初代ダービー馬、ワカタカ。

日本ダービーのはじまりは、1932年。
創設時の名称は「東京優駿大競走」というものだった。
開催地は、今やもう閉鎖されている目黒競馬場。
時代は流れ、日本ダービーは名前や開催地を変えながらも、日本競馬の世代頂点を決める競走として君臨してきた。

しかしもちろん、長い年月において変わらないものもある。
たとえば、距離だ。
芝の、2400m戦。
昭和、平成、令和──数々の施行を重ねてなお、変わらない。
今回は、その最初の「2400m」を、先頭で走り切った馬の話をしよう。

その名馬は燦然と輝き続ける、初代ダービー馬。
名を、ワカタカという。


「宮内庁下総御料牧場」から、ダービーへ

千葉県にある、宮内庁下総御料牧場。
その名の通り皇族のための牧場である。
ワカタカがそこで生を受けたのは、1929年のことだ。

宮内庁下総御料牧場は昭和44年の移転まで、明治8年を始まりとして長きにわたって馬・牛・羊・豚・鶏と幅広い飼育を行っていた。サラブレッドの生産もそうした活動のひとつだ。彼の地は、日本獣医学発祥の地とも言われている。
まさに、日本競馬界のパイオニア的存在の牧場である。

種牡馬の輸入でいえば、1927年のトウルヌソルと1935年のダイオライトの輸入があげられる。
前者はワカタカ、後者は三冠馬セントライトの父となった。

繁殖牝馬の輸入としては「基礎輸入牝馬」が代表的だろう。
1931年・1932年に輸入した6頭の牝馬たちは、それぞれが素晴らしい功績をあげている。
近年の活躍馬にもルーツはその基礎輸入牝馬である馬は多く見受けられる。

例をあげるならば、G1を6勝したゴールドシップ(星旗)、ダービー馬・ハクチカラ(星旗)、悲運のアイドルホース・テンポイント(星若)、ダービー馬・トウカイテイオー(星友)、おなじくダービー馬・サニーブライアン(星谷)など。現代競馬界へも大きな影響を与え続けている、まさに錚々たる顔ぶれである。

そんな歴史ある牧場の期待馬として、ワカタカは育てられていった。

名手・函館孫作との出会い

日本競馬界のパイオニアの一人に必ずあげられる「伝説の馬術師」函館大経。

その函館大経に弟子入りした者たちには武彦七(武豊の曽祖父)などその後の競馬界を支える人物が多く名を連ね、その中に千歳孫作もいた。
彼は16歳で函館大経の弟子入りを果たし、21歳には函館家の養子となった。名も、函館孫作となる。
函館孫作は周囲の期待に応え、活躍を重ねる。

大レースにも非常に強く、天皇賞のルーツと言われる「帝室御賞典」では8勝、国内最高賞金競走の「優勝内国馬連合競走」では7勝をあげる活躍を見せる名手だった。

ワカタカは、その名手を背にデビューを迎えた。

そして引退まですべてのレースをともにすることとなる。

デビュー、そしてダービー馬へ

ワカタカは、のちに名伯楽と呼ばれる東原調教師によって育てられた。
デビュー戦は5着に敗れたが、2戦目に本領を発揮する。
10馬身差、圧勝。レベルにバラつきがあった時代だとしても、さすがにインパクトのある勝利だった。

この走りで一躍「世代トップクラス」の呼び声が高くなったワカタカは、東京優駿大競走で1.95倍の1番人気に推される。
1番人気だろうが19番人気だろうが、栄光を掴むことが出来るのは一生に一度だけ。
さらに初代の栄光を掴めるのは、それから何年にも渡って発展していく日本競馬界において、ただ1頭のみ。
そして、いよいよ「第1回東京優駿大競走」が始まる。

1932年、4月24日。
出走馬は19頭。

のちに名伯楽として名を馳せる尾形藤吉騎乗のオウツカヤマや、逃げ馬アサハギなども出走している、ダービーにふさわしいメンバー構成だった。
そこでワカタカは、周囲の意表をつく、逃げの戦法にうって出た。

最終コーナーを回った時には5馬身差がついていたという。
後続の追撃もむなしく、その差はほぼ縮まらなかった。

4馬身差の、快勝。

日本最初のダービー馬誕生の瞬間であった。

第一回の日本ダービーは、逃げ馬の快勝が炸裂するレースとなったのである。

その後も積極的にレースへの出走を果たしたワカタカは、デビューから引退までの2年間で21戦をこなした。
圧巻なのは現役ラスト。3日連続でのレース出走を果たし、71キロ以上の斤量を背負いながらも2勝をあげた。

引退後には種牡馬になったものの、母系が血統不詳のミラということもあり生産地からの需要は低かった。
その後は農学校で乗用馬となる。静かな余生だったそうだ。
そして1945年の3月10日、慢性肺気腫によって、日本最初のダービー馬は息を引き取った。

初代ダービー馬、ワカタカ。

ワカタカがダービーを勝利した際のタイムは、2分45秒と2/5。
参考までにあげると、第83回ダービーでマカヒキが出したタイムは2分24秒だ。
第82回ダービーではドゥラメンテが2分23秒2で勝利している。

もちろん、馬場の違いやレース展開の違いもあるだろう。
競馬場も今とは違う。

しかしそれ以上に思うのは、サラブレッドの能力向上だ。
ワカタカが今のダービーに出たらどうなるか?
当時は「逃げ」だったはずの勢いで走っても、もしかすると隊列の最後尾についていくのも難しいかもしれない。

勝つのはまず不可能だろう。
しかし、そんな勝敗というのは、今となっては些細なことだと思う。

マカヒキも、ドゥラメンテも、ディープインパクトもオルフェーヴルも。
ウオッカもトウカイテイオーもラッキールーラもタケホープも。

みんな等しく、ダービー馬なのだ。
日本競馬が積み上げてきた功績そのものだ。

どの馬も、日本の──そして世界の、サラブレッドの発展に貢献してきた。
もしかしたら、今火花を散らしながら競り合っている名馬たちも、未来から見れば普通の馬なのかもしれない。100年後のダービーは、今とは比べ物にならないくらいレベルが高いものになっているかもしれない。そして、そうであってほしいと思う。

未来のサラブレッドのたちが駆け抜けるその道は、先人たちが築きあげてきた道なのだ。
タイムや着順だけでは語ることのできない、数々の貢献が、今の競馬場を作り上げている。

ダービーは繋がっていく。
2400mの道のりで。

馬は生まれ、そして死んでいく。
しかしその大きなうねりのなかに、世代を代表して名を刻むのだ。

トウルヌソルの仔、ワカタカ。
初代のダービーを勝利した、紛れもない、名馬だ。

写真:緒方きしん

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