![[阪神大賞典]メジロマックイーン、メジロブライト、メジロパーマー。阪神大賞典を制した「メジロ」の馬たち](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2020/12/image_159.jpeg)
関西でおこなわれる天皇賞(春)の前哨戦、阪神大賞典。平地で3000m以上のレースは年間8レースしか実施されず、平成以降の天皇賞(春)勝ち馬で最も多いのは、前走阪神大賞典組である。
そんな長距離戦で、かつて無類の強さを発揮したのが「メジロ」の馬だった。「天皇盾を手にすることが最高の栄誉」という北野豊吉オーナーの信念のもと、多数の天皇賞馬を世に送り出したメジロ牧場は残念ながら2011年に解散となったものの、スタミナと底力を武器に活躍した生産馬は、天皇賞だけでなく前哨戦の阪神大賞典も複数回勝利した。
また、メジロ牧場の歴史と血はレイクヴィラファームに引き継がれ、香港ヴァーズを2度制し、26年に産駒がデビューする同場生産馬のグローリーヴェイズや、15年の年度代表馬で現在は種牡馬として活躍するモーリス(生産は戸川牧場)にもメジロの血は流れている。
今回は、阪神大賞典を制した「メジロ」の馬を振り返りたい。
1991年、92年 メジロマックイーン
メジロマックイーンは、メジロ牧場が母メジロオーロラを預託していた吉田堅牧場で誕生した。4つ上の半兄は菊花賞と有馬記念を制したメジロデュレンで、父メジロティターンとその父メジロアサマは、ともに天皇賞を制していた。
ただ、種牡馬メジロアサマは受胎率が非常に低く、シンジゲートも早期に解散。以後はメジロ牧場で繋養された。それでも、北野オーナーの執念が実を結び、数少ない産駒からメジロティターンが誕生。天皇賞父仔制覇の偉業が成し遂げられた。そんな血統背景からも、メジロマックイーンはこの世に生まれ落ちた瞬間から父仔三代天皇賞制覇が宿命づけられた馬だった。
しかし、ソエに悩まされたメジロマックイーンのデビューは3歳(当時の表記で4歳)2月と遅かった。皐月賞はもちろんダービーにも間に合わず、2勝目は9月の函館で、これら2勝はダート戦だった。さらに、4勝目をかけた嵐山Sでよもやの2着と敗戦。菊花賞に登録したものの、この段階では除外対象だった。
それでも、直前に回避馬が出て出走が叶うと、メジロ軍団のエース、メジロライアンらに快勝。見事、兄弟制覇の偉業を成し遂げ、それ以来5ヶ月ぶりの実戦となったのが、この年は中京でおこなわれた阪神大賞典だった。
このレースから武豊騎手に乗り替わり、単勝1.2倍と断然の支持を集めたメジロマックイーンは、五分のスタートからいく構えを見せたものの、序盤は中団5番手のインに位置していた。ただ、久々か、それとも初の左回りが影響したか。1周目の4コーナーで外に持ち出されると、首を上げるような仕草がみられた。それでも、スタンド前でヘイセイイチバンが先手を奪ってペースが上がると、自身も再び馬混みに入り、落ち着くことに成功した。
レースが動いたのは2周目の3コーナー過ぎ、残り600mを切ってからだった。逃げるヘイセイイチバンの外からマルカロッキーとゴーサインが並びかけ、さらにその外からメジロマックイーンとマンジュデンカブトがこれらをまとめて交わしにかかろうとした。すると、ヘイセイイチバンは失速し、次いでマンジュデンカブトとマルカロッキーも脱落。メジロマックイーンとゴーサインの2頭が抜け出したところで直線を迎えた。
直線に入っても、メジロマックイーンはまだ持ったままの状態で、ゴーサイン鞍上の南井克巳騎手が右鞭を連打するのとは対照的な手応えだった。武騎手が本格的に追い出したのは直線半ばで、残り100mを切ってからようやく右鞭が一発入ると、粘るゴーサインを楽々と突き放し先頭ゴールイン。シーズン初戦をこれ以上ない勝ち方で突破し、史上初の偉業に向け順調な船出となった。
その後、メジロマックイーンは春の天皇賞を制し、一族の悲願ともいえる父仔三代天皇賞制覇を達成。翌年も阪神大賞典と春の天皇賞を連覇し、鞍上の武騎手は89年のイナリワンから数えて同一GⅠ4連覇の大偉業を成し遂げた。

そして、6歳シーズンも現役を続行したメジロマックイーンは、自身3連覇、武騎手にとっては5連覇が懸かった春の天皇賞でライスシャワーに敗れるも、次走の宝塚記念を勝利。4つ目のビッグタイトルを獲得し、秋初戦の京都大賞典もレコードで勝利すると、日本競馬史上初めて獲得賞金が10億円を超えた。さらに、自身初となる秋の天皇賞制覇が期待されたものの、レース直前に繋靱帯炎を発症。引退と種牡馬入りが発表された。
種牡馬入り後、直仔からGⅠ馬を送り出すことはできなかったものの、母の父として、GⅠ3勝のドリームジャーニーと三冠馬オルフェーヴルの兄弟や、GⅠ6勝馬のゴールドシップらを輩出。これら3頭の父はいずれもステイゴールドで、父ステイゴールド×母父メジロマックイーンの配合は「黄金配合」とも呼ばれた。
1998年 メジロブライト
メジロライアンの初年度産駒でメジロ牧場が生産したメジロブライトは、栗東・浅見国一厩舎からデビュー。初戦は函館芝1800mの新馬戦で、出走6頭中6番人気の評価を覆し快勝した。ただ、勝ち時計は2分1秒6と、2000m戦のようなタイム。この時点で、まだ注目される存在とはいえなかった。
それでも、続くすずらん賞とデイリー杯3歳Sで2着に好走すると、出世レースのラジオたんぱ杯3歳S(現ホープフルS)と共同通信杯4歳Sを制し重賞連勝。一方、牝馬は同じメジロライアン産駒で同郷のメジロドーベルが阪神3歳牝馬Sを制してクラシック候補となり、メジロブライトも牡馬のクラシック候補として名乗りをあげた。
ところが、スプリングS2着から臨んだ三冠レースは父の戦績をなぞるように惜敗が続いた。1番人気に推された皐月賞とダービーは、それぞれ4着と3着に敗戦。秋も、菊花賞で3着に敗れるなど、もどかしいレースが続いてしまう。
そこで陣営は、この年からGⅡに格上げとなったステイヤーズSを次走に選択した。すると、この選択が吉と出て、2着アドマイヤラピスに大差をつける圧勝。続くアメリカジョッキークラブCも完勝し、再び勢いに乗って臨んだのが阪神大賞典だった。
この年の阪神大賞典は、完全に二強ムードだった。1番人気はメジロブライトで、そのオッズは1.4倍。有馬記念を制して一足先にビッグタイトルを獲得した同世代のライバル、シルクジャスティスが2.5倍で続いた。一方、3番人気のユーセイトップランは9.3倍で、4番人気のギガトンに至ってはなんと52.8倍。2年前の阪神大賞典で歴史的名勝負を演じたナリタブライアンvsマヤノトップガンの再現をファンは期待していた。
レースは、シルクジャスティスがわずかに出遅れ。メジロブライトもそれほど良いスタートではなかった。それでも、定位置の中団やや後方につけると、直後にシルクジャスティスがつけた。逃げるギガトンが刻むペースは1000m通過1分3秒7と遅く、メジロブライトも1周目の4コーナーでややいきたがる素振りを見せた。しかし、そこはベテランの河内洋騎手。馬群に入れるとメジロブライトも落ち着き、そこからはスムーズにレースを進めた。
動きがあったのは3コーナー過ぎ。4番手にいたシルクジャスティスが1つポジションを上げると、直後のスターレセプションもこれに合わせて上昇を開始。さらにその直後にいたメジロブライトも一呼吸置いてスパートすると、4コーナーで先頭を射程に捉え5番手で直線を向いた。
直線に入るとすぐ、シルクジャスティスがギガトンとバイタルフォースを交わして先頭に躍り出た。メジロブライトも懸命にこれを追い、予想どおり二頭のマッチレースになったものの、さすがに相手はグランプリホース。どうしても最後の1馬身半が詰まらず、ゴールまで100mを切った。
しかし、本格化したメジロブライトに勝ち切れなかった3歳時の姿はなく、もう一段加速してシルクジャスティスとの差を一完歩ごとに詰めると、最後の最後、馬体を併せたところがゴールだった。2年前に続く名勝負にスタンドが沸く中、ハナ差先着していたメジロブライトは、堂々、本命候補として天皇賞へ臨むのであった。

その1ヶ月半後、春の天皇賞で再びシルクジャスティスを撃破したメジロブライトは、待望のビッグタイトルを獲得した。メジロの馬としてはメジロマックイーン以来6年ぶり。メジロ牧場生産馬では、メジロティターン以来16年ぶりの天皇賞制覇。ゴール後、杉本清アナウンサーの「メジロ牧場に春!羊蹄山の麓に春!」の名実況もうまれた。
ところが、続く宝塚記念のスタート前に立ち上がって外枠発走となり、行き場をなくした4コーナーで、失速した先行馬に接触して躓き11着に敗戦。京都大賞典2着から臨んだ秋の天皇賞も5着に敗れた。それでも、有馬記念では復活したグラスワンダーを最後まで追い詰め2着に好走。JRA賞最優秀父内国産馬のタイトルを獲得した。
さらに、5歳シーズンは、初戦の日経新春杯で59.5キロのハンデを背負いながらもGⅠホースの意地を見せ快勝。続く阪神大賞典と春の天皇賞でも、スペシャルウィークの2着に健闘した。しかし、京都大賞典2着以降は天皇賞11着、有馬記念5着と結果が出ず、直後に屈腱炎が判明。翌年の京都大賞典で復帰(8着)を果たした後に屈腱炎を再発し引退を余儀なくされたものの、「メジロ」最後の天皇賞馬として歴史にその名を刻んでいる。
1993年 メジロパーマー
メジロマックイーンやメジロライアンと同世代のメジロパーマーは、メジロイーグルの産駒。メジロイーグル自身は三冠レースすべてで掲示板を確保し、ダービー馬サクラショウリを破って京都新聞杯を制したものの、重賞勝ちはその1勝のみ。逃げの個性派として人気を博し、めいのメジロラモーヌが史上初の牝馬三冠を達成したとはいえ、種付頭数は毎年10頭前後だった。
そんな血統背景を持つメジロパーマーは、栗東・大久保正陽厩舎からデビュー。初戦から2戦連続2着のあと未勝利戦とコスモス賞を連勝し、マックイーンやライアンよりも早く初勝利を手にした。
ところが、そこからのトンネルが長かった。骨折で春のクラシックを棒に振り、夏の北海道で復帰した後に再び骨折。結果、2年近くも勝ち星から遠ざかってしまう。その間には、メジロマックイーンが父仔三代制覇を達成した天皇賞(春)で逃げて13着に大敗。同期の偉業をはるか前に見届けることもあった。
しかし、メジロパーマーはそれで終わるような馬ではなかった。天皇賞の後、500万クラス(現1勝クラス)に降級したことが功を奏したか、降級2戦目を大差勝ちすると、二段階の格上挑戦で出走した札幌記念も連勝。一気に重賞ウイナーへと上り詰めた。その後、再びオープンの壁にぶつかったものの、陣営は障害練習を取り入れ、実際に障害戦でも勝利を収める。このとき、道中で息を入れることを覚え、平地再転向後に山田泰誠騎手とコンビを組んだことも飛躍のきっかけとなった。
迎えた5歳シーズン。前年に続いて出走した天皇賞(春)こそ7着に敗れたものの、続く新潟大賞典を逃げ切ると、宝塚記念も逃げ切って連勝。ついにGⅠホースの座へ上り詰めた。さらに、京都大賞典と天皇賞(秋)を大敗して迎えた有馬記念では、ダイタクヘリオスとともに大逃げを敢行。あれよあれよという間に逃げ切り、メジロの馬として初となるグランプリ連覇を達成したのである。
こうして、怪我で引退を余儀なくされたライアンに替わる、そしてマックイーンと並ぶメジロのエースにのし上がったメジロパーマーは、もちろん6歳シーズンも現役を続行。その初戦に選ばれたのが93年の阪神大賞典だった。
グランプリ連覇の実績があるにもかかわらず、有馬記念で3着に降したナイスネイチャや、エリザベス女王杯(当時は3歳限定戦)を制したタケノベルベットに次ぐ3番人気に甘んじたメジロパーマーは、この日も涼しい顔で先手を奪った。スタート直後、2馬身ほどだったリードはあっという間に広がり、1周目のスタンド前では早くも7馬身差。最後方までは30馬身近い差となっていた。それでも、メジロパーマーは実に気持ちよさそうに逃げ、山田泰騎手も寄り添うようにきっちりとこれをサポート。互いを信頼した、まさに人馬一体の走りだった。
レースが動いたのは3コーナー過ぎ。メジロパーマーが再び息を入れたのとは対照的に、2番手のエリモパサーやナイスネイチャ、レッツゴーターキン、タケノベルベットらが一気にスパートを開始した。すると、3、4コーナー中間でメジロパーマーとの差は4馬身に縮まり、さらに4コーナーで2馬身ほどに縮まる中、レースは直線を迎えた。
直線に入るとすぐ、2番手に上がったナイスネイチャがメジロパーマーに馬体を併せてきた。しかし、それも束の間。メジロパーマーが差し返して再びリードを取ると、外からタケノベルベットもこの争いに加わり、直線半ばからは3頭の猛烈な競り合いとなった。
そして、残り50mでメジロパーマーが驚異の二枚腰を発揮すると、観念したようにナイスネイチャは脱落。かわって2番手に上がったタケノベルベットがさらに末脚を伸ばしたものの、メジロパーマーは、ついにこの追撃も凌ぎ切り先頭ゴールイン。あまりにもしぶといド根性丸出しの逃走劇を完遂させ、見事5つ目の重賞タイトルを手にしたのである。
その後、春の天皇賞でも逃げたメジロパーマーは、ライスシャワーやメジロマックイーンと互角に渡り合い、大いに見せ場を作った。結果、3着に敗れるも、4着マチカネタンホイザを6馬身も突き放しレコード決着を演出。マックイーンとともに、メジロの看板馬に恥じない堂々とした走りを披露した。
そして、この天皇賞以降は4戦連続で9着以下に敗れるなど低迷したものの、有馬記念では前年覇者の意地を見せ6着と健闘。年明けの日経新春杯では60.5キロの酷量を背負いながら2着に好走し、このレースを最後に現役を退いた。

写真:I.Natsume、かず
![[リーディング]春の中京開催スタート、上位陣が引き続き好調](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2026/03/2026031602-1-300x200.jpg)