百戦錬磨の競馬ファンが、日本ダービーの「特別」を肌で感じ取った日。

これが日本ダービーの恐ろしさか──。

まるでキングヘイローとともに重圧に飲み込まれた福永祐一騎手のように、私は顔面蒼白で東京競馬場のスタンドに立ち尽くしていた。

2012年5月27日、午前7時45分。
念願の日本ダービー初ライブ観戦の朝である。座席の争奪戦を制するために、時間に余裕を持って到着したつもりだった。にもかかわらず、あの広大なスタンドのどこを見渡してもないのだ──空席が。

日本ダービーが特別であることは、わかっているつもりだった。

普段は競馬や馬券に縁のない人でも「参加者」として勝負の行方を見守る、いわば国民的イベントのひとつ。当然のことながら、東京競馬場にもたくさんの人が訪れる。G1レースは数あれど、毎年10万人以上の動員力を誇るのはこの日本ダービーと年末の有馬記念だけと言って良い。

──それにしても、まさかここまで出足が早いとは。

初めてGⅠレース開催日の朝から競馬場に駆けつけたのが、1998年にサイレンススズカが勝った宝塚記念。当時、高校1年生だった少年が、右も左も分からぬまま屈強な大人たちに揉まれながらも座席の確保に成功して以降、GⅠレースを見に行くのは開門前から列に並ぶのが当たり前になった。
セイウンスカイやナリタトップロードの菊花賞、スペシャルウィークやテイエムオペラオーの天皇賞(春)など、京都競馬場や阪神競馬場で行われるGⅠは「特等席」から名勝負を見届けてきた。もちろん、あのディープインパクトの菊花賞もそうだった。

そんな多くの経験が、今回に限っては油断をもたらしたのかもしれない。
第1レースが始まるまでに到着すれば、場所さえ選ばなければ座席くらい確保できるだろうと。

自分の見通しの甘さを悔やみながら、しばらくスタンドをさまよっていると、目の前で一人の男性がパッと席を離れたのだ。残されたスペースには、荷物や新聞、レーシングプログラムなどもない。何という幸運。打って変わって、まるでスペシャルウィークの馬上で狂喜乱舞する武豊騎手のように、心の中で喜びを爆発させた。はるばる大阪からやってきた男を、競馬の神様は見捨ててはいなかったのである。


関西の競馬ファンにとって、日本ダービーのみならず関東のGⅠに「遠征」するのは容易な話ではない。ゆっくりと席に座って観戦したい派としては、今回のように開門時刻に合わせて入場するのが必須条件。
となると、自ずと前泊することが求められ、時間的にも経済的にもそれなりの投資が必要になる。
これまでなかなか実現させられずにいた。

そんな重い腰を上げさせてくれたのが、我が最愛の名馬の一頭・ゴールドシップである。

2歳の夏から将来性を見込んで応援していたステイゴールド産駒が、順調にクラシック戦線に乗ったばかりか、あれよあれよと言う間に皐月賞も制覇。前年のオルフェーヴルに続いて2年連続で二冠馬誕生なるかというムードが高まる中、「今年のダービーを見に行かずしていつ行くの?」と脳内で誰かがささやいた気がしたのだ。

こうして、競馬ファン16年目にして初めての日本ダービー観戦は実現した。

無事に座席を確保してからの時間の過ごし方はいつものGⅠレース開催日とさほど変わらなかったが、さすがに本馬場入場時の歓声や、有力馬に送られる声援の大きさは圧倒的なものがあった。そしてやはり特筆すべきは、国歌斉唱からスタートを迎えるまでの張り詰めた空気。あれは今まで競馬場で味わったことのない緊迫感にあふれていた。

結果は、ご存知の通りだろう。

残念ながらゴールドシップは5着に敗れ、二冠達成を見届けることはできなかった。最後の直線で、先頭を争うディープブリランテとフェノーメノとの差はなかなか縮まらず、それでも大外から懸命に追い上げる芦毛の馬体に祈りを込めながら、懸命に声を枯らしながら声援を送った。

完全燃焼。

殊勲のディープブリランテと、悲願の日本ダービー初制覇を成し遂げた岩田康誠騎手が引き上げてくる姿はかすかに記憶があるが、頭の中はもう真っ白だった。身も心も疲れ果て、ぼんやりと最終レースの目黒記念まで見届け、東京競馬場をあとにした。


その後は乗り慣れない路線の電車ですっかり眠りこけてしまい、東京駅へ向かうつもりが千葉県のどこかまで乗り過ごしてしまったほど。この疲れも、日本ダービーならではである。

待ち望んだ結果は得られなかったが、今まで縁のなかった「競馬の祭典」に連れて行ってくれたゴールドシップへの感謝の想いを胸にしながらの帰路は、充実感に満ちたものだった。そして今度もし、また日本ダービーを現地で見たいと思わせてくれるような馬に出会った際は、さらに早い時間から駆けつけるつもりだ。

日本ダービーは、特別だから。

写真:Horse Memorys、H.Kaneko、RINOT、水面

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