の最前線で大活躍を見せたのである。

すばるステークスの後、さすがに休養に入ったエイシンガイモン。デビューから1年半で16戦を走破。それは、狙ったレースにほぼ予定どおり出走できたことの表れだったが、その裏の目に見えないところで、肉体と精神は悲鳴をあげていたのかもしれない。結局、休養期間は、これまでで最長となる5ヶ月半に及んだ。

その後、リフレッシュしたエイシンガイモンが再び姿を現したのは、朱鷺ステークスのパドック。1年前に重賞タイトルを手にした、新潟競馬場で行われるオープンのレースである。

休み明けで初の58kg。そして、初コンビの蛯名騎手と挑んだこのレースで、エイシンガイモンは、勝ったベルウイナーから0秒2差の3着に好走。復帰戦としては上々の内容で、そのまま、中2週の間隔を経て、連覇がかかる関屋記念に出走した。

朱鷺ステークスの再戦ともいえるメンバー。その中で1番人気に推されたのは、前年のエイシンガイモンと同じ立場となった、出走唯一の3歳馬ショウナンナンバー。エイシンガイモンがそれに続き、3年前の菊花賞で、ナリタブライアンの2着となったヤシマソブリンが3番人気に推されていた。

レースは、前半から11秒台のラップが連続する、平均よりも少し速い流れ。上位人気馬は、軒並み中団から後方に構え、直線は差し比べの展開となった。その中で抜け出したのは、朱鷺ステークスを勝利したベルウイナーと、3着だったエイシンガイモン。

しかし、休み明け2戦目の上積みがあったのか、それとも、よほど越後の水があうのか。エイシンガイモンは、前年を0秒7上回る上がり3ハロン33秒7の末脚を繰り出し、最終的にはベルウイナーに1馬身差をつける快勝。レース史上初の連覇を達成し、苦しみ抜いた末に、1年ぶりの勝利を掴み取ることに成功したのだ。

早期から活躍していたため、意外な気もするが、これがまだ4歳の夏。最も多くの競走馬が充実期を迎えるといわれる4歳秋を目前に控え、今一度、軌道に乗って大舞台へ。エイシンガイモンに携わる誰しもが、そういった青写真を描いていたはずだ。

ところが、その先に待ち受けていたのは、またしても長い長いトンネルだった。それは、『不振』や『スランプ』というよりも、『勝ちきれないレースが続いた』という表現のほうが、間違いなく正しい。

というのも、結果だけいってしまえば、関屋記念後に出走したセントウルステークスから、16戦も勝ち星に恵まれなかったのだ。ただ、いずれのレースにも見所があり、二桁着順を喫したのは、歴史的な不良馬場となった、翌98年の安田記念のみ(16着)。それ以外では、97年のマイルチャンピオンシップの8着が最低着順で、他はすべて7着以内。掲示板を確保したのも7回という内容である。

そしてなにより、大きなケガもなく、2年間で再び16戦を駆け抜けたことは、大変評価されるべきこと。これほど順調に、重賞レースに出走し続けることができる馬主孝行の馬は、そうそう現われないだろう。

そんな風にしてコツコツと積み上げてきたエイシンガイモンの頑張りや、陣営の努力を、競馬の神様は見ていたのだろうか。再び訪れた浮上のきっかけは、またしても越後の地に準備されていた。

99年の新潟大賞典。コンビを組むことになったのは、2年半前の京都金杯以来となる芹沢騎手。デビューから3戦連続で手綱をとった、エイシンガイモンを最もよく知るジョッキーの一人である。ただ、2000mに出走するのも京都金杯以来。マイル前後の距離が主戦場とみられていたためか、ここは14頭中の11番人気という低評価だった。

レースは、いつものように大逃げを敢行するポートブライアンズから、およそ7馬身離れた2番手につける展開となった。そして、勝負所から徐々に差を詰めて迎えた直線。3番手から進出してきたブリリアントロードとともに抜け出すと、距離もあってか、最後は競り合いから遅れたものの、見事3着に激走を果たした。

すると、これで勢いに乗ったか、続く初の北海道遠征となった函館記念でも、10番人気の低評価を覆し2着に好走すると、新潟記念でも3着に健闘。決して本職とはいえない2000mで、安定した走りを見せ続けたのだった。

それから1ヶ月後。秋初戦として迎えたのはセントウルステークス。59kgの酷量に、600mの距離短縮が懸念されたのか、エイシンガイモンは6番人気の評価。しかし、最も力を発揮できるのは、やはりマイル前後の距離。芹沢騎手とのコンビが復活して4戦目。そろそろ、勝利という目に見える結果が欲しい頃合いになっているのも事実だった。

ゲートが開くと、やや引き離して逃げるロードアヘッドを、2番手から追う展開となったエイシンガイモン。いきっぷりからみても、斤量や久々の1400m戦は問題ない様子で、なおかつ、前半600mの通過は34秒9のスロー。先行馬には、願ってもない流れだった。

そのまま迎えた直線勝負。サイキョウサンデーとともに、早目にロードアヘッドを捉えると、そこから激しい叩き合いが展開されると思われた。しかし、エイシンガイモンは、坂の上りで一気にライバルを突き放すと、後続から差し脚を伸ばすブロードアピールや、GⅡ勝ち実績のあるロイヤルスズカの追込みもまるで問題にしない。

最終的には、2着のサイキョウサンデーに3馬身差をつける完勝。6歳にして59kgを克服したエイシンガイモンは、自らの手で長すぎたトンネルに光を取り込み、ついに復活の勝利を手にしたのである。

今思えば、この馬に最も多く騎乗してきた芹沢騎手を背に、この瞬間を共有できたことは、人馬にとって、本当にたくさんのものが報われたように思えてならない。それほどに価値のある、そして素晴らしい3つ目の重賞タイトルだった。

そこから、さらに3つの重賞に出走したエイシンガイモンは、その後、障害にも挑戦。初戦こそ競走を中止したものの、通算41戦目、入障3戦目で見事初勝利を飾った。

ところが、新たな世界でさらなる活躍が期待された矢先、ついに脚元が悲鳴を上げる。脚部不安を発症し、やむなく登録抹消となると、地方の笠松、次いで高知で3戦した後に引退。28歳を迎えた現在、たくさんの重賞ウイナーとともに、高知県の土佐黒潮牧場で元気に過ごしているという。

通算44戦7勝。うち重賞3勝。デビュー当初は、サンデーサイレンスの逸材たちと激闘を繰り返しながらGⅠでも好走したエイシンガイモン。ビッグタイトルの獲得も間近と期待されたが、最後までそこに手が届くことはなかった。

一方で、9歳まで懸命に走り続け、中央では札幌競馬場以外の9場を走破。笠松・高知を合わせれば、実に11カ所の競馬場を駆け抜けたことになる。そんな、太く長い現役生活を送ったエイシンガイモンの姿。そして、いぶし銀ともいうべき渋すぎる彼の存在感は、当時から競馬を見ていたファンの脳裏に、今もしっかりと残っていることだろう。

引用元

土佐黒潮牧場ホームページ http://tosa-kuroshio.sakura.ne.jp/
土佐黒潮牧場Twitter https://twitter.com/kurokun917
競走馬のふるさと案内所 馬産地コラム 「エイシンガイモンを訪ねて~高知県・土佐黒潮牧場」 https://uma-furusato.com/column/53326.html

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