いよいよ秋競馬が始まり、牡馬・牝馬とも最後の一冠を目指す馬達にとっての前哨戦が行なわれる。
そこは、春のクラシックで活躍した馬と、夏場にメキメキと力をつけ、何としても優先出走権を得たい上がり馬が激突する舞台。そんな上がり馬が、春の既存勢力を撃破するシーンは、トライアルといえど痛快。これぞ、秋競馬の醍醐味ともいえる。
今回は、夏の上がり馬が躍動した、過去のローズステークスを振り返っていきたい。
リンデンリリー
これは秋華賞が創設される以前、牝馬三冠の最終戦が、2400mのエリザベス女王杯だった時代。ローズステークスが京都の芝外回り2000mという、通常開催では年に一度、このレースでのみ行なわれていた頃の話。
1991年に3歳シーズンを迎えた牝馬は、2歳時から、複数頭が牡馬混合の重賞を勝利。巷では、牝馬史上最強世代とも呼ばれていた。そんな豪華メンバーが集結した年の桜花賞を制したのは、トウショウボーイ産駒のシスタートウショウだった。続くオークスは、桜花賞で1番人気に推されながらもスタート前に落鉄し、蹄鉄を打てずに走って5着に敗れた「裸足のシンデレラ」ことイソノルーブルが逃げ切り、リベンジを達成。この2頭が、春の二冠を分け合ったのである。
その後、エリザベス女王杯に向け各陣営とも調整していたが、シスタートウショウが屈腱炎を発症して戦線離脱。イソノルーブルも、本番へ直行することが決まった。そんな中で迎えたのが、ローズステークスである。
1番人気に推されたのは、桜花賞4着、オークスでも5着と好走したスカーレットブーケ。後に、ダイワメジャー、ダイワスカーレット兄妹の母となる馬である。そして、僅差の2番人気に続いたのが、リンデンリリーだった。
リンデンリリーの父は、平成三強の一角を担ったイナリワンや、90年のオークス馬エイシンサニーを輩出したミルジョージ。89年には、中央・地方を合算した全国リーディングサイヤーに輝いたほどの名種牡馬である。
そのリンデンリリーは、デビュー時の馬体重が420kgと、決して体格に恵まれたわけではなかった。しかし、いきなり初戦から躍動すると、9番人気の低評価を覆しダート1400mの新馬戦を快勝。続く年明けの紅梅賞も、やはり9番人気ながら2着に3馬身差をつけ完勝、したように思われた。
ところが、直線で他馬の進路を妨害したため13着に降着。この年から導入された降着制度の中でも「1着馬に適用された降着の第1号」という、ありがたくない記録の持ち主となってしまったのだ。さらに悪いことは重なり、レース後に骨折が判明。春のクラシックを棒に振ってしまう。
その後、武豊騎手に乗り替わって復帰したのは、7月末、小倉ダート1700mの日向特別。馬体重を14キロ増やし、成長した姿を見せての復帰だったが、ここを4着に敗れると、続く中京ダートの500万条件(現・1勝クラス)も2着惜敗。紅梅賞からの悪い流れを、依然として、引きずっているかのような結果に終わってしまったのだ。
復帰3戦目は、その紅梅賞以来、久々の芝のレースとなる馬籠特別。すると、ここでようやく真の実力を発揮したリンデンリリーは、2着に5馬身差をつけ圧勝。待望の2勝目を挙げ、現在でいう2勝クラスからの格上挑戦で出走したのが、冒頭のローズステークスである。
この時、武騎手はスカーレットブーケに騎乗するため、代わって鞍上に指名されたのは、若手のホープで、1期後輩にあたる岡潤一郎騎手だった。
レースは、リンデンリリーが持てる力を余すところなく発揮し、春のクラシック好走馬を一蹴。道中は、3番手追走から直線に向いてすぐ内に進路をとると、桜花賞2着のヤマノカサブランカを差し切り快勝。3着のスカーレットブーケは、そこからさらに4馬身も離され、あっという間に置き去りにされてしまったのだ。
この勝利が高く評価され、本番のエリザベス女王杯でも、イソノルーブルを上回りやや抜けた1番人気に支持されたリンデンリリー。
レースが始まると、ちょうど中団にポジションを取り、2番手に控えるイソノルーブルを前に見る展開。その後、坂の下りで5番手までポジションを上げると、直線入口では一気にエンジン全開となった。
4コーナーで後退するイソノルーブルとは対照的に、内回りとの合流点で早くも先頭に立つと、馬場の中央から内に切れ込みながらも、素晴らしい末脚を繰り出して独走。再びヤマノカサブランカを2着に降し、人馬、そして管理する野元調教師ともどもGI初制覇。あの紅梅賞から10ヶ月。同じ京の地で連勝を決め、ついに世代の頂点に立ったのである。
ところが──。
ゴール後、違和感を覚えた岡騎手は、2コーナーから引き返してくるところでリンデンリリーから下馬。その後、主役不在のまま表彰式が行なわれたのだ。
診断の結果は、右前脚浅屈腱の不全断裂で競走能力喪失。輝かしい未来が待っていたはずのリンデンリリーの競走生活は、わずか7戦で突如幕を閉じ引退。繁殖入りすることが発表された。
さらに、岡騎手にも予期せぬ悲劇が待ち受けていた。
93年1月。京都競馬場で行なわれた新馬戦で、騎乗馬が故障して落馬した岡騎手は、馬場に投げ出されてしまう。そこへ、後続馬の脚が直撃。意識不明のまま救急搬送されたものの、その17日後、わずか24歳という若さで、あまりに短すぎる生涯を閉じてしまったのだ。
デビュー以降、順調に勝ち星を量産し続け、間違いなく武騎手のライバルになっていたであろう存在。それだけに、今なお彼の死を惜しむ声は多い。
一方、繁殖入りしたリンデンリリーは順調に子出しを続け、7番仔のヤマカツリリーが、阪神ジュベナイルフィリーズで2着。その後、フィリーズレビューで重賞初制覇を達成した。また、秋には母娘制覇こそならなかったものの、ローズステークスで2着、秋華賞も3着と好走。
他にも、この一族からは多くの牝馬が生まれており、天国の岡騎手に見守られながら、この血は枝葉をさらに広げ、今も生き続けている。
スターバレリーナ
現役時、紛れもなく中央競馬史上に残る名騎手だった河内洋騎手(現・調教師)。牡馬クラシックの三冠ジョッキーでもあるが、河内騎手といえば、やはり牝馬。史上初の三冠牝馬となったメジロラモーヌをはじめ、多くの名牝を駆り、幾多の大レースを制してきた。その河内騎手とコンビを組んだ上がり馬が、スターバレリーナである。
米国の二冠馬リズンスターを父に持つ、いわゆる持ち込み馬。ただ、デビューは3歳の4月と非常に遅く、舞台は京都のダート1200m戦。あえなく、4着に敗れてしまった。
ところが、そこから中2週で臨んだ2戦目。芝の2000mと、大幅に条件が変わった未勝利戦で、秘めた素質を発揮し初勝利を挙げると、なでしこ賞3着を挟み、日田特別と野分特別を連勝。特に、野分特別は2着に4馬身差をつける完勝で、勝ち時計は、従来のレコードを2秒0も上回る出色の内容。典型的な夏の上がり馬として、ローズステークスを迎えたのだ。
春の二冠馬ベガが順調さを欠き、回避したこのレース。中でも、目下の勢いが注目されたスターバレリーナが1番人気に推され、5月の京都4歳特別(現在の京都新聞杯に相当)を制したケイウーマンと、桜花賞5着、オークス6着のホクトベガがその後に続き、オッズでは三強の評価になっていた。
ゲートが開くと、レース序盤、三強は仲良く好位を追走。ヤマヒサローレルの逃げを、いつでも捉えられそうな位置に構えていた。その後、直線に向くと、早々に先頭へと並びかけるスターバレリーナを、外からホクトベガが追ったものの、残り200mを切ってからはスターバレリーナの独壇場。
やや外によれながらも後続を一気に突き放し、ホクトベガを交わした2着ケイウーマンに3馬身差をつける圧勝。京都外回りの長い直線で華麗なる舞いを見せ、二冠馬ベガを抑え、勇躍1番人気の立場でエリザベス女王杯に臨むのだった。
ところが、肝心の本番で大外枠を引いたスターバレリーナは、大逃げを打つケイウーマンを見ながら3番手でレースを進めるも、直線半ばで失速。最内枠から、直線でも内を突いたホクトベガに逆転を許し、9着に敗れてしまう。
すると、これ以降も、当時2000mで行われていた京阪杯や高松宮杯で2着と好走するも勝利を挙げられず、5歳秋のマイルチャンピオンシップ7着を最後に引退。繁殖入りを果たした。
ただ、スターバレリーナの本当の能力が発揮されたのは、もしかすると、繁殖に上がってからだったのかもしれない。
初仔のグランパドドゥが中日新聞杯を勝ち、いきなり産駒初の重賞ウイナーになると、3番仔のアンドゥオールはダートの重賞を2連勝。さらに孫世代からも、グランパドドゥの4番仔パドトロワが重賞を3勝し、種牡馬入りを果たした。また、スターバレリーナの4番仔ステレオタイプは、GI3勝馬のロゴタイプを輩出。こちらも種牡馬入りし、偉大なる祖母の血を、どんどんと広げ続けている。
ファインモーション
この馬に、夏の上がり馬という表現は適切でないかもしれない。とはいえ、圧倒的な能力を武器に夏の条件戦を連勝し、ローズステークスも勝利して全国区となったのは、紛れもない事実。その後、牡馬も交えた当時の日本競馬界で、一気に頂点へ駆け上がるほどの存在になりそうだったのがファインモーションである。
父は、世界的大種牡馬のデインヒル。半兄には、エアグルーヴを破って97年のジャパンカップを制するなど、世界のGIを6勝したピルサドスキーがいるという超良血。そんなファインモーションを見初めたのは、名伯楽の伊藤雄二調教師である。
エアグルーヴを管理した師がアイルランドを訪れた際、生後数ヶ月しか経っていないこの仔馬と出会ったのが、日本にやってくるきっかけ。この仔馬を見た師は、これまで管理してきた一流馬たちのさらに上をいく存在になると感じたものの、当初は、世界的生産グループのクールモアが購入することに決まっていた。
ところが、いざ交渉してみると、もちろん大金ではあったものの、種牡馬ビジネスに本腰を入れているせいか、譲ってくれることになったのだ。
こうして日本に輸入され、伏木田牧場会長の伏木田達男氏の所有となり、無論、伊藤雄二厩舎に入厩。兄と覇を競ったエアグルーヴと同じ田中一征厩務員が担当となり、その後、ファインモーションと名付けられた。
デビューは2歳12月、阪神芝2000mの新馬戦。単勝1.1倍の圧倒的な人気に推されると、期待に違わぬ走りを見せ、逃げ切っての圧勝。騎乗した武豊騎手も「つかまっていただけ。海外で走らせてみたい」と、絶賛する内容だった。
当時、外国産馬のファインモーションには、まだ翌春のクラシックへの出走権がなく、海外で走ることは理にかなっていた。ただ、デインヒル産駒の日本での評価は、体が立派すぎて下半身の成長が追いつかず、故障が多くなるというもの。実際、デインヒル産駒の同厩の先輩で、この年重賞を2勝したエアエミネムも、同じ頃、脚部不安のため休養に入っていた。
さらに、ファインモーションのレントゲンを撮ってみると、骨ができていないことが判明。フランスの1000ギニーやオークスに登録していたものの、その話はなくなり、成長を促すため休養へと出されたのだ。
戦列に復帰したのは、翌年8月函館の500万条件戦。ここを5馬身差で圧勝したファインモーションは、中2週で臨んだ阿寒湖特別も、追われずして再び5馬身差の圧勝。デビューから無敗の3連勝で、ローズステークスへと駒を進めたのである。
そこで待ち受けていたのは、桜花賞馬のアローキャリーや、2歳時に阪神ジュベナイルフィリーズを制したタムロチェリー。そして、忘れ草賞勝ちからオークスでも3着に好走したユウキャラットだった。
しかし、そんな春の既存勢力が相手でも、単勝1.2倍の圧倒的人気に支持されたファインモーションには、まるで関係なしというほどのレースが、展開される。
ゲートが開き、道中は4番手を進むと、絶好の手応えで4コーナーを回って迎えた直線。またも、ほぼ追われることなく先頭に並びかけると、坂を上がったところで一気に突き放し完勝。前哨戦で早くも決着がついたような、圧巻の勝利だった。
こうなると、初めてのGIとはいえ、秋華賞でも圧倒的な支持を受けることになり、そのオッズは新馬戦と同様の1.1倍。
レースでは、これまでよりやや後ろ、6番手からの追走となるも、いつも通り、残り200mで先頭に並びかけるとあとは独走。またしても、ほぼ追われることなく、後続に3馬身半差をつけて押し切り、同世代の牝馬の中で頂点に上り詰めたのだ。
さらにその1ヶ月後のエリザベス女王杯で、今度は古馬と激突したファインモーションは、その壁も難なく突破し2馬身半差の勝利。古馬混合戦となってからは、レース史上初めて3歳馬が優勝し、古馬混合のGIを無敗馬が制したのも史上初(2021年現在でも3例のみ)。記録づくめの勝利となったのだ。
7戦目は、現役最強馬を決める一戦となった有馬記念。ここも1番人気に推されたファインモーションだったが、5着に敗れて連勝が6でストップすると、その後は随所に気性の難しさを見せ始めてしまう。結局、阪神牝馬ステークスと札幌記念の、GⅡを2つ上積みしたのみに留まり、再びGIの表彰台に上がることはできなかったのだ。
さらに引退後、繁殖入りし何度か種付けが行なわれたものの、一度も受胎することはなかった。検査したところ、医学的に受胎が不可能であることが判明。現在は、功労馬として余生を送っている。
残念ながら、素晴らしい能力や名血を後世に遺すことができなかったファインモーション。しかし、当時のファンが、彼女に抱いた無敗のドラマやロマンは計り知れない。過去にローズステークスを制した馬の中でも、最も記憶に残る馬の1頭といって間違いないだろう。
レクレドール
ファインモーションと同様、偉大な兄を持つのがレクレドールである。
その兄とは、日本競馬史上屈指の人気馬ステイゴールド。GIで2着に惜敗すること4回。シルバーコレクターやブロンズコレクターと呼ばれ、6歳の目黒記念を勝利するまで、重賞はおろか、現在でいう3勝クラスすら勝ったことがない善戦マンだった。
しかし、迎えた7歳シーズン、ついに素質が開花。1月の日経新春杯で重賞2勝目を挙げると、当時まだGⅡのドバイシーマクラシックを制し海外初勝利。さらには、キャリア50戦目で引退レースとなった年末の香港カップで、奇跡の追込みを決め優勝。最後の最後で、GI馬の称号を手にしたのである。
その後、種牡馬入りしてからの活躍ぶりは、もはや説明するまでもないだろう。
そんな偉大な全兄を持つレクレドールのデビュー戦は、3歳3月の未勝利戦。ここで、いきなり2着と好走したものの、2戦目も3着に惜敗。出だしから、ステイゴールドの妹らしい一面を覗かせてしまうのだった。
しかし、続く3戦目で初勝利を挙げると、出走取消を挟み挑んだ札幌の500万条件をクビ差で制し連勝。その1ヶ月後、安藤勝己騎手を背に、現在でいえば2勝クラスからの格上挑戦で挑んだのが、2005年のローズステークスである。
ただ、いくら連勝中の良血馬といっても、重賞、しかもGIのトライアルとなれば話は別。単勝12.1倍の5番人気に留まらざるをえなかった。
一方、1番人気はオークス馬のダイワエルシエーロで、当時2着のスイープトウショウが2番人気。さらに、桜花賞2着のアズマサンダースが続き、レースはスタートの時を迎えた。
ゲートが開くと、ややダッシュがつかないレクレドールだったが、是が非でも行きたい馬は不在。結果、後ろから3番手でレースを進めることとなった。
前半の1000m通過は58秒9。決して早いペースではないものの、最初の1ハロン目と6ハロン目を除けば、12秒を切るラップが連続する淀みない流れ。
その後、600m標識を過ぎたあたりから、スイープトウショウが進出を開始してレースが動くと、それを追うようにレクレドールもスパートし、迎えた直線。
先行したダイワエルシエーロとアズマサンダースが伸びを欠く中、外から襲いかかったのが、グローリアスデイズとスイープトウショウ。そこから2頭で抜け出し、残り200mからはマッチレースになると思われたが──。
坂を駆け上がったところで、その2頭よりもさらに勢いよく伸びてきたのがレクレドールだった。キレ味抜群というよりは、力強い末脚で2頭を交わすと、2着グローリアスデイズにクビ差先んじてゴールイン。見事3連勝となり、6歳で初めて重賞タイトルを獲得した兄より3年も早く、3歳秋に重賞初制覇を飾ったのだ。
その後、秋華賞で6着、エリザベス女王杯でも7着と敗れ、GIのタイトルには縁がなかったレクレドール。しかし、翌年のクイーンステークスで、およそ1年ぶりの復活勝利を挙げて存在感を示すと、その翌年も3着に好走し、連闘で挑んだ札幌記念も2着に健闘。
時に意外性のある一面を覗かせて、格上相手でも激走するその姿は、偉大な兄や、兄の産駒と瓜二つだったといっても過言ではない。
ラビットラン
新型コロナウイルスの影響もあり、ここ1年は参戦の機会がほぼないものの、ルメール騎手とデムーロ騎手が通年免許を獲得して以降、それまでよりもさらに存在感を増したのが外国人騎手。
鞍上強化の名の下に、一流馬の主戦騎手があっさりと外国人騎手に乗り替わることは、もはや珍しくないが、鞍上交代の鬱憤を晴らす舞台となったのが、2017年のローズステークスである。
この年の桜花賞は、ダイワメジャー産駒のレーヌミノルが勝利し、断然人気のソウルスターリングは3着。波乱の決着となった。しかし、オークスではソウルスターリングが見事リベンジし勝利。2着には、和田騎手騎乗でフローラステークス1着から出走してきたモズカッチャンが入った。
ところが、秋になると、モズカッチャンの鞍上はミルコ・デムーロ騎手へとスイッチされたのだ。秋華賞へ向け、ローズステークスから始動することが発表されたが、一方の和田騎手は、外国産馬のラビットランとコンビを組み、そこへ参戦することとなった。
ラビットランの父は、かつて種付け料世界最高額になったこともある、アメリカの大種牡馬タピット。名将・角居調教師の管理馬となり、2歳11月ダート1400mの新馬戦でデビューを果たした。すると、いきなり2着を7馬身突き放す圧巻のパフォーマンスで、見事初勝利。期待に違わぬ、順調な船出となったように思われたのだが……。
半年弱の休養後に臨んだ復帰戦で2着に敗れると、続く次走は6着と、逆に着順を下げてしまう。そこで陣営が4戦目に選んだのは、生涯初となる芝のレース。中京1600mの平場戦だった。
ここで、和田騎手と初コンビを組んだラビットランは、道中、後ろから2番手という極端なポジションでレースを進め、一度最後方まで下がって迎えた直線。大外に進路をとると、目の覚めるような剛脚を披露。一頭また一頭と交わしていくと、坂を上がったところで、さらに末脚は鋭さを増し、ゴール前で、ついに全頭ごぼう抜きを達成。念願の2勝目を挙げたのである。
この時使った末脚は、上がり3ハロン33秒0だったが、これは道中の流れが遅かったため。それ以上に素晴らしかったのは、ラビットラン以外の上位入着馬が、全て先行馬だったこと。後方待機組にとって、明らかに不利なレースを追い込んで勝利した点は、非常に中味の濃い内容。その勢いのまま、ローズステークスへと駒を進めたのだ。
そのローズステークスで1番人気に推されたのは、牝馬ながら、前走の皐月賞でも1番人気に推されたファンディーナ。モズカッチャンがそれに続き、桜花賞2着のリスグラシューが3番人気だった。一方、500万条件を勝ったばかりのラビットランは8番人気で、それは妥当な評価といえた。
ゲートが開くと、横山典弘騎手騎乗のカワキタエンカがハナを切り、800m通過46秒4、1000m通過が58秒6と、淀みない流れで引っ張る展開。モズカッチャン、レーヌミノル、ファンディーナの3頭は、5番手で横一線。リスグラシューとラビットランは、中団よりも後ろでレースを進めていた。
その1000mを通過してからペースが徐々に上がり、迎えた直線。カワキタエンカにとっては厳しい流れと予想され、ファンディーナとレーヌミノルが早々に交わすと思われたが、なかなか捉えきれず、残り200mで逆に失速。内に進路をとったモズカッチャンも、伸びあぐねている。結局、残り100mを切ってもカワキタエンカのリードは2馬身のまま縮まらず、あれよあれよの逃げ切りかと思われた、次の瞬間。前走と同様、馬場の中央から矢のように伸びたラビットランが、一瞬で交わしさって先頭に立つと、ゴールでは逆に1馬身4分の1差をつけ、1着でゴールイン。その瞬間、和田騎手が右手で軽くガッツポーズを作る、会心かつ痛快な勝利で重賞初制覇。見事、秋華賞への切符を手にしたのである。
踏み込んだ内容は、あまり多く語らないジョッキーではあるものの、オークスでも完璧に騎乗していただけに、思うところは大いにあったはずだ。
ちなみに、翌18年の宝塚記念では、ミッキーロケットに騎乗して、あのテイエムオペラオー以来、実に17年ぶりのGI制覇を達成した和田騎手。結果論かもしれないが、この宝塚記念も、前年のローズステークスの勝利が関わっているように思えてならない。和田騎手にとって、ラビットランと掴んだ通算39度目の重賞勝利は、非常に大きな意味のあるものだったのではないだろうか。
一方、ラビットランは、秋華賞で健闘したものの4着に敗れると、芝を4戦した後、再びダート路線に転向。夏にブリーダーズゴールドカップを快勝すると、JBCレディスクラシックでも2着に好走した。その後は、地方船橋に移籍し、1戦したのみで引退。同時期に引退したソウルスターリングとともに、社台ファームで繁殖入りを果たしている。
写真:Horse Memorys、かず