
ぼくは、アスリートと呼ばれる人たちとは無縁の生活を送ってきた。幼稚園児のころから運動は不得意だったし、小学生になると体育の時間は苦痛以外の何物でもなかった。クラスの中で一握りの「運動が得意な児童たち」の華やかな活躍を冷ややかに眺めている、ノリの悪いその他大勢。そんなクラスのスターたちに対して憧れの気持ちを持っていなかったかというと噓になる。そして、涼やかな顔立ちに、すらりと伸びた脚で走る少女の姿に、淡い憧憬の思いを抱いていた。それはまだ恋と呼べるようなものではなかったが、憧れに伴うかすかな痛みは今でも胸の奥に残っている。
クロノジェネシス。2016年3月6日生まれ。父はタップダンスシチーの参戦した2004年の凱旋門賞を勝ったバゴ。母はクロノロジスト、母の父クロフネ。半姉に2019年のヴィクトリアマイル、2020年の香港カップを勝ったノームコア(父ハービンジャー)を持つ血統である。生産牧場は北海道安平町のノーザンファーム。馬主は㈱サンデーレーシング、栗東トレーニングセンターの斉藤崇史厩舎に所属していて、主戦は北村友一騎手が務めた。
デビュー戦は2018年9月2日、小倉競馬場での芝1800mの新馬戦だった。16頭立ての1番人気に推されたクロノジェネシスは、好発から好位をキープし、直線では鋭い足を繰り出して2着馬に2馬身差をつける全く危なげのない競馬で新馬勝ちを決める。続いて東京競馬場に遠征、牡牝混合のオープンのレース・アイビーステークスに出走。牡牝混合だが、牝馬は彼女ただ一頭であった。それでも3番人気に推していたファンを失望させることはなかった。スローペースのなか好位を追走し、瞬発力勝負になった直線で上がり3ハロン32秒5の鬼脚を披露。またしても2着に2馬身差をつけた完勝だった。

栴檀は双葉より芳し。クロノジェネシスは、デビューからの2連勝を引っ提げて暮れのGⅠ、阪神ジュベナイルフィリーズへと駒を進めた。
1番人気は京都のファンタジーステークスを勝ってここに臨んだダノンファンタジーで、単勝オッズ2.6倍。クロノジェネシスはそれに次ぐ2番人気で単勝3.6倍に推されていた。世代最初のGⅠに臨んだ彼女であったが、いざゲートが開くと痛恨の出遅れをしてしまい、馬群の最後方からのスタートとなった。最内枠からベルスールが平均ペースで逃げる。人気を背負った馬たちはそれぞれに後方を追走。クロノジェネシスは後方2番手、ダノンファンタジーの後方を走る。4コーナーを迎えて、ダノンファンタジーが徐々に前の集団目がけて外を回して差を詰める。クロノジェネシスはさらに大外を選択した。直線、ダノンファンタジーが先行集団を飲み込む。クロノジェネシスはその外から。連れ立って差していく二頭。内目を進むメイショウショウブを交わして一騎打ちになった。ダノンファンタジー。半馬身差で追うクロノジェネシス。二頭の差がつまらない。ダノンファンタジーとクリスチャン・デムーロ騎手が一足先にゴールへと飛び込んだ。クロノジェネシスは半馬身差の2着、2歳女王の栄冠にはわずかに手が届かなかった。
翌2019年のクラシックシーズン。年明け緒戦に、クロノジェネシスは2月11日の東京競馬場のデイリー杯クイーンカップを選んだ。競馬ファンは単勝オッズ2.1倍の1番人気で彼女を迎え入れた。レースはスローペースの中、上り最速33秒1の脚を使ったクロノジェネシスが、阪神ジュベナイルフィリーズ3着のビーチサンバをクビ差競り落として重賞初制覇を飾り、続く桜花賞への弾みをつけた。
2019年4月7日、阪神競馬場で平成最後の桜花賞が行われた。1番人気は桜花賞トライアルであるチューリップ賞を完勝した2歳女王のダノンファンタジーで単勝オッズ2.8倍。2番人気は牡馬相手の朝日杯フューチュリティステークスに参戦して3着と好走したグランアレグリアで単勝オッズ3.4倍。クロノジェネシスは3番人気、単勝オッズ5.7倍に推されていた。4番人気以下は10倍越えと3強ムードのなか、レースは始まった。
真っ先に飛び出したのはメイショウケイメイ。大外枠からプールヴィルがこれを抑えてハナに立つ。グランアレグリアとクリストフ・ルメール騎手は好位3番手に取り付いて追走し、ダノンファンタジーと川田将雅騎手はそのグランアレグリアの一列後ろをなだめながら続く。クロノジェネシスと北村騎手はさらに後ろの8番手に位置し、出遅れたシゲルピンクダイヤが徐々に位置を上げていく。緩やかな流れ。
4コーナー入り口で早くもグランアレグリアがプールヴィルに並びかけて、直線、先頭に立ち一気に押し切りを図る。ダノンファンタジーも外を伸びてくる。クロノジェネシスもイン追走から直線外に出して末脚を見せる。3強が火花を散らすかと思いきや、ルメール騎手とグランアレグリアが、後方に2馬身半の差をつけて桜花賞レコード完勝。2着には上り最速32秒7で内を突いたシゲルピンクダイヤが食い込み、32秒9の脚を使ったクロノジェネシスはハナ差の3着、ダノンファンタジーはアタマ差の4着に敗れた。
桜花賞馬グランアレグリアは距離適性を考慮してNHKマイルカップに回ったため、この年は桜花賞馬不在のオークスとなった。
2019年5月19日の東京競馬場。人気は3戦3勝の忘れな草賞の勝ち馬ラヴズオンリーユーとクロノジェネシスが分ける形となり、最終的にはミルコ・デムーロ騎手が鞍上のラヴズオンリーユーが1番人気に支持された。スタンド前のゲートインでシゲルピンクダイヤがゲート入りを嫌がり緊張感が高まる。全頭無事収まってゲートが開いた。
最内枠のジョディーが真っ先に飛び出した。2番手にコントラチェック。4番手の内にクロノジェネシスが、好発からいつもよりも前目で追走する。その外にカレンブーケドール、同じく好位グループの馬群の中にダノンファンタジー。ラヴズオンリーユーはその後方に構える。前へと詰めてくる。隊列変わらないまま向う正面を過ぎて3,4コーナーへ。後方の馬たちが徐々に前方へと詰めてくる。直線に向くと、満を持して馬場の真ん中をカレンブーケドールが伸びてくる。内からクロノジェネシス。ダノンファンタジーも追走する。カレンブーケドールが先頭に立つ。クロノジェネシスが食い下がるが、カレンブーケドールの脚色がいい。ゴールをめがけて堂々の先頭に。しかしその外から、この時を待っていたかのようにラヴズオンリーユーが伸びてきた。カレンブーケドールと馬体を併せる。抵抗するカレンブーケドール。しかし勢いはラヴズオンリーユーだ。クビほど前に出たところがゴール板だった。無敗のオークス馬の誕生。クロノジェネシスは健闘したものの2着カレンブーケドールから2馬身半の3着に終わった。淀みのないペースに脚が溜まらなかったのが敗因に挙げられている。

オークスの激闘の後、クロノジェネシスは休養に入った。秋の最大目標は秋華賞。陣営はここに、トライアルレースを使わず直行する道を選択した。桜花賞馬グランアレグリアは別路線へと進み、オークス馬ラヴズオンリーユーは調整遅れでここを回避したため秋華賞戦線は主役不在で混沌としていた。
2019年10月13日。1番人気に推されたのは2歳女王のダノンファンタジー、2番人気にオークス2着馬のカレンブーケドール。クロノジェネシスは夏競馬で条件戦を連勝してきたエスポワールに次いでの4番人気に推されていた。スタート。最内枠のダノンファンタジーと川田騎手が好スタート。ビーチサンバと福永祐一騎手がこれを交わしてハナに立つ。追いかけるコントラチェックとルメール騎手。2頭がハナを譲らず速い流れになる。3番手にダノンファンタジー。クロノジェネシスと北村騎手はこれを見る位置。カレンブーケドールと津村明秀騎手はその後方を追走する。
ビーチサンバは1000m通過が58秒3と速いペースで飛ばす。クロノジェネシスは6、7番手のインをキープ。ビーチサンバが先頭で4コーナーを回る。ダノンファンタジーと川田騎手が外に回して先頭を窺う。そして直線、ビーチサンバが2馬身抜け出すも、後方から有力馬たちがどっと押し寄せてくる。ダノンファンタジー、カレンブーケドール、その外を通ってクロノジェネシス。一気に態勢が変わった。クロノジェネシス先頭、カレンブーケドール2番手。後方から凄い脚でシゲルピンクダイヤが迫る。
ゴール前、内で抵抗するカレンブーケドールを、クロノジェネシスがねじ伏せた。2馬身差をつけて、牝馬三冠の最後の一冠奪取。北村騎手には二つ目の中央GⅠ制覇であり、斉藤崇厩舎にとっては嬉しい初の中央GⅠ制覇だった。
■GⅠ馬として次なる舞台へ
GⅠ馬となったクロノジェネシスは約1か月後の2019年11月10日、京都競馬場でエリザベス女王杯を戦った。初めての古馬牝馬との戦い、同じ3歳馬のラヴズオンリーユーとともに1、2番人気を分け合ったが、結果は1つ年上、4歳のラッキーライラックの『古馬の壁』の前に5着に敗れた。「坂の下りでペースアップしたのに戸惑ったのかも」という北村騎手による敗因分析が残っている。
年が明けて古馬となって、クロノジェネシス陣営は初戦に京都競馬場の伝統の一戦、京都記念を選択した。ここは秋華賞でマッチレースとなったカレンブーケドールとの再戦となったが、人気の上でも1番人気に推され、結果も再び直線で2馬身半差突き放しての勝利を飾る。

しかし、続いて出走した阪神競馬場での大阪杯では、ここで再びラッキーライラックが立ちはだかり、クロノジェネシスは内から併せて直線猛追したがクビ差及ばず、2着に惜敗した。
クロノジェネシスの次走は、2020年6月28日に行われる宝塚記念に決まった。このレースで1番人気に推されたのはサートゥルナーリアである。「世界の」ロードカナロアを父に、日米のオークスを制したシーザリオを母に持つ良血馬。前年の皐月賞を勝って暮れの有馬記念をリスグラシューの2着と好走し、前走では宝塚記念の前哨戦・金鯱賞を1番人気で制していた。クロノジェネシスは2番人気、ラッキーライラックが3番人気。ほかにも3年前の菊花賞馬キセキ、2年前のダービー馬ワグネリアン、3歳時に有馬記念を制しているブラストワンピースなど、このレースで復活を期するGⅠ馬なども集まる強力メンバーであった。
直前に強く降り出した雨のため芝コースは稍重にまで悪化する中、史上最高の8頭のGⅠ馬を揃えた18頭の面々がスタートを切った。先行すると思われたキセキが行かない。かわりに、内枠からトーセンスーリアがハナを奪う。ワグネリアンが2番手、ラッキーライラックは3番手につけた。クロノジェネシスはラッキーライラックを見る位置で追走。前半の1000mは1分フラットで駆け抜けていった。向う正面の中間あたり、後方にいたキセキの武豊騎手が徐々に位置を上げていく。それを合図とするかのように3、4コーナー中間から好位勢も先行勢に取り付いた。ラッキーライラックが一足早く先頭に並びかけるが、クロノジェネシスもその外へ馬体を併せていく。中団にいたサートゥルナーリアは伸びない。渋った馬場に脚を取られたのか、他の有力馬が伸びあぐねる中で、クロノジェネシスがただ一頭馬場の真ん中を突き抜けていく。1馬身、2馬身。後方でキセキが2番手に上がる中、クロノジェネシスはそのキセキに6馬身もの差をつけてゴールへと飛び込んだ。ラッキーライラックへの苦手意識を拭い去るような圧勝であった。グランプリホースとなったクロノジェネシス。「クロノジェネシスを褒めてあげてください」北村騎手の声も弾んでいた。
秋は東京競馬場の天皇賞秋から始動。ここにもまた1頭、倒さなければならない敵が出走してきたのだ。その名はアーモンドアイ。強烈な決め脚で前年の牝馬三冠に併せてジャパンカップも制覇、ここまで中央GⅠの勝鞍を6つ積み上げている歴史的名牝である。天皇賞秋の単勝オッズも圧倒的な1.4倍。しかしクロノジェネシスも2番人気の単勝オッズ4.4倍に支持されていた。アーモンドアイを止めるならばクロノジェネシスだ、と競馬ファンの期待も高まっていた。しかしいざゲートが開いてみると、アーモンドアイはやっぱり化け物だった。クロノジェネシスも好位追走から上り3ハロン32秒8(推定)という末脚を繰り出したものの、アーモンドアイと春の天皇賞馬フィエールマンの牙城を崩せずに3着に終わった。
天皇賞秋の惜敗から2か月、クロノジェネシスの次走は冬のグランプリ・中山競馬場で行われる有馬記念GⅠとなった。この年は人気上位と考えられるアーモンドアイ(天皇賞秋・ジャパンカップ制覇)、コントレイル(無敗で牡馬三冠を制覇)およびデアリングタクト(無敗で牝馬三冠を制覇)らが揃って出走を見送ったこともあり(アーモンドアイは引退)、これらの有力馬を抑えてファン投票1位に輝いたのがクロノジェネシスであった。引退したアーモンドアイの後継者たる最強牝馬の称号の継承をこの一戦で試される、そんなグランプリになったのだ。彼女の単勝オッズが2.5倍の1番人気。競馬ファンもまた、最強牝馬の座をかけた彼女の挑戦を後押ししながらも、自らの相馬眼を試されているのかもしれなかった。因縁浅からぬラッキーライラックと天皇賞馬フィエールマン、同じ㈱サンデーレーシングの勝負服の3頭が1~3番人気を占めたグランプリは、最内枠のバビットの好スタートから始まった。2、3番手をブラストワンピースとオーソリティ。フィエールマンがスタンド前で早くも位置を上げて4番手を進む。ここが引退レースのラッキーライラックは中段グループに位置し、クロノジェネシスはそれを見る形で後方を進む。向う正面、クロノジェネシスが外々を周りながら徐々に前のグループとの差を詰め、押し上げていく。4コーナーを迎えるところで大外に回して早くも先頭を射程圏に入れた。直線。フィエールマンがバビットを交わして先頭に立つ。馬場の真ん中を通ってクロノジェネシスが伸びてくる。2頭のマッチレースと思いきや、後方にいたサラキアが末脚を伸ばして追いすがってきた。フィエールマン、クロノジェネシス。クロノジェネシスがフィエールマンを競り落とし、ゴールへのヴィクトリーロードを芝を蹴立ててひた進む。サラキアがフィエールマンを交わして2着に上がった時、クロノジェネシスがゴール板の前を通過した。湧き上がる拍手の中のウィニングラン。春秋グランプリ連覇は前年のリスグラシューに続いての快挙であった。

■更なる高みを目指した5歳
翌年、5歳になったクロノジェネシスには、新たなミッションが課されることになった。凱旋門賞への挑戦である。もちろんまだ未対戦の三冠馬2頭、コントレイルやデアリングタクトとの決着は未だついてないものの、日本代表として選ばれても恥ずかしくない実績を上げてきた。道悪を苦にしないその走法はフランスの重い馬場に向いているという意見も多かった。
年が明けての初戦はアラブ首長国連邦のドバイで行われる、ドバイシーマクラシックへの遠征となった。レースでは中団を追走し、直線に入って先に抜け出しを図ったラヴズオンリーユーを交わして先頭に立ったのだが、ゴール前で外から伸びてきたミシュリフに捉まってクビ差の2着、海外初勝利はお預けとなった。陣営は、次走は昨年勝ち鞍を挙げている宝塚記念を選択した。相性のいい夏のグランプリで勝ち星を挙げて、秋に予定されている凱旋門賞遠征に向けて弾みをつけたい、そんな思惑が見え隠れしていた。
ファン投票の第1位と、単勝オッズ1番人気の座に当然のように座ったクロノジェネシスであったが、そんな彼女に一つ試練が待っていた。
デビューから手綱を取っていた鞍上の北村友一騎手が、2020年5月2日の競走中に他馬の斜行が原因で落馬し、椎体および右肩甲骨の骨折と診断されて手術、後日には背骨8本以上の骨折が見られて、復帰まで1年以上を要するものとされた。
当然ながら、宝塚記念は騎乗できない。陣営はクロノジェネシスが十二分に力を発揮できる鞍上を模索したうえで、クリストフ・ルメール騎手に騎乗を依頼した。トップジョッキーとグランプリホースのタッグの結成である。ライバルは、春の大阪杯を無敗のままで逃げて制したレイパパレや、クロノジェネシスと幾度も好レースを繰り広げてきたカレンブーケドールなどの牝馬勢。
そしてここでは、単勝オッズ1.8倍は伊達ではないところを見せつける圧巻のレースとなった。

レースでは内枠から好発を決めたユニコーンライオンがハナに立ち、レイパパレがそれを行かせて後に続く。三番手にキセキ。クロノジェネシスは好位5番手で折り合う。有力馬が前に位置したまま向う正面へ。ユニコーンライオンの1000m通過は60秒フラット。レイパパレが徐々に前に詰め寄っていき、その後ろの騎手たちのアクションもここぞとばかり大きくなる。4コーナーから直線。ユニコーンライオン先頭も、レイパパレがこれに並びかける。抵抗するユニコーンライオン。抜け出した2頭の外からクロノジェネシスが伸びてくる。並び、そして抜き去る。クロノジェネシス先頭。
力強いストロークで1馬身、2馬身と差を広げてゆく。ユニコーンライオンがレイパパレを差し返した時、クロノジェネシスとルメール騎手はゴール板を突き抜けていた。グランプリ三連覇。スピードシンボリ、グラスワンダーに次いで3頭目の快挙であり、牝馬としては初めてのこと。宝塚記念の連覇はゴールドシップに次いで2頭目の達成だった。

グランプリ三連覇を成し遂げたクロノジェネシス。陣営は正式に凱旋門賞出走を発表。オイシン・マーフィー騎手が騎乗することとなった。9月24日の航空便でフランスへと渡り、フランスでの調教をスタートさせた。そして10月3日、クロノジェネシスは晴れて凱旋門賞に出走した。凱旋門賞勝ち馬のバゴの産駒ということで、単勝人気は3番人気に推されていたという。
1番人気はフランケル産駒のゴドルフィン持ち馬ハリケーンラン。日本馬からはもう1頭、ディープボンドが出走していた。また、武豊騎手もエイダン・オブライエン厩舎のブルームの騎乗依頼を受けて出走していた。レースではスタート直後に馬群から大きく離れた外に抜け出すと、中盤は3番手を追走。しかし最終直線で力尽き7着に敗れた。勝ったのはドイツのバーデン大賞の勝ち馬、13番人気の4歳牡馬、トルカータータッソだった。
フランスから帰国して間もなく、同年の有馬記念をもって引退する旨が馬主の㈱サンデーレーシングから発表された。
引退レースが有馬記念。前人未到のグランプリ4連覇がかかるレースとなった。骨折療養中の北村友一騎手に替わって、再びクリストフ・ルメール騎手が手綱を取ることとなった。1番人気はこの年の皐月賞と天皇賞秋を勝った3歳牡馬エフフォーリアで、単勝オッズ2.1倍。クロノジェネシスは単勝2番人気の2.9倍だった。

強敵はやはりエフフォーリア。3歳の雄が天皇賞馬の称号を手にして、若武者・横山武史騎手とともにここを勝って世代交代と年度代表馬の座を狙う。その他にも同年の菊花賞を勝ったタイトルホルダー、皐月賞・日本ダービーともに3着と常に世代上位をアピールしてきたステラベローチェ、大逃げに魅力のパンサラッサなど、年末の大一番を盛り上げるタレントたちが勢ぞろいしていた。
2016年12月26日、降り注ぐ黄金色の光線を浴びながら16頭の精鋭がゲートに入り、やがてスタート。内枠から上手く出たパンサラッサと菱田裕二騎手が先行しリードを開いてゆく。2番手に菊花賞馬タイトルホルダーと横山和生騎手。クロノジェネシスは7番手前後で、エフフォーリアはそのクロノジェネシスを見るような中団の位置。逃げを打ったパンサラッサの最初の1000m通過が59秒5。
向う正面に入ってもパンサラッサの逃げは衰えないが、徐々に2番手のタイトルホルダーが距離を詰めようとしている。3コーナーを迎えてタイトルホルダーがパンサラッサを捕まえる。しかし譲らないパンサラッサ。4コーナー、後方の馬が前へとなだれ込んでいく。エフフォーリアも満を持して外に出して前を追う。直線。タイトルホルダーがパンサラッサを競り落として先頭に立った。追いかけるディープボンドと和田竜二騎手。その外から馬場の真ん中を堂々とエフフォーリアが並びかけていく。その後方からステラベローチェとクロノジェネシスが併せ馬の形で伸びてくる。
エフフォーリアがタイトルホルダーを交わして先頭に立った。これに追いすがるディープボンド。脚を伸ばしてくるクロノジェネシス。しかし、エフフォーリアが先頭。ディープボンド、クロノジェネシス。エフフォーリアが先頭でゴール板を駆け抜けた。2着ディープボンド、クロノジェネシスは3着となり、期待されたグランプリ4連覇は夢のままで終幕した。
──そして。
日がとっぷりと暮れた中山競馬場で、全レース終了後、クロノジェネシスの引退式が行われた。現役最強馬から、繁殖牝馬へ。その門出に、ケガで療養中の北村友一騎手も駆け付けた。「クロノジェネシスは、まるでペットでした」と思い出を語る北村騎手。ドバイシーマクラシックへの参戦時、異国ドバイの地でクロノジェネシスとともに長い時間を過ごしたという。その際、彼女とのその時間について「こんなに長い時間、クロノジェネシスといっしょに過ごしたのは初めてでした。あれは本当に楽しい時間でした」と語った上で、「普段はこんなにおとなしいんだということを知ったんです。追い切った後でもおとなしいのには本当に驚きました。すごいな、たいした馬だなと思いました」と述べていた。
そんな彼女も、年が改まったらまた新たな戦いが始まるのだ。新しい命を宿し、送り出していくことで、競馬の歴史・血統の歴史という荒波の中に漕ぎ出していかなければならないのだ。グランプリ3連覇という勲章を引っ提げての参戦である。一方で、繁殖として実力が伴わなければ話題となることも減っていくのがこの世界の定めでもある。この引退式に臨んだ人たちの多くが、彼女の行く末に、彼女が産み出す新しい命に幸多かれと祈っている。そのようにして競馬は続いてきたのであり、これからも続いていくのだから。

それから何年か過ぎた、ある夏のこと。それは数年前より明らかに暑い夏の日だった、2025年7月20日の昼さがり。テレビをつけたらちょうど小倉競馬場の第5レース、新馬戦のパドックだった。13頭の『園児たち』とでも言うべきお行儀のよい2歳馬の行列を見ていて、ふと、1頭の牡駒が目についた。
名はベレシート。母クロノジェネシスの初仔で父エピファネイア。近親に香港カップの勝ち馬ノームコア。父譲りの黒鹿毛の馬体を光らせて他馬を圧倒していた、ように見えた。母と同じ㈱サンデーレーシングの勝負服のもとで、母の現役時代を管理していた斉藤崇史厩舎に入厩し、母の主戦だった北村友一騎手を鞍上に迎えて単勝2番人気の支持を得ていたのだ。

レースでは1番人気のりアライズルミナスが逃げ馬の後ろで先行争いに参戦する中、ベレシートはゲートで躓き最後方を進み、向う正面から徐々に位置を上げて先行集団にとりついた。
直線、りアライズルミナスが伸びあぐねる中、馬場の真ん中を伸びてきたベレシートが先行する馬たちを交わして先頭でゴール板を駆け抜けた。まるで母クロノジェネシスのような末脚で。

テレビの画面で祝福を受ける北村友一騎手とベレシートを見遣りながら、ふと、幼き頃の思い出が蘇る。少年時代に憧れた、アスリートの彼女はどうしているだろうか。そう考えていると、テレビに映るクロノジェネシスと彼女の子供だけでなく、幼き日のアスリートの彼女やその子供たちにも祝福を贈りたいなどと、柄でもないことを考えた。
──次のレースのファンファーレが響いて、ぼくの幼き日の甘い記憶の方が霧散していくのを感じた。
そしてぼくは、競馬新聞のベレシートの馬柱にグルグルと赤ペンで目印をつけた。微かに残ったクロノジェネシスの匂いを忘れないために。
写真:INONECO、はまやん、s1nihs

