[追悼・藤岡康太騎手]藤岡康太騎手が魅せてくれた景色と、これからの日々を歩み続けるということ

2024年4月10日午後7時49分。

多くのファンに愛された藤岡康太騎手が私たちの前からいなくなってしまった。

享年35歳。

文字にするのも辛いほどの、大きくて深い喪失感と悲しみ。世代が殆ど同じで、誕生日も近い私にとって、同じ時代を生きてきた彼の訃報は耐えがたいものだった。訃報の届いたその日、私はそれが誤報であることを祈りながら、何度もスマホを確認していた。仕事が手につかず、落ち着くことはできなかった。

私にとって、笑顔が素敵で優しく穏やかな藤岡康太騎手が活躍する姿は、いつも眩しかった。

何者にもなれない私が学生生活を送っていたころ、藤岡康太騎手はもう騎手として、大人たちに交じって戦っていた。

熟練したベテランや地方出身・外国人騎手に囲まれて若手騎手が台頭しづらい時代。ジョーカプチーノで速いペースをただ一頭追いかけて、単騎で先頭に立ち、長い長い府中の直線をゴールに向けてひた走った姿は最高に格好良かった。若さ溢れる快活で積極的な手綱捌きに「もっと自由に、攻めたらいいんだ」と勇気をもらった気がした。

私がようやく就職した頃、彼はもう競馬場に欠かせない『レギュラー』となっていた。当たり前のように数多くのレースに乗って勝利を収めていた。彼の騎乗馬の馬番をマークシートに記入するとき、正統派のフォームで綺麗なレースをしてくれる彼への不安を抱くことは無かった。

その手綱捌きにラフなところは無く、爽やかで気持ちのこもったレースを魅せてくれた。フェアプレー賞を4度も受賞したのも納得だった。

同世代なのにどんどん一人前になっていく藤岡康太騎手の姿が大きく見えた。彼の活躍に「私も頑張らなきゃな」と刺激を貰った。私も職場の『レギュラー』となれるよう、仕事に邁進した。

とても敏感でエキサイトしがちで、ちょっとでも刺激したら飛んでいってしまいそうなディアデラマドレを、彼はとても上手に導いていた。大きな舞台でも乗り替わることなく、引退のその日までコンビは続き、3つの重賞タイトルを射止めた。藤岡康太騎手の繊細なタッチがとてもよく合う、お似合いのコンビだな、と私は思った。第1仔のクラヴェルを初勝利に導いた際、母との縁の中で出された嬉しそうなコメントに、私の顔は緩んだ。

シャトーブランシュに騎乗したマーメイドステークス。いつもジリっぽかった彼女が、この日は藤岡康太騎手のアクションに応えてグングン伸びて、ついには後のG1馬マリアライトを捕え切った。手が合うとはこういうことか、と思った。シャトーブランシュが重賞タイトルを獲ったこと、その勲章を手にキタサンブラックと交配されたこと、そしてイクイノックスを産んだこと。そんな何気ない繋がりの転換点にも彼はいたのだと、今さらになって気が付いた。

福永祐一騎手の負傷に伴いピンチヒッターでワグネリアンの手綱が回ってきたとき、私の周りでは期待より不安の声が大きかった。けれど日ごろから絆を深めていた人馬にとっては急遽の乗り替わりも何の障壁にもならず、とてもクレバーに阪神コースを駆け抜けて不安を吹き飛ばして見せた。ワグネリアンと藤岡康太騎手がレースでコンビを組んだのはこの1日だけだったけど、その後も裏方としてダービー馬がこの世を去る日まで支え続けた。

マカヒキ復活の日。「ひょっとして」が「もしかして」となり、「いける」となり、「がんばれ」に替わった最後の直線400m。藤岡康太騎手は目一杯マカヒキの手綱を押し込み、叱咤し続けてくれた。私はテレビの前で両手を結び、祈りながら声を上げていた。みんなが笑顔になった奇跡の復活はマカヒキを日常的に支えていた彼だからこそ成し得た偉業だった。

ドウデュースの追切映像を見る時、その背には派手なウェアを着た騎手がよく映っていた。他にはない独特な色味だったから、それが藤岡康太騎手であることはすぐに理解できた。武豊騎手が負傷したとき『藤岡康太騎手が代打に選ばれるのでは?』なんて噂も上がっていた。友道厩舎のダービー馬の隣にはいつも藤岡康太騎手が居た。彼は数々の名馬を支えた。

ムーア騎手の負傷で急遽の手綱となったナミュール。みんなの心配が現れるように単勝オッズがどんどん上がっていく中、私は「見返してやれ!」と心の中で思っていた。最後方を追走していた人馬が、馬群を捌き、弾けながらグイッと顔をのぞかせた姿にゾクッと鳥肌が立った。コロナが明けて「また短期免許騎手偏重の日々が始まるのかな…」と思っていた矢先に投じられた一石。海外のトップジョッキーに負けない技量を日本人騎手も持っていることを証明してくれた気がして誇らしく思えた。天を指さす彼の姿に目頭が熱くなり、自身ではなく相棒を称えるインタビューに心が温かくなった。かつて「ちょっと勝負弱いところがあるかな」なんて思ったこともあった藤岡康太騎手は、もうすっかり頼れるオトコになっていた。

とても難しそうなサンライズフレイムをあの手この手で育てていた。気難しくて粗削りだけど、それでも年齢を重ねて成長の跡が見えた。3月末のポラリスステークスをアッサリ勝ち切った脚力は相当で、この先、藤岡康太騎手がどんなスパイスを加えて彼を本物に仕上げていくのか、楽しみだった。この人馬が日本中を飛び回り、あるいは海を渡る姿を見たかった。

800勝を超えて、803勝目を挙げた1戦。藤岡佑介騎手が騎乗した単勝1番人気のメイクユーマインの単勝馬券を握り締めていた私にとって、背後から忍び寄る藤岡康太騎手騎乗のグランアルティスタの姿が恐ろしかった。見ごたえのある長い長い鍔迫り合いの末に果たされた何度目かわからない兄弟でのワンツーは弟の勝ち。入線後、二人は笑いあっているようにも見えた。未勝利戦で繰り広げられた闘いの余韻は、直後にこんなことが起きるなんて思っても居なかったのに、なぜだか週が明けても不思議と私の心に残っていた。

いつもよりリーディングの上位に居る今年は、いつも以上に、どのレースも勝負になるポジションにいる彼の姿を見た。35歳を迎え、もう一段の飛躍を遂げているようにすら思えた。年齢を重ねてもなお若々しく飛翔していく姿に「私も若く柔軟であらねば」と気が引き締まった。

インタビューで見る藤岡康太騎手も、ウイナーズサークルで見る藤岡康太騎手も、いつもニコニコして、可愛らしくて、穏やかだった。勝負師としてのギラつきをあまり感じないところが、彼の魅力だった。それでもレースに行けば、強気に進路を探し、馬を鼓舞していた。そして泥臭い裏方稼業でも腐らずに取り組む姿勢は、映像から、インタビューから、色々な記事から垣間見えた。

「誠実で実直な人なのだろうな」と私は思った。その所作で信頼を勝ち得て、馬を集め、チャンスを掴む姿は、何者でもないながらに日々をコツコツを過ごす私に勇気を与えてくれた。


当たり前のようにそこに居た彼はもういない。

今でもまた、ひょこっと当たり前のように帰ってきてくれるような気がしてならないけれど、それはもう叶わない。これから先、私は藤岡康太騎手の居ない競馬を、日々を、過ごさなければならない。

それはとても悲しくて、とても残酷で、途方もないことのように思える。この気持ちの置き所を見つけるのには、今少し時間が必要になるだろう。藤岡康太騎手の名前は、私の中で楽しい思い出と悲しい記憶の両方で刻まれていくことと思う。

そして私はきっと、藤岡康太騎手が居ない日々に慣れていくのだろう。

それは罪深いことのように感じる。だからこそ、私は藤岡康太騎手の思い出を大切に宝箱へしまい、良い思い出を良い思い出として留めていきたいと思う。彼が大切にしていた『競馬』という場所を、1ファンというちっぽけな立場であっても、矜持を持って守り支え続けるために。競馬から遠のいた人が、また戻ってこられるように。

藤岡佑介騎手に対して、これまで以上にエールを送ろうと思う。藤岡健一調教師の管理馬が無事に駆け続けることを祈りたいと思う。「藤岡康太」の名が戦績に刻まれた馬を探したいと思う。

週末は、たくさん笑いながら、楽しく馬を見て、活き活きと騎手を見て、お財布の限り馬券を買って、人馬の無事を祈って、大きな声を出しながら、命を懸けて戦う彼ら応援しようと思う。それがきっと藤岡康太騎手が愛した『競馬』を私もまた愛するということだと思うから。競馬の隣に在り続けるという、私なりの答えだと思うから。

藤岡康太騎手。ありがとうございました。今頃は天国でワグネリアンに跨って自由に駆けている頃でしょうか。

たくさんの感動を与えてくれたその名を、その仕草を、その笑顔を、私は忘れずにいたいと思います。涙を拭いて、競馬から離れることなく、1ファンとして、これからも。

藤岡康太騎手のご冥福をお祈りいたします。

写真:Hiroya Kaneko、はねひろ(@hanehiro_deep)、水面

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