古豪が見せた最後の意地~1996年・金鯱賞~

近年、金鯱賞ほど施行時期やその位置づけが目まぐるしく変更された重賞はないだろう。
古くは、夏のハンデ重賞として親しまれていたものの、1996年に別定GⅡに昇格して宝塚記念の前哨戦となった。

ところが、2012年からは12月に時期を移し有馬記念の前哨戦になると、2017年からは、GⅠに昇格した大阪杯の前哨戦として3月に移り、現在に至っている。

今回は、GⅡに昇格した初年度──すなわち1996年の金鯱賞を振り返りたい。


この年の金鯱賞には13頭が顔を揃えたが、GⅡに昇格したこともあり、重賞で実績のある馬が以前より多く出走していた。また、世代別に見ても、4歳~8歳まで5世代の馬がそれぞれ1頭以上は出走しており、バラエティー豊かな組み合わせとなった。

最終的に、単勝オッズで10倍を切ったのは4頭で、1番人気に推されたのは5歳馬のテイエムジャンボ。この年、京都金杯・京都記念と、すでに重賞2勝をマークしていた。初めてGⅠに挑戦した前走の天皇賞春は、折り合いを欠いて15着と大敗したものの、そこまで芝のレースでは11戦8勝、3着と4着が1回ずつと安定していて、得意の2000mで巻き返しが期待された。

そこからやや離れた2番人気以降は、4歳馬3頭がほぼ横並びのオッズ。
その中で2番人気に推されたのはサンデーブランチだった。
当時既に猛威を振るっていたサンデーサイレンスの初年度産駒で、こちらも8戦4勝2着1回3着2回と堅実な成績。前走の緑風ステークスは、途中から先頭に立って押し切る着差以上に強い内容で、昇級初戦のここも注目を集めていた。

3番人気となったのはナリタキングオー。
前年、共同通信杯4歳ステークス(現・共同通信杯)、スプリングステークス、京都新聞杯と重賞を3勝し、クラシックでも上位人気に推された実力馬である。この年は、京都記念4着、中山記念5着と善戦止まりだったが、重賞3勝の実績は、今回のメンバーでも上位だった。

さらに、前年の毎日杯勝ち馬で、皐月賞では1番人気に推されたダイタクテイオーが4番人気に続いた。

ゲートが開くと、最内から7歳馬のキクカダンディが先手を切って一気に4馬身ほどリードを取り、続く2番手に59kgの8歳馬フジヤマケンザンがつけ、ベテラン勢がレースを引っ張るかに思われた。

しかし、1コーナーに入るところで、大外枠からテイエムジャンボがやや引っかかり気味に3番手まで押し上げ、4歳の上位人気3頭もそれに続いた。

向正面に入ると、今度はペースが一気に落ちて馬群は凝縮し、1000mの標識を通過するあたりで、先頭から最後方まではおよそ7馬身の差。そこから、早くもテイエムジャンボが先頭に並びかけ、3コーナーに入るところで単独先頭に立つ。

そして、それを合図にしたかのように各馬が続々と仕掛け始めるが、残り600mを切ったところで、テイエムジャンボ、フジヤマケンザン、サンデーブランチ、ホマレノクインの4頭が抜け出し、後続に大きな差をつけて直線へと入った。

迎えた直線、その中で早々に抜け出したのはフジヤマケンザンだった。
良馬場発表とはいえ、大半の馬が内を大きく開けて走るようなこの日の重い馬場をものともせず、馬場の中央を一気に伸びて3馬身のリードを取る。追ってくるのは、粘るテイエムジャンボを交わして2番手に上がったサンデーブランチで、残り100mを切ってからはさらに勢いを増して、前との差を一気に詰めてきた。

しかし、フジヤマケンザンの末脚も最後まで衰えず、1馬身のリードを取って悠々と1着でゴールイン。

2着にサンデーブランチが入って古豪と新星の1、2着となり、そこから4馬身離れた3着にテイエムジャンボが続いた。

勝ったフジヤマケンザンは、これが重賞5勝目。現在の年齢表記では8歳となるが、当時の表記では9歳だったため、別定GⅡを、最も重い斤量を背負った9歳馬が勝利したことは、非常にインパクトの大きな出来事だった。

そして、フジヤマケンザンといえば、その血統背景にも大きなドラマがあった。

4代母にあたるクモワカは、桜花賞で2着に好走した実績の持ち主だったが、4歳時に発熱した際、馬伝染性貧血の疑いが持たれ、一度は殺処分の通告が下されてしまう。しかし、その診断に疑いを持った関係者は、クモワカを京都競馬場の隔離厩舎にかくまい、その後、北海道の吉田牧場へと移送したのである。

そこで、密かに種付けが行われて子供が生まれると、やがて、馬伝染性貧血に罹っていなかった事実も判明。
産駒から、桜花賞を勝ったワカクモなどを送り出すと、そのワカクモは繁殖に上がってからも、流星の貴公子と呼ばれたテンポイントや、名障害馬キングスポイントの母となり、フジヤマケンザンの2代母にあたるオキワカも世に送り出した。

また、フジヤマケンザンが現役時に残した実績で忘れてならないのは、何といっても香港国際カップ(現・香港カップ)を日本調教馬として初めて制したことだろう。

今や、日本の馬が香港の国際レースを制すること自体は珍しいことではないが、当時は、香港遠征はおろか、海外遠征自体もほとんど行われていない時代。その時代に、森秀行調教師は、フジヤマケンザンを3度も香港へと遠征させ、この金鯱賞制覇の半年前、フジヤマケンザン7歳の12月にして、念願の香港国際カップ制覇(当時は国際GⅡ)を成し遂げたのだった。

日本調教馬の海外重賞制覇は、フジノオー以来28年ぶり。さらに、平地の重賞制覇となると、ハクチカラ以来36年ぶりという大変な快挙で、その重い扉を開き、日本調教馬が海外遠征を行うパイオニア的存在となったのは、紛れもなくフジヤマケンザンだった。

金鯱賞を勝利したフジヤマケンザンは、続けて宝塚記念にも出走し、敗れはしたもののマヤノトップガンの5着に健闘した。その後に海外遠征も計画されていたが、宝塚記念のレース中に骨折していたことが判明して計画は白紙に戻され、このレースを最後に引退することとなった。

一方、森調教師は2年後、フジヤマケンザンで実現できなかったフランス遠征を管理馬のシーキングザパールと共に敢行し、見事にモーリス・ド・ゲスト賞を制覇。日本調教馬としては、初の欧州GⅠ制覇という快挙も成し遂げた。

以後、アグネスワールドでアベイ・ド・ロンシャン賞やジュライカップを制し、フルフラットとピンクカメハメハによるサウジダービー連覇など、まさに海外遠征の第一人者として現在も活躍を続けている。
その礎ともなったフジヤマケンザン、現役時代ラスト勝利が、1996年・金鯱賞なのである。

写真:かず

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