その馬、凶暴につき - "噛みつき癖"を持つシンコウウインディが制した、GⅠ昇格第1回目のフェブラリーステークスを振り返る。

始まりは、いつもワクワクする。

イベント、スポーツからTVドラマに至るまで、「第1回目」というものは盛り上がるものだ。

ティザーサイトの開設やティザームービーなどの事前プロモーションや、カウントダウンイベントがあれば、期待は更に膨らむ。

2007年第1回目の「東京マラソン2007」が開催された時、たまたま友人が出場したので応援のため沿道を駆け回った。前もってプロモーション効果で気持ちが高まっていたものの、沿道の盛り上がりは想像以上だった。友人の通過を見るだけでなく、次々と通過するコスプレ選手や見たことのあるユニフォームの選手を見送るだけでも沸き立ったのを覚えている。東京マラソンはその後も盛況で、コロナ禍で一般参加の部が中止されたり、延期による欠番大会(2022年)があったりしたものの、東京に経済波及効果をもたらす春のスポーツイベントとして定着しているように思う。

沿道で東京マラソンを見たのは、その後の友人の参加が無かったこともあり、第1回大会のみ。しかし「第1回東京マラソンを沿道で見た」ことが、私のささやかな誇りとして記憶にしっかりと刻まれている。


レース体系が確立されている競馬の世界では、なかなか「第1回」を競馬場で観戦できる機会は稀だ。伝統的なクラッシックレースの第1回なんて当然ながら生まれる前のこと。記憶の限りでは、G1レースの第1回目をリアルタイムで初めて見たのが、1996年の第1回秋華賞だ。エアグルーヴが圧倒的人気で初代秋華賞馬になると思われていたのに、直線の追い込み不発。終始好位につけていたファビラスラフィンが押し切っての戴冠、4歳秋の女王に就いた。個人的には第1回秋華賞馬は女王エアグルーヴでないとやや拍子抜けだなと思っていたものの、ファビラスラフィンは次走のジャパンカップでデットーリ騎乗のシングスピールとの死闘でハナ差の2着、「第1回秋華賞馬」としての実力を存分に示した。

 第1回では無いが、ダート重賞初のG1レースとしてG2から格上げされたフェブラリーステークスが最初に施行されたのが1997年2月。この記念すべき中央競馬初のダートG1レースを、私は雨上がりの府中でしっかりと記憶に刻んだ。

フェブラリーステークスの歴史を紐解く。

1990年代前半は、まだまだダート馬不遇の時代だったように思う。ダートの名馬としてその名を歴史に名前を刻もうと思えども、戦う舞台が皆無といえる時代。札幌記念(1990年より芝で施行)に加え、1984年にダート重賞レースを新設、2月にフェブラリーハンデ(現フェブラリーステークス)、12月にウインターステークス(現東海ステークス)が組み込まれた。しかし、それらはダートレースの体系を強化するというより冬場の盛り上げ策としての要素もあった。しかし同時期に大井競馬の帝王賞への中央所属馬参加も始まったことで、これらのレースにダートを主戦とする馬たちは狙いを定めた。

90年~91年にナリタハヤブサが登場し、きさらぎ賞3着、スプリングステークス2着の実績を持ちながら4歳(現3歳)暮れにダートに転身、ウインターズステークス(2回)フェブラリーステークス、帝王賞のダート重賞を制覇してみせた。しかし、誰もが知るような歴史に刻まれる名馬とは言い難いのがその当時のダート馬のポジション。今の時代に登場していれば、全盛期には地方交流も含めダート重賞を総なめするくらいの勢いのある馬だったように、私は思う。

1995年、中央競馬地方競馬問わず全国各地で中央地方指定交流競走が設けられるダート競馬の改革がスタート。更に中央地方交流重賞競走は、1997年に全国的な統一格付基準が導入されたことにより、以降はダートグレード競走と名称を変え、G1、G2、G3の各グレード別にレースが格付けされることとなる。それに先駆けて、従来G3で施行していたフェブラリーハンデは別定戦のフェブラリーステークスに名称変更しG2に格上げとなった(ウインターステークスはG3のまま)。

この時期に活躍したのがG2昇格後に優勝したライブリマウント(95年)とホクトベガ(96年)。前者はフェブラリーステークス含む交流重賞6連勝で第1回ドバイワールドカップに出走して6着。後者もフェブラリーステークス+交流重賞9勝をマークする活躍を見せたが、1997年のドバイワールドカップ出走時に故障発生、その生涯を閉じている。

このころから、ダート界で歴史に名を遺す馬たちの登場が始まったように感じられる。

そして1997年、ダートグレード競走の新体系スタートと同時に、フェブラリーステークスはG1に昇格。中央で初となるダートG1レースのスタートを迎えた。

G1昇格第1回目のフェブラリーステークス。

1997年2月16日、第1回東京競馬最終日に組まれたフェブラリーステークス。

当時のダート勢力図は、1996年のJRA賞最優秀ダートホースに選定されたホクトベガが頂点に君臨していた。ただ、ホクトベガは、年明けの川崎記念を3馬身差で楽勝したものの、フェブラリーステークスをパスして、ドバイワールドカップに向かうことが発表されていた。そして1995年にJRA賞最優秀ダートホースを受賞したライブリマウントは7歳になり峠を越えていた。

メンバー的には、絶対女王の不出走により一転、混戦模様を呈することとなる。

人気は古馬になりダートで頭角を現してきた5歳の牡馬陣が上位を形成した。押し出されるように1番人気となったのはダート重賞2勝を含め4連勝中のストーンステッパー、僅差で重賞勝ちこそないものの既にダートで5勝上げているバトルライン。更にG1に向けた前哨戦となるウインターステークス、平安ステークスの重賞2連勝中のトーヨーシアトルと5歳の外国産馬3頭が上位を形成する。皐月賞馬で年初の金杯を勝っているイシノサンデーが、昨秋の盛岡ダービーGPを制覇したダート経験を活かしてチャレンジしてきて4番人気。その他、かつてのダート王ライブリマウントや、芝重賞2勝のビコーペガサスも参戦、混戦模様でも中央競馬史上初のダートG1レースに相応しいメンバーが揃った。

噛みつきで話題を集めた、シンコウウインディという馬。

シンコウウインディも、フェブラリーステークスに4枠8番で出走していた。

前哨戦の平安ステークスで、トーヨーシアトルと同着1着になったものの、5歳ながら人気の5歳勢から離された6番人気の低評価。フェブラリーステークス出走までの戦績は10戦4勝2着2回、平安ステークス(1着同着)とユニコーンステークス(バトルライン降着による繰り上がり優勝)の重賞2勝をマークしている。ダートのオープン馬としては決して劣った戦績ではなかったはずだ。

 しかし彼は、4歳時に世間を騒がす「事件」を2度起こしている。

 シンコウウインディは、1996年1月のダートの新馬戦でデビューし3番人気、岡部騎手を背にシンキイッテンを3/4馬身差で優勝(3着以下には1.9秒差の大差)。次走以降芝のレース3戦は勝てなかったものの5戦目のダートのあさがお賞は3馬身1/2差で2勝目をマークし、ダート馬としての資質は認められた。

 ところが、秋初戦の中山の館山特別で事件は起きる。

ユニコーンステークスへのトライアルとして出走した館山特別は、単勝1倍台の圧倒的1番人気。中段位置から徐々に進出し、直線で先頭のセントアニメを捕まえ抜け出したと思ったその時、内で抵抗するダイワオーシャンに嚙みつきにいったのである。結局、噛みつこうと首を曲げ失速したところがゴールで、ダイワオーシャンにクビ差敗れるという事件を起こした。騎乗していた田中勝春騎手も驚いただろうが、ダイワオーシャン騎乗の橋本騎手はもっとびっくりしたのではないか。最後のたたき合いで並走している状態で、突然相手の馬が自分の馬に噛みつきに来るなんて想像もできなかったに違いない。

 このニュースはまだネット環境が発達していない時代にも関わらず、瞬く間にハプニングとして広がり、シンコウウインディは一躍有名馬となった。

 事件はこれだけでは終わらなかった。

 噛みつき事件で敗れた館山特別の次は、4歳ダート三冠第1戦ユニコーンステークスに出走。レースは圧倒的人気のバトルラインが先頭ゴール、大きく離された2着にシンコウウインディで決着と思われたものの、バトルラインが10着に降着となりシンコウウインディが繰り上げで優勝となり、重賞初制覇を成し遂げた。

続く三冠2戦目の大井スーパーダートダービーは、ダートへ転戦してきた皐月賞馬イシノサンデーに1番人気を譲ったものの、シンコウウインディは僅差の3番人気。2番人気ザフォリアも含めた中央3頭での決着と思われた。レースは大井のサンライフテイオーが逃げる展開に、中央のザフォリア、チアズサイレンスが追う。直線に入り、先頭のサンライフテイオーにいつの間にか迫ってきたのは、道中は中段でじっとしていた岡部騎乗のシンコウウインディ。逃げるサンライフテイオーを射程圏に入れた岡部騎手が馬体を合わせに行ったその時──。またしてもシンコウウインディの首がヒョイと右を向いて、トモのあたりに噛みついた。結局、噛みつき行為で失速したシンコウウインディは1馬身差の逃げ切りを許し、初代ダート三冠馬の夢は断たれた。

名手・岡部騎手とのコンビでも起こった噛みつき行為は更に話題となり、以後、シンコウウインディが出走すれば、レース中の噛みつき行為が注目される事態となった。

岡部騎手の祈るような手綱さばきに応えたシンコウウインディ。

フェブラリーステーク当日の馬場は、前日夜からの大雨で泥田んぼのような状態。午後には雨も上がり、特別戦が始まる頃には太陽も顔を出し始めたが、ダートコースは不良馬場のままだった。

 ばらけたスタートから、ストーンステッパーが飛び出す。バトルラインとエフテーサッチがそれを追いかけ各馬ダートコースに入る。先頭集団のすぐ後ろにイシノサンデー、その外側にシンコウウインディが続き初ダートのビコーペガサスが追走。3コーナーを回り、先頭のアイオーユーにバトルラインが並びかけ、連れてストーンステッパーが外に持ち出し追い上げる。

第4コーナーを回って直線に入ると、今度はバトルラインが先頭に。ストーンステッパーがその外から馬体をあわせる。その直後には泥だらけになったビコーペガサス。のこり200mの標識を通過すると、満を持したように熊沢騎手のストーンステッパーが先頭に立つ。このまま突き抜けるかと思った直後、シンコウウインディが泥水を跳ね上げて内から迫ってきた。

残り100mから、この2頭が馬体をあわせて激しい競り合いを展開する。

「いつ、噛みつきに行くのか?」

ハプニングへの心配と期待が渦巻く中、シンコウウインディの闘争心はレースに向かっているようだ。ゴール板が近づくにつれ、シンコウウインディの黒いメンコが内から顔を出す。あと少し……。岡部騎手の祈るような手綱さばきにシンコウウインディは応えて、必死でゴール板を見ているようにさえ感じられる。そして、ストーンステッパーをクビ差抑えてゴールイン。3着バトルラインとは3馬身の差がついていた。

ブリンカー効果か、それとも気性面の成長か。

いずれにせよ、最後まで真面目に走り切ったことだけは事実。「噛みつき馬」のレッテルはG1の大舞台で自身の手で剝がされた。

そして、シンコウウインディは中央競馬ダートG1の最初の覇者として、その名を永遠に残すこととなった。

そして、2024年へ。

 2022年11月、地方競馬が主体となるダート競争の体系整備がJRAから発表された。3歳ダート三冠競走の創設や、ダートグレード競走の整備など。高い能力を持った馬が適正に応じた舞台で活躍できる場の提供により、世界に通じるダートホースの登場が期待できる環境が整った。

2024年度スタートの新体系(2歳の新体系は2023年より)スタートを待つ今、思うことはただひとつ。

中央所属馬と地方所属馬が同じ舞台で鎬を削る真のダート王決戦、「第1回」の3歳ダート三冠競走は、是非現地で見届けたい。そして、初代の勝者たちを競馬場で目に焼き付け、いつまでも語り続けたいと思っている。

中央競馬ダートG1初代の覇者、シンコウウインディと共に。

Photo by I.natsume

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