タップ・ダンス・ダンス。最高の鞍上を迎えて道を切り拓いた名馬、タップダンスシチー
■パドックで「タップダンス」を踊るサラブレッド

音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることがわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。なぜ踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなことを考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。

──村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』より引用

米国産の牝馬、オールダンスはノーザンダンサーの直仔であり、繁殖牝馬として大きな期待をかけられていた。そのオールダンスは、4番仔で米国の重賞入着馬を輩出。1995年産の9番仔(父クリプトクリアランス)は、日本のクラブ法人・株式会社友駿ホースクラブに購買され、クリプトシチーとしてデビューを飾っていた。そして2年後、オールダンスの11番仔となる鹿毛の牡馬が、同じように友駿ホースクラブに購買されて日本に輸入された。父はGⅠで2勝をあげ、ブリーダーズカップでも好走したプレザントタップ。1歳秋に日本にやってきた11番仔は父馬プレザント「タップ」と母馬オール「ダンス」からそれぞれ名前を受け継ぎタップダンスシチーと名付けられる。そして兄と同じ栗東トレーニングセンターの佐々木晶三厩舎に所属することとなった。

2000年3月4日、タップダンスシチーは阪神競馬場で芝2000mの新馬戦を四位洋文騎手で戦い、6番人気9着に敗れる。苦いデビュー戦であったが、続いて3月19日に行われた折り返しの新馬戦、芝2200mを4番人気ながら初めての勝利を挙げた。3走目のオープンのレース、4月15日の若草ステークス(5着)を経由して、初めての重賞挑戦となった5月6日の京都新聞杯(GⅡ)、この年の日本ダービーを制することになる若草ステークスの勝ち馬アグネスフライトから3馬身差の3着と、早いうちから非凡なところを十分に感じさせていた。

しかし、その後が続かない。中京競馬場での白百合ステークス、阪神競馬場での野苺賞を熊沢重文騎手と挑むも7着、5着。四位騎手に手が戻った条件戦(500万下)でも4着と、まだまだ苦戦を強いられていた。幸英明騎手とコンビを組んだ京都競馬場での格上挑戦・八瀬特別を2着した後、再び格上挑戦した12月の中京競馬場・天竜川特別にて鞍上・松田大作騎手と芝2500mを勝利する。鞍上を固定しきれない中、2001年は自己条件を戦わずオープン、準オープン、1000万下条件と格上挑戦を6走続けたが、残念なことに1勝も挙げることができなかった。年が明けて2002年、1月京都の日経新春杯(GⅡ)にまたしても格上挑戦したタップダンスシチーは、笠松の川原正一騎手を鞍上に迎えて勝ち馬トップコマンダーの1馬身差の3着と好走。これで自信をつけたか続く2月京都の1000万条件春日特別を武豊騎手で、3月阪神の1600万条件御堂筋ステークスをオリビエ・ペリエ騎手で連勝し、遅まきながら5歳にして念願のオープン入りを果たした。

ここまでのタップダンスシチーはGⅡ戦を2度3着するなど才能の片鱗を見せていたものの「好走はするが、勝ちきれない」というタイプに感じられた。オープン昇格後最初のレースとなった中山競馬場の日経賞(GⅡ)を勝浦正樹騎手で勝ち馬アクティブバイオの2着に入って賞金を加算したものの、続いての関東遠征となった4月東京競馬場のメトロポリタンステークス、及び5月東京の目黒記念(GⅡ)を勝浦騎手で3着、5着。再び四位騎手に手が戻った7月函館の函館記念(GⅢ)は8着と、なかなか勝利には手が届かない。勝ちきれない原因に、鞍上が固定しきれないでいること加えて、タップダンスシチー自身の燃えやすい気性があげられた。パドックで、返し馬で、どうしても入れ込みやすい気性だったという。

佐々木調教師は入れ込みやすい彼の性格を「タップダンス」していると例えていた。パドックでは常に二人引き。チャカチャカと気を散らしやすく、引き手を困らせてしまう。ちょうど名前の通り、まるでタップダンスを踊っているかのように…。その気性からゲートで出遅れたり、レース中に内外に逃避したりして、持っている力を十分に出し切れないでいたのである。併せて父親であるプレザントタップが馴染みのある種牡馬であるとは言えなかったことから、仔であるタップダンスシチーの距離やレースの適性が掴みきれなかったことも出世を遅らせた原因であるともいえた。芝1800mから2500m、果ては万葉ステークスの芝3000mまで、さまざまなレースを使いながら試行錯誤するなかで、なんとか本馬の適性を見出そうとしてきた。

■最高の鞍上との出会い そして有馬記念へ

そんなタップダンスシチーに、転機が訪れる。9月7日、阪神競馬場で行われた朝日チャレンジカップ(GⅢ)。このレースでは、これまでいちばん騎乗回数の多かった四位騎手をはじめとして、ここまでの10人の騎乗経験者がすべて騎乗することができず、まったく新たな騎手を起用する。白羽の矢が立ったのが、佐藤哲三騎手である。テン乗りの佐藤騎手を鞍上に迎え、単勝は5番人気。レースでは好発から好位につけたタップダンスシチーは直線で単勝2番人気のイブキガバメント、1番人気のトゥルーサーパスに内から詰め寄られるも、2着のイブキガバメントをハナ差だけ差し返してコースレコードで勝利する。これが、待望の重賞初制覇となった。

いきなり結果を出した佐藤騎手との間に新たな名コンビ誕生の萌芽が見られ、この後タップダンスシチーの鞍上は引退まで佐藤騎手が務めることになる。またこのレースは後に、走らせながら馬を作り上げていくという名タッグを組むこととなる佐々木調教師と佐藤騎手との出会いの場となったと記憶されることとなる。

その後タップダンスシチーは重賞戦線に矛先を向けて、京都大賞典(GⅡ)、アルゼンチン共和国杯(GⅡ)、京阪杯(GⅢ)をそれぞれ3着、3着、5着と好走した。そしてついにGⅠの舞台に足を踏み入れることとなる。その舞台が、中山競馬場暮れの名物レース・有馬記念であった。ファン投票第50位、単勝13番人気という、いわゆる伏兵評価のGⅠ初挑戦であったが、負けるつもりで出走する陣営はいない。タップダンスシチーは、秋の重賞レースで好走を続けた自信を胸に有馬記念へと向かった。そして、ここまで培ってきた実力をいかんなく発揮して、中山競馬場の観客の──いや、全国の競馬ファンの度肝を抜くようなGⅠデビューを飾るのだった。

レースは好発から先手を主張したものの、外からファインモーションにかわされて2番手に落ち着いたタップダンスシチー。しかしファインモーションの武豊騎手が向う正面でペースを落とすと、それに逆らってタップダンスシチーがペースアップして先頭に立つ。3、4コーナーを先頭で回り、直線へとなだれ込む。ナリタトップロードなど後続の各馬が追い込む脚をなくしている中で、あわや大金星という直線の坂道。ただ一頭、同年の天皇賞秋を制した3歳馬のシンボリクリスエスが鋭く伸びてくる。タップダンスシチーも抵抗するも、オリビエ・ペリエ騎手の叱咤に応えたシンボリクリスエスにゴール前、半馬身ほどかわされた。

ナリタトップロードやファインモーション、ジャングルポケットら並み居るGⅠ馬たちを押しのけての堂々の2着。タップダンスシチーの名を競馬ファンの間に知らしめ、翌年のGⅠ戦線においてその名を無視できない存在として刻み込んだのだった。ちなみに、勝ったシンボリクリスエスも外国産馬であり、外国産馬のワンツーは有馬記念史上初の結果であった。

■3度目の正直 ジャパンCでの圧勝劇

年が明けて2003年、6歳となったタップダンスシチーは4月26日の東京競馬場リニューアル記念から始動した。このレースで、単勝7番人気ながらオークス馬レディパステルに2馬身差をつけて快勝すると、続いて5月31日の金鯱賞(GⅡ)に参戦。ここでも4番人気と大本命とはならなかったが、3コーナーから先頭を奪い、そのまま後続を完封して重賞2勝目を挙げた。連勝して波に乗るタップダンスシチーの次なる舞台は宝塚記念。シンボリクリスエス、クラシック二冠を制している3歳馬ネオユニヴァース、天皇賞春を制したヒシミラクルなど、出走馬も多士済々にわたった。レースは好発から2番手の外を進み、大外から一時先頭に立ったが、ヒシミラクル、ツルマルボーイにかわされる。しかしネオユニヴァース、シンボリクリスエスらには先着する3着と結果を出し、実力でGⅠの勲章を手にすることができるということを証明した。

秋戦線の開始、タップダンスシチーの始動戦は10月12日の京都大賞典(GⅡ)となった。このレースでは、天皇賞春・宝塚記念とGⅠ連勝中のヒシミラクルを押しのけて、堂々の単勝1番人気に推された。レースはスタートからハナを奪い、スローペースで逃げるタップダンスシチー。直線でヒシミラクルが接近してくるも逆に突き放し、1馬身半の差をつけてしまうという強い競馬で完勝した。いよいよ3度目の正直と、陣営は、次のGⅠ挑戦を東京競馬場のジャパンカップに定めた。

11月30日、タップダンスシチーの姿は東京競馬場にあった。単勝1番人気、単勝オッズ1.9倍に推されたのは前月に天皇賞秋を制したシンボリクリスエス。2番人気はネオユニヴァースで単勝7.0倍。3番人気はサンクルー大賞連覇ののち香港ヴァーズを制している外国馬のアンジェガブリエルで単勝12.1倍。タップダンスシチーはこれらに次ぐ4番人気で単勝オッズは13.8倍だった。

この年は彼ら以外にも、ブリーダーズカップターフを勝っての参戦したジョハー、豪コックスプレートの勝ち馬フィールズオブオナー、前年のジャパンカップ2着馬サラファンなど、外国調教馬にタレントが揃っていた。

天候は前日の雨が上がっての曇り空であったが、その雨の影響が十分に残った重馬場での開催。ゲートが開いてスタートが切られた。1枠1番のタップダンスシチーはゲート最後入れからポーンと好スタート。そのまま単騎で逃げることに成功する。2番手には菊花賞馬のザッツザプレンティがつけるも、その差はみるみる広がっていく。シンボリクリスエスとオリビエ・ペリエ騎手は中段で折り合いに専念し、ネオユニヴァースはさらにその後ろ。向う正面、タップダンスシチーの一人旅は続く。2番手との差はさらに広がって、7、8馬身もあるだろうか。重馬場もまったく苦にせずに快調なペースで気分良く逃げていく。その姿は、まるで、ひとりでタップを踊る美しいダンサーのようであった。

3コーナーを過ぎるころ、リードは10馬身となっていた。
直線を向く。さすがに後続も焦り始めるがタップダンスシチーの『ダンス』は止まらない。ザッツザプレンティ、ネオユニヴァース、そしてシンボリクリスエスがもがきながら前を追うももうセーフティーリード。真っ先にタップダンスシチーがゴールに飛び込んだ時には、2着ザッツザプレンティとの着差は実に9馬身。これはJRAのGⅠレースにおける史上最大着差の記録となり、いまだに破られてはいない(2025年11月現在)。

晴れてGⅠ馬となったタップダンスシチー。隠れていたその実力をいかんなく発揮することができた要因はなによりも佐藤哲三騎手に鞍上を固定できたことが大きいと思われる。周囲からも乗り難しい馬と思われていたタップダンスシチーを、佐藤騎手は乗りこなそうとするのではなく、押さえつけて御すのでもなく、「なんとかしようとした」のだという。調教の中で、あるいはレースの中で、佐藤騎手が教えたひとつひとつが、タップダンスシチーの中で蓄積していき、このような大輪の花を咲かせることができたのだろう。佐藤騎手もまたタップダンスシチーから得ることができた経験からフィードバックされた知識をもって、非凡な才能を持つ幼駒たちにひとつひとつ競馬を教え込み、のちにエスポワールシチーやアーネストリーといった一流馬を育てていくことに繋がっていく。もちろん、彼らをバックアップする厩舎側の態勢も大事である。このタップダンスシチーの成長は佐藤騎手と佐々木晶三厩舎との強力なタッグの賜物であり、チーム・タップダンスとして団結した成果であるといえるだろう。

■さらなる夢を追いかけて…

ジャパンカップの勝利は、佐々木調教師に新たな一つの夢をもたらすことになった。それは凱旋門賞への出走であった。国際GⅠ競走を勝ったことによって、タップダンスシチーの名前も世界に広まっていった。ジャパンカップの勝ち馬として、堂々と日本代表として競馬場を走ることができる。このの時期から、佐々木調教師は「タップダンスシチーで凱旋門賞を」と発言するようになり、周辺もそれを翌年の大目標に掲げるようになった。ジャパンカップのその後、タップダンスシチーは有馬記念へ出走。ここを引退レースと定めたシンボリクリスエスのワンサイドゲームとなり、2着馬につけた着差は9馬身。ジャパンカップの着差をきっちりやり返されたタップダンスシチーはシンボリクリスエスから13馬身後れを取った8着に敗れた

「でも踊るしかないんだよ」と羊男は続けた。「それもとびっきりうまく踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」。

──村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』より引用

翌年のタップダンスシチーは、秋のフランス遠征を大目標にして動き始めた。

5月29日の金鯱賞を2連覇し、返す刀で出走した宝塚記念、先行したタップダンスシチーは逃げたローエングリンがペースを落としにかかったところを3コーナー手前からロングスパート。迫ってくるシルクフェイマスを2馬身差競り落として1着でゴール。佐藤騎手の強気のレースに、タップダンスシチーの強さへの確かな信頼を見て取ることができる、そんなレースだった。2つ目のGⅠタイトルを手土産に、いざ秋のパリが目の前。佐々木調教師の遠征プランでは、エルコンドルパサーがとったような長期滞在型の遠征ではなく、日本で仕上げてから直前に現地に輸送する形での出走となる筈だった。

──だが、タップダンスシチーの乗るはずだったカーゴ便が直前で故障。代替便も用意できなかったことから陣営は一旦遠征プランを断念することを発表する。ところが凱旋門賞参戦を期待するファンの声の高まりをうけて陣営は遠征断念を撤回し、一転、参戦を決めた。

直前の出国をめぐるごたごたが影響したのだろうか、レース当日のパドックでタップダンスシチーはテンションが高く、以前の悪癖「タップダンス」を見せてしまっていた。大混戦と言われていた凱旋門賞GⅠ、タップダンスシチーは先行して直線に入り、一時は逃げ馬を交わして先頭に立つが急激に失速。勝ち馬バゴから17馬身後れを取った17着に終わった。

その後、タップダンスシチーは8歳の12月まで踊り続けた。帰国初戦の有馬記念はゼンノロブロイの2着。翌年は金鯱賞を3連覇したのちに宝塚記念を7着、天皇賞秋、ジャパンカップ、有馬記念と秋の古馬GⅠロードを完走したもののすべて着外に終わった。8歳の有馬記念を最後に引退、種牡馬となった。


タップダンスシチーは、最初からエリート中のエリートというサラブレッドではなかった。
距離や馬場の適性もわからないでいる中で、幸運にも一人の騎手と手を取り合うことで、泥臭いながらもひとつひとつ階段を上るように課題をクリアして自らのスキルを高めていった馬である。そしてGⅠを手にすると、今度は世界のホースマンの夢である凱旋門賞挑戦へのハードルをひとつひとつ越えていった。

残念ながら凱旋門賞には手が届かなかったものの、タップダンスシチーの「ダンス」は見る者に勇気を与え、次の世代のダンサーたちが道に迷わぬように携わる者たちの道を明るく照らしてくれた。

誰かの真似事ではなく、また誰かに踊らされてのものではない。
タップダンスシチーは、自らの脚で、自らのステップで、音楽に合わせて踊り続けた。

奥手のその血脈は日本のサイヤーラインに深く根を張ることはできなかったが、一流の騎手と調教師が手を取り合って名馬を育てていくという最良のモデルケースとして、これからも語り継がれていくことだろう。タップの脚音は、未来へと続いている。

写真:しんや

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