おそらくその日、美浦トレセン内にある藤沢厩舎には、非常に重苦しい空気が流れていたに違いない。
管理するシンコウエルメスが調教中に骨折。獣医からは、おそらく治る見込みがないだろうとの診断がなされたからだ。つまりそれは、シンコウエルメスが予後不良──安楽死処分になってしまうことを意味していた。
しかし、師はそこで引き下がることができなかった。
というのも、アイルランドから連れてきたこの牝馬は、英・愛ダービーとキングジョージを制したジェネラスを兄に持つ、世界的にも超のつく良血馬(後に、弟のオースミタイクーンが重賞を2勝、妹のimagineも愛1000ギニーと英オークスを制覇)だったからだ。そこから手術が行われ、その後も厩舎スタッフによる懸命な介護が続いたという。その結果、数ヶ月後には繁殖として牧場に戻れるまでに回復。
牧場に戻った後も、蹄葉炎などの疾病を発症することはなかった。
その後、シンコウエルメスは国内で2頭の牝馬を出産し、母と同様に、2頭とも藤沢調教師の元に預けられることとなった。そのうちの1頭、エルノヴァは、重賞で2着2回、エリザベス女王杯でも3着と活躍。一方、エルメスティアラは、シンコウエルメス同様、脚元に弱いところが見られたため、師の判断で、競走馬としてデビューすることなく繁殖に上げられた。
シンコーファームに戻り、第二の馬生を歩み始めたエルメスティアラは、2003年に父アフリートの牝馬を産み、それをきっかけに6年で4頭の産駒をこの世に送り出した。
さらに、2009年。シンコーファームの閉鎖に伴い、エルメスティアラの所有権は、後にホエールキャプチャでヴィクトリアマイルを制することになる嶋田賢オーナーのもとに移り、静内の服部牧場に預けられることとなった。1996年の皐月賞馬イシノサンデーや、ダート中距離の活躍馬グリムを生産した牧場である。
第三の馬生を送ることになったエルメスティアラは、その後も子出しを続け、2013年の春、7番子としてディープインパクトを父に持つ牡馬をこの世に産み落とした。それが、後のディーマジェスティだった。
母同様、嶋田オーナーの持ち馬となったディーマジェスティは、生まれてすぐからその姿を見ていた美浦の二ノ宮敬宇厩舎に入厩。蛯名騎手と黄金タッグを組み、エルコンドルパサーとナカヤマフェスタで、世界の頂点に二度手をかけた名門中の名門である。
そんな彼のデビュー戦となったのは2015年9月、札幌芝1500mの新馬戦だった。
この年から、JRAの騎手として通年免許を取得したルメール騎手を背に、ディーマジェスティはスローで逃げたキングライオンをハナ差だけ交わせず2着。それでも、見せ場十分の内容だった。さらに3週間後、中山芝1800mの未勝利戦に出走。今度は、蛯名騎手が騎乗したものの、またも2着と惜敗し、ここで一度休養が挟まれた。
その後、ディーマジェスティが戦列に復帰したのは、2ヶ月後の東京芝2000mの未勝利戦だった。2戦連続2着の馬としては、単勝2.6倍というやや高めのオッズではあったが、2番人気が同じディープインパクト産駒の良血馬マウントロブソン、3番人気もディープインパクト産駒のドラゴンテリーで、それも仕方のないことだった。
レースは、前半1000mが1分2秒1というスローペースで、ディーマジェスティは中団やや後方を追走したが、直線では非凡な末脚を発揮。ゴール前でマウントロブソンとのマッチレースになったものの、上がり3ハロン33秒5の末脚を繰り出してクビ差先着し、3戦目にして待望の初勝利を挙げた。
続く4戦目は、前年からGⅡに格付けされたホープフルステークスとなるはずだったが、レース当日にフレグモーネを発症。出走取り消しとなり、仕切り直しの一戦は、年明け2月の共同通信杯となった。
例年、少頭数ながら好メンバーが集うレースで、この年も10頭立てではあったが、メンバーは少数精鋭といえるものだった。ホープフルステークス勝ち馬ハートレーを筆頭に、東スポ杯2歳Sを勝ったスマートオーディンが続き、さらには、葉牡丹賞を勝った後、京成杯でも3着に好走したメートルダールが上位人気に推された。未勝利戦を勝った後に次走を取り消し、結果的に3ヶ月弱の実戦となったディーマジェスティが、単勝22.6倍の6番人気に甘んじるのも当然だった。
レースは、内枠からリスペクトアースが快調に逃げ、1000m通過は60秒0の平均ペース。スマートオーディンは、折り合いを欠きながらも武騎手がなんとかなだめて4番手で我慢し、ディーマジェスティはハートレーと共に、先頭からおよそ6馬身差の7番手を追走した。
後続に控えた有力馬が3コーナー過ぎから徐々に前との差を詰める一方で、ディーマジェスティは、4コーナーで早くも蛯名騎手の左鞭が2発、3発と飛ぶも反応が鈍く、馬場の内目でポジションを上げることができないまま直線を迎えた。
直線に入ると、今度は、そこまでの手応えが嘘のように有力馬が伸びず、ハートレーはずるずると後退。スマートオーディンも、道中折り合いを欠いたことが響いたか、先頭集団から離され始めた。そんな上位人気馬とは反対に、直線に入ってからも蛯名騎手に叱咤され続けていたディーマジェスティは、残り200mで馬場の中央に持ち出されると、ついにそこからエンジン全開となる。
ディープインパクト産駒らしい、軽やかさやキレ味、目を見張るような瞬発力というわけではなく、どちらかといえば、追えば追うほど豪快に伸びる、力強くパワーあふれるような剛脚を披露。残り100mでイモータルを交わして先頭に立つと、最後方から追い込んできたメートルダールの追撃も封じ、格上挑戦となった昇級初戦を、見事に重賞制覇で飾ったのだった。
そして、このレースを勝利したことは、この後のクラシック出走にあたって非常に価値あるものとなった。
というのも、もし2着以下に終わっていれば、賞金不足で皐月賞やダービーを除外される可能性があり、トライアルレースに出走して優先出走権を獲得しなければならないからだ。そうなれば、この後に余裕のないローテーションを組む必要があったが、実際に勝利したことでその必要はなくなり、本番までに再び休養を挟むことができたのだった。
そこから2ヶ月後、ディーマジェスティは皐月賞に駒を進めた。
同じディープインパクト産駒で、前走きさらぎ賞を勝ったサトノダイヤモンドが単勝オッズ2.7倍の1番人気に推され、朝日杯フューチュリティステークスを勝ったリオンディーズが僅差の2番人気に続き、弥生賞でこれを破ったマカヒキが3.7倍の3番人気だった。人気はこれら3頭に集中し、4番人気のエアスピネルは単勝16.1倍で、この年の皐月賞の図式は、もっぱら『3強対決』として注目が集まっていた。
一方のディーマジェスティは、共同通信杯を上回る単勝30.9倍の8番人気。しかし、前走共同通信杯組は、ここから遡ること4年で3頭が皐月賞馬となっていて、蛯名騎手自身も、2年前に同様のローテーションでイスラボニータを勝利へと導いていた。
この日は、午前中は曇って午後からは雨が降り、メインレースの頃には晴天となるなど、目まぐるしく天候が変わったが、一日を通して春の嵐のような強風が吹いていた。向正面では向かい風、直線では追い風となる強風だった。
スタートが切られると、大外枠のディーマジェスティは、外に膨らむようにゲートを出たため2馬身ほど遅れたが、致命的なのロスにはならず、後ろから5番手を進む。前は、共同通信杯と同様にリスペクトアースが先手を奪い、リオンディーズが掛かり気味にそれに続いた。サトノダイヤモンドはちょうど中団、マカヒキはなんと後ろから2番手にポジションをとって、レースは向正面に入った。
前半1000mは、58秒4のハイペースで流れ、その数字がターフビジョンに表示されると、場内からは大きなどよめきが上がった。隊列は縦長で、前から後ろまでは15馬身ほどの差。3コーナーの入口に差し掛かったところから、後方に控えていたディーマジェスティとマカヒキは、早くもポジションを上げ始める。
続く4コーナーで、逃げたリスペクトアースと3番手のアドマイヤモラールが失速して後退し、リオンディーズが早くも単独先頭に立った。それを見て、エアスピネルが3番手に上がり、サトノダイヤモンドも逃げ込みを図らせまいとその直後まで迫って、レースは最後の直線勝負に入る。
迎えた直線。
リオンディーズが、依然1馬身半ほどのリードを保ったまま残り200m標識の地点までやってきて、中山名物の最後の急坂を駆け上がろうとしていた。しかし、ハイペースを2番手で追走したことが、ここで響いて苦しくなったのか。ミルコ・デムーロ騎手が右鞭を2発入れると、それに反応した馬が少し外へよれてしまい、並ぶところまできていたエアスピネルとサトノダイヤモンドに接触してしまったのだ。
それは、馬場の中央で繰り広げられた一瞬の攻防だった。
しかし、予めそうなることを見計らっていたかのように、強い追い風を味方にして、チャンスとばかりに大外を豪快に追い込んでくる馬がいた。
ディーマジェスティだった。
父が皐月賞で見せた、まるで飛ぶような軽快な末脚ではなく、共同通信杯と同様、地響きが聞こえてきそうな、力強さが地面を通して伝わってくるようなパワフルな剛脚。そこに、蛯名騎手の豪快なアクションが合わさって、さらなる力強さを産む。エンジンが全開になるまで時間がかかるこの馬にとって、道中ハイペースで流れていたことも味方した。
残り100mで、まとめて前を交わして先頭に立ったディーマジェスティは、追い込んできたマカヒキの追撃を1馬身4分の1差しのいで、1着でゴールイン。勝ちタイムの1分57秒9は、コースレコードに0秒1迫り、当時の皐月賞レコードとなる好タイムだった。
生産した服部牧場にとっては、これが20年ぶりの中央GⅠ制覇となり、20年前に制したGⅠもまた皐月賞だった。そして、日高の中規模牧場が生産したディープインパクト産駒が、超大手牧場生産のディープインパクト産駒2頭を従えてクラシックを制したことは、大変な快挙といえた。
未勝利戦脱出から、わずか2戦でのクラシック制覇。この勝利により、ディーマジェスティは、3強を脅かす伏兵という立場から一気に世代の中心へと上り詰め、勇躍、日本ダービーに向かうのであった。
迎えた競馬の祭典、日本ダービー。ディーマジェスティは、1枠1番という絶好枠を引き、僅差ながら堂々の1番人気に推されていた。その後に続いたのは、皐月賞で3強と称された馬達で、今回は、ディーマジェスティを加えた『4強対決』に変わっていた。
ホースマンである以上、ダービーにかける思いは、どの陣営にとっても並々ならぬもののはずで、それは、管理する二ノ宮調教師だけでなく、蛯名騎手にとっても同じだったに違いない。
2014年は、1番人気のイスラボニータに騎乗して2着。
さらにその2年前にも、フェノーメノに騎乗してディープブリランテにハナ差及ばず2着。
この時、ディープブリランテの岩田騎手が大粒の嬉し涙を流したのとは対照的に、蛯名騎手は、引き上げてきた検量室前で、人目もはばからず悔し泣きした。今回が、実に24度目のダービー挑戦。当時47歳という年齢を考えれば、この先、そう何度もチャンスが来ないであろうことは、おそらく本人が最も分かっていたはずだ。
ゲートが開くと、無難なスタートを切ったディーマジェスティと蛯名騎手は、隊列のちょうど真ん中につけ、2、3番人気となったサトノダイヤモンドやマカヒキと、同じような位置にポジションをとった。しかし、前半1000mの通過タイムは60秒0と、ペースはどちらかといえばスローだった。
迎えた直線勝負。馬場の中央から、瞬発力を武器にするサトノダイヤモンドとマカヒキが抜け出す。ディーマジェスティは、2頭のさらに外へと進路を取って前を追ったが、スローで流れていたため瞬発力が求められる展開となり、エンジン全開になるまで時間がかかる点と、しぶとく長続きする末脚が持ち味のこの馬にとっては分が悪かった。
結局、2頭との半馬身差は終始詰まらず、3着に惜敗。陣営にとって、それはあまりに悔しい敗戦だったはずだが、皐月賞までの戦績を考えれば大健闘といえるもので、1番人気を裏切ったという表現を使うには酷な内容だった。
その後、菊花賞を目指して調整されたディーマジェスティは、前哨戦のセントライト記念を快勝。
しかし、サトノダイヤモンドとの2強対決となった本番の菊花賞では、勝負どころで手応えが悪くなり、そこから抵抗したもののデビュー初めて複勝圏外となる4着に敗れてしまう。初の輸送の影響があったかもしれないということだったが、結果的にこの敗戦以降、ディーマジェスティが立ち直ることはなかった。
次走のジャパンカップでは13着と惨敗を喫し、年明けの日経賞と天皇賞春は連続して6着。以後、休養に入っていたが復帰のめどが立たず、11月に引退が発表され、アロースタッドで種牡馬入りすることになった。
ここで、話は冒頭のシンコウエルメスに戻る。2000年に、生まれ故郷のアイルランドに戻ったシンコウエルメスは、重度の骨折を負った馬とは思えないほど、その後も産駒を世に送り続けた。
2002年に産んだLake Toyaの娘Sobetsuが、仏GⅠのサンタラリ賞を制覇。
2004年に産んだブルーダヌーブは、母と同様に日本へと輸出され、2020年のGⅡステイヤーズステークスを勝ったオセアグレイトを世に送り出した。
そして、極めつけは2010年に生まれたスノーパインである。Raven's Passの仔を受胎したまま、やはり日本に輸出された彼女は、1頭の牡馬を出産した。
その牡馬は、かつて祖母の命を救った藤沢厩舎に入厩してデビューを果たすと、デビュー4戦目でGⅡの京王杯2歳ステークスを制し、4歳シーズンの2019年にはGⅡの京王杯スプリングカップとセントウルステークスをレコードタイムで勝利。さらに、同年のスプリンターズステークスにも優勝してGⅠ馬となった。
──そう、師がシンコウエルメスの命を救ってから23年の時を経て、孫のタワーオブロンドンが見事に恩返しを成し遂げたのだった。
重賞を5勝したタワーオブロンドンは、2020年をもって現役生活を引退して種牡馬入りすることとなり、順調にいけば、2024年に産駒がデビュー予定となっている。一方、2018年から種付けを開始したディーマジェスティの産駒は、2021年からターフを駆け抜ける姿を見ることができる。
2020年6月、藤沢調教師は、史上二人目となるJRA通算1500勝達成という大偉業を成し遂げた。
美浦トレーニングセンターにはその偉業を称える記念碑が建立され、9月に除幕式が行われた。
その碑に印された文字は
一勝より一生
シンコウエルメスやエルメスティアラに向き合った師の姿勢は、まさにこのモットーを象徴するエピソードだったといえる。あの日、重傷を負ったシンコウエルメスに対しての診断に、師が首を縦に振っていたら──。
多数の重賞勝ち馬、さらには2頭の種牡馬を輩出する、名門一族は誕生していなかったのである。
写真:Hiroya Kaneko