遥かなる旅路のプロローグ - 北の大地でディアドラが広げた、世界への翼

ディアドラという存在は、一羽の気高い渡り鳥のように思える。

ドバイ、イギリス、アイルランド、フランス、サウジアラビア、バーレーン、香港──。海を越え、国境を越え、その土地ごとに異なる芝を踏みしめながら、世界中の強豪へ挑み続けた。日本調教馬が海外へ遠征することは、もはや珍しい時代ではない。それでも、これほど長く、一つの場所に留まることなく世界を巡り続けた馬は、ディアドラをおいて他に思い浮かばない。

その果てしない足跡を振り返るとき、私の胸には、いつも一つの鮮烈な夏の記憶が蘇る。

2018年、札幌競馬場。

それは、世界を巡る壮大な旅路へと再び羽ばたく前に、ディアドラがほんのひととき、日本の大地へ舞い降りた夏だった。

前年の秋華賞を制し、春のドバイターフで世界の強豪相手に3着。勝利には届かなかったものの、異国の地で見せた強烈な末脚で、世界との距離が決して遠くないことを証明してみせた。

「この馬は、きっと海の向こうでも戦える。」

そんな期待を、多くの人が抱き始めていた頃だった。

その期待を確信へ変えたのが、さわやかな風が吹き抜ける北の大地で行われたクイーンSだった。

夏の札幌は、秋へ向かう実力馬たちが羽を休め、力を再び蓄える場所だ。

同期のオークス馬ソウルスターリング、重賞戦線を賑わせてきたフロンテアクイーンら、力ある牝馬たちが顔を揃えた一戦は、ディアドラの現在地を測る舞台として申し分ない顔ぶれだった。

柔らかな陽射しが洋芝を照らす札幌競馬場。その穏やかな景色とは対照的に、勝負は一瞬だった。ゆっくりとしたスタートからじっくりと後方で脚を溜めたディアドラは、4コーナーで大きく外に持ち出される。前を行く実力馬たちの激しい攻防も意に介さないように、ルメール騎手が軽く合図を送ると、その瞬間に景色が変わった。

短い札幌の直線。弾むような完歩で、一歩、また一歩と前を行くライバルたちを飲み込んでいく。

あっという間に先頭へ並びかけ、抜け出す。

そして、そのまま後ろを振り返ることなく、洋芝の上をどこまでも軽やかに駆け抜けていく。躍動する大きなストライドと、最後まで乱れることのない軽やかなフットワーク。北海道の爽やかな夏を全身で楽しむようなその走りが、美しく見えた。

あっという間につけた着差は3馬身。その数字以上に、能力の違いを鮮やかに示す完勝だった。

──どこまで行けるのだろう。どんな景色を見せてくれるのだろう。

そんな不思議な高揚感が胸を駆け巡ったことを、今も鮮明に覚えている。

秋華賞を制したあの日からも、ドバイで世界を驚かせたあの日からも、さらに一段進化した強さ。この日、ディアドラは、自らが日本競馬を背負って海を渡る存在であることを、誰の目にも鮮やかに刻みつけた。

その後、ディアドラは再び、そして今度は本格的に、日本から飛び立つことになる。

ドバイへ飛び、香港へ巡り、その後はニューマーケットに拠点を置いた。そして2019年の夏、イギリスの伝統あるGⅠ・ナッソーSを制覇。日本調教馬として初めて英国伝統の栄冠をその手に抱いた。

新型コロナウイルスの猛威により、国境を超えることが困難を極めた時代にあっても、彼女はただ一人、異国の地で走り続けた。泥まみれになりながらアスコットの坂を駆け上がり、秋の風を浴びながらレパーズタウンを駆け、世界屈指の強豪たちとサンダウンの長い直線で競い合った。

画面越しに見るその姿は、時に孤独で、時に過酷に見えた。

そんな彼女の気高く力強い走りに、どれほど多くの日本のファンが勇気づけられ、胸を躍らせただろう。勝敗だけでは語り尽くせない挑戦の積み重ねが、日本馬の可能性を少しずつ広げ、多くの競馬ファンの心に残った。それは紛れもなく、彼女にしか歩めない、気高く、孤独で、美しい足跡だった。

あのクイーンSは、大海原へ向かう一羽の渡り鳥が、その翼で海を越えられることを、私たちに確信させてくれた夏だったのである。

だからこそ、彼女の物語を紐解くとき、私の脳裏には今でもあの札幌の風景が一番に浮かぶ。

優しく降り注ぐ夏の陽射し。洋芝の上で心地よさそうに弾む軽快なフットワーク。ライバルたちを置き去りにした、あの眩しい直線。あの日、札幌で見たディアドラの背中は、これから始まる果てしない旅路を、誰よりも軽やかに見据えているように思えてならない。

写真:s1nihs

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