キングヘイロー〜自らの"居場所"を探し続けた先にあったもの~

デビュー前から期待の良血と噂されていた評判馬が、実際にデビュー戦を勝利して「この馬は、間違いなく将来GⅠを勝ちそうだな」と思った経験は、きっと多くの競馬ファンが持っているだろう。

近年でいえば、サートゥルナーリアのデビュー戦を見た人の多くは、すぐにそう思ったに違いない。
なにせ、父は史上最強クラスのスプリンターと言われたロードカナロアで、母は日米オークス馬のシーザリオ。さらに、兄にはGⅠ馬が2頭もいる超良血である。当然のようにデビュー前から評判となり、実際に新馬戦も圧勝した。そして半年後、サートゥルナーリアは早くもホープフルステークスでGⅠ勝利を成し遂げ、続けて皐月賞にも勝利した。

一方、後にGⅠを勝つことは予想できても、その予想とは異なる舞台でGⅠ制覇を達成した馬もいる。

キングヘイローは、まさにそんな馬の一頭だった。

キングヘイローは、デビュー戦どころか、この世に生まれ落ちた瞬間から、GⅠ制覇を期待されていたといっても過言ではない。

それは、この馬の血統を見れば一目瞭然で、父は、1986年の凱旋門賞などGⅠを4勝し、1980年代のヨーロッパ最強馬といわれたダンシングブレーヴ。母は、ケンタッキーオークス他、米国のGⅠを7勝もしたグッバイヘイローという世界的な超良血である。

当然のことながら、そんな超良血馬にはクラシックでの勝利が期待されたのは言うまでもない。

2歳になった1997年。栗東の坂口正大厩舎へと入厩したキングヘイローは、当時、デビュー2年目の福永騎手を鞍上に配し、10月の京都競馬場でデビュー戦を迎えた。

世界レベルの超良血馬としては意外にも2番人気という評価だったが、レースでは、2番手追走から、やや若さを見せつつ直線はしっかりと抜け出し、まずは無事に初陣を飾った。そこから中2週で迎えた2戦目の黄菊賞では、前走をさらに下回る3番人気に甘んじたものの、最後方追走から直線で全頭を差し切る離れ業を演じて2連勝。これにより関西では完全にその名を知られ、多くの人に、近い将来GⅠを勝つことを予想させる存在となった。

続けて陣営は、東京スポーツ杯3歳S(現・東京スポーツ杯2歳ステークス)への出走を選択。
黄菊賞での派手な勝ちっぷりから、ここではさすがに1番人気に推されると、直線であっさりと抜け出して2着に2馬身半差をつける完勝。これが、福永騎手にとっても重賞初制覇であった。さらには2歳コースレコードのおまけも付き、3戦目にしてこれまでで最も強い競馬を見せつけた。

また、この勝利により、翌春のクラシックの筆頭候補として、キングヘイローの名は全国区となった。
このとき2着に下したマイネルラヴが、次走の朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)で2着に好走したことも、その評価をいっそう高める要因となったのである。

さらに年末。出世レースとして名高いラジオたんぱ杯3歳ステークス(現・ホープフルステークス)に出走したキングヘイローは、単勝1.4倍の圧倒的な1番人気に推された。

ところが、レースでは最後の直線で内を突いたものの、進路が狭くなる不利があり、そのすきにロードアックスに差されて2着に惜敗。初黒星を喫してしまう。

とはいえ、明らかに負けて強しの内容だったため、キングヘイローの評価が大きく揺らぐようなことはなかった。

しかし──。

運命のいたずらとはこのことか。

一見、不運な敗戦に思われたこのレースを境に、順調だったデビュー3戦から一変。それまでの連勝がまるで嘘のように、その後のキングヘイローは勝ち星から見離されてしまうことになる。大海原に向け、自らの居場所を探しさまよい続ける旅へと出航してしまったことを、この時点では誰も知る由はなかった。


この世代の2歳シーズンが終了した時点で、最も評価が高かった馬はグラスワンダーだった。

デビューから3連勝で臨んだ朝日杯3歳ステークス。マイネルラヴを2着に負かしたのはこの馬で、それもレコード勝ちだったが、グラスワンダーは外国産馬だったため、当時のルールでクラシックへの出走権はなかった。

そのため、ラジオたんぱ杯3歳ステークスが不運な負け方だったこともあり、この時点での牡馬クラシックの筆頭候補は、やはりキングヘイローだったといえる。

年が明け、陣営が皐月賞の前哨戦として選択したのは弥生賞。
このレースでキングヘイローは、これから先、運命を共にする2頭のライバルと巡り会うことになった。

それが、天才・武豊騎手とコンビを組むスペシャルウィークと、芦毛の逃げ馬セイウンスカイである。

サンデーサイレンス産駒のスペシャルウィークは、新馬戦を勝利後、現・1勝クラスの白梅賞を取りこぼすも、格上挑戦したきさらぎ賞で重賞初制覇。関西では、キングヘイローに次ぐ位置まで序列を上げていた。

一方のセイウンスカイは、重厚なヨーロッパのスタミナ血統の持ち主とは思えないほど軽快な逃げで、新馬戦とジュニアカップを、それぞれ6馬身、5馬身差で圧勝。関東所属の内国産期待の星として、弥生賞に駒を進めていた。

人気は3頭に集中して、いわゆる"三強状態" となる。
その中でもキングヘイローが1番人気となったが、レースでは意外なほどの差がつくことになってしまう。

ここでも、快調に逃げるセイウンスカイに対し、ややいきたがる素振りを見せたキングヘイローは、なだめながらも中団に構え、スペシャルウィークはさらにその後ろからレースを進めた。

勝負所の4コーナー。セイウンスカイが、さらに逃げ脚を伸ばして2番手以下との差を大きく広げにかかり、その動きに呼応するようにスペシャルウィークも3番手までポジションを上げた。ところが、キングヘイローは久々のせいか反応が鈍く、中団のままポジションを上げられない。

最終的には、スペシャルウィークがゴール寸前で図ったようにセイウンスカイを差し切って重賞を連勝。それに対して、キングヘイローは2着セイウンスカイから4馬身も離された3着となり、4着のスノーボンバーをクビ差しのぐのが精一杯という内容だった。

この結果、牡馬クラシック戦線の序列は大きく変化し、キングヘイローの序列が3番手まで下がってしまったことは、認めざるを得ない事実だった。

そこから、中5週で迎えた皐月賞。

人気はやはり"三強"に集まったが、とりわけスペシャルウィークの単勝オッズは1.8倍と抜けていた。
一方、前走で初めて連対を外したキングヘイローではあったが、休み明けの弥生賞を叩かれたことが良い方向に出たのか、ここでは見違えるような変わり身を見せる。

ゲートが開いて好スタートを切ったキングヘイローは、4番手につけて1コーナーへと進入。そのまま向正面に入ると、3コーナーと4コーナーで1つずつポジションを上げ、セイウンスカイに次ぐ2番手で4コーナーを回った。

直線に入るとすぐに、先頭を行くセイウンスカイは、そこから後続との差を一気に広げる必勝パターンで逃げ込みを図った。キングヘイローが猛然とそれを追い、スペシャルウィークも直後まで迫って、やはり三強の競馬となった。

しかし、内枠から先行したセイウンスカイの逃げ脚はなかなか衰えず、坂を上がったところで、その差は一時、2馬身半にまで広がってしまう。直線の短い中山競馬場でのこの差は、ほぼセーフティリードといえ、勝負ありといえる差だった。

それでも諦めないキングヘイローは、最後の力を振り絞って追い詰める。
しかし、わずかに半馬身及ばず逃げ切りを許してしまい、2着に終わってしまう。

ただ、敗れたとはいっても、道中の折り合いや行きっぷりは前走とは雲泥の差で、ダービーに向けて、大きな期待と希望が持てるような内容だった。

迎えた競馬の祭典・日本ダービー。
世代最強の座を決める一戦である。

「"三強" の中で最も強いのはどの馬か?」がこの年のダービーの注目点で、その雌雄を決する戦いとなるはずだった。しかしこのダービーこそが、キングヘイローと福永騎手の後の運命を大きく左右するレースとなった。

人気は、皐月賞以上に"三強"に集中した。
しかしその皐月賞の着順とは反対に、人気順は、スペシャルウィーク、キングヘイロー、セイウンスカイの順番となった。

その中でも、キングヘイローは1枠2番という絶好枠を引き、好スタートを切った。
本来であれば、ここまでは完璧な流れ、願ってもない展開である。

しかし、このときデビュー3年目の福永騎手は、後に「緊張しすぎてボーッとしていた」と振り返るほどの極限状態。スタート後、さらに前につけるために、ほんの少し仕掛けたのだが、キングヘイローにその緊張が伝わったか引っかかってしまい、あろうことか、この大一番で逃げることになってしまった。

その後、折り合いはついたものの序盤のスタミナのロスは大きく、直線に向くと早々に脱落。10度目の挑戦で悲願のダービー制覇を成し遂げ、何度もガッツポーズを繰り返す武豊騎手とスペシャルウィークをはるか前方に、2秒6も離された14着に大敗してしまった。

その後、夏場は休養に充てられたものの、年末に不運な形で、微妙に狂ったキングヘイローの歯車は、秋に入ってもなかなか噛み合わなかった。

二強が不在の神戸新聞杯では、圧倒的な1番人気に推されたものの3着と取りこぼすと、京都新聞杯では一転、スペシャルウィークのクビ差2着と見せ場を作る。しかし、本番の菊花賞では、距離適性とセイウンスカイの完璧な立ち回りに屈して5着に敗戦。念願だったクラシック制覇の夢は、ついに叶うことはなかった。

続く年末の有馬記念では、10番人気という低評価ながら善戦するも、グラスワンダーの復活劇の前に6着。

クラシックの筆頭候補として迎えたこの年は、結局7戦して未勝利というまさかの結果に終わり、自分の居場所を最後まで見つけることができないまま、3歳シーズンを終えてしまった。


迎えた4歳シーズン。
キングヘイローが始動したのは、2月の東京新聞杯だった。

鞍上は、ここから柴田善臣騎手へとスイッチされた。
そして早速この一戦で1年3ヶ月ぶりの勝利をつかみ、続く中山記念も連勝。

4歳シーズンは一転して順調な船出となり、キングヘイローの居場所は、やはり1600m前後のレースにあることが、誰の目にも明らかかと思われた。

そのため、3ヶ月の間隔があるとはいえ、次走に安田記念が選ばれたのは、当然の流れだった。

迎えた安田記念。
ここで、単勝オッズ1.3倍の圧倒的な1番人気に推されたのは、前年の有馬記念で復活を果たしたグラスワンダーだった。前走は、それ以来となる京王杯スプリングカップを完勝して2連勝。前年、故障から復帰後の2戦は不振だったが、有馬記念で完全復活を果たしたことは確実視されていた。

一方のキングヘイローは、6.0倍の2番人気に続いた。
確かに、同期のグラスワンダーは強敵ではあるものの、自らの居場所を見つけた今なら、グランプリホース相手でも、十分に太刀打ちすることが可能と思われた。

しかし、レースが始まると、まずまずのスタートを切って先行したところまでは良かったが、そこからは力んだような走りに終始してしまう。

1000mの通過は、57秒9とまずまずのペースといえたが、前半の600m通過は35秒2と、このレベルでは明らかなスロー。その遅い流れに加え──振り返れば、前年春の弥生賞・秋の神戸新聞杯でも、キングヘイローは休み明け初戦ではいきたがる素振りを見せていた。3ヶ月ぶりの実戦となったあ安田記念でも、そうなってしまったのかもしれない。

結局、1年前のダービーのリプレイを見ているかのように直線で早々に失速すると、エアジハードとグラスワンダーのデッドヒートから、1秒8も離された11着に敗れてしまった。

そこから、宝塚記念に出走するも2200mという距離にキングヘイローの居場所はなく8着に敗戦。秋も、毎日王冠を5着、天皇賞秋を7着に終わり、同期のグラスワンダーやスペシャルウィークが勝利する場面を、眼前に見ることになってしまった。

しかし、続けて出走したマイルチャンピオンシップは、この馬にとっての居場所といえる、1600mが舞台だった。距離はもちろんのこと、休み明け3戦目というローテーションも好都合で、さらには、キョウエイマーチという速いペースで逃げてくれる馬もいる。

そして、キングヘイローの背には、有馬記念以来となる福永騎手の姿があった。

レースは、陣営やキングヘイローの馬券を買っていた人達が、戦前に思い描いたであろう、そのとおりの展開となる。

キョウエイマーチが、前半600mを34秒3、1000mを57秒5という速いペースで逃げ、その流れの中、キングヘイローと福永騎手は、道中5番手でしっかりと折り合っていた。勝負所の3~4コーナーで上位人気馬が、続々と仕掛ける中、福永騎手はそこからワンテンポ仕掛けを遅らせ、最後の直線勝負にかけた。

迎えた直線。逃げるキョウエイマーチを最初に捉えたのは、安田記念でグラスワンダーを撃破し、春のマイル王に輝いたエアジハード。ブラックホークも、併せ馬のような形で差してきたが、エアジハードよりもやや末脚は劣っている。

一方、上位人気馬の中で最後に仕掛けたキングヘイローは、そのブラックホークと変わるように一気に末脚を伸ばし、残り100mを切ったところで、一気にエアジハードへと襲いかかった。

既に、GⅠジョッキーの仲間入りを果たしていた福永騎手と共に、これほどの好条件が揃ったレースでは負けられないと意地の追込みを見せ、一完歩ごとにエアジハードとの差を詰める。

無冠の良血が、ついに戴冠か。

しかし、エアジハードの末脚は最後まで衰えず、キングヘイローは健闘むなしく1馬身半差の2着に終わってしまった。

これでも、勝てないのか──。

あくまで想像でしかないが、ここまで条件が揃っても敗れたこのレースでの陣営の絶望感は、相当に大きなものだっただろう。

なにせ、生まれたときからGⅠ制覇を期待された、世界的な超良血馬である。それゆえ、勝ちたいという希望よりも、勝たなければいけないという使命感の方が上回っていたかもしれない。と同時に、惜敗とはいえ敗れたことで、キングヘイローの居場所は1600mではなく、そもそも別のところにあるのではないかと考えたかもしれない。

物事がなかなか上手くいかないときに考えついたアイデアは、時に、さらなるネガティブな結果を生んでしまうことがある。ところが、その1ヶ月後に出走した自身初となる1200m戦。すなわちスプリンターズステークスは、最良の結果にこそならなかったものの、決してネガティブな結果にもならなかった。

時に折り合いが課題となるキングヘイローにとって、このときの、前半600m通過33秒2という流れは、かつて経験したことがないようなハイペース。しかも、このレースでは珍しくスタートで後手を踏んだため、折り合いはおろか、序盤はついていくのにも必死の状況で、直線に向いても最後方に位置したままだった。

結果だけいえば、先団でレースを進めたブラックホークとアグネスワールドの二頭で決着したため、キングヘイローを含む後方に構えた馬達の様子が、直線でテレビカメラに映ることはほとんどなかった。しかし、その見えないところで、大外に持ち出されていたキングヘイローは猛烈な末脚で追い込み、勝ったブラックホークから0秒2差の3着に好走。特に後半の600mは、初のスプリント戦としては合格点が与えられる内容で、4歳シーズンを終えたのだった。


──とはいえ、この年も無冠のまま終わってしまったキングヘイロー。
年が明け、ついに5歳を迎えることになる。

是が非でもGⅠタイトルを手にしたい陣営は、5歳シーズンの初戦として、生涯初のダート戦となるフェブラリーステークスを選択。

母のグッバイヘイローは、なんといっても米国でダートのGⅠを7勝もした名牝中の名牝。陣営が、このレースに狙いを定めたのも当然で、鞍上には、再び柴田善臣騎手が配された。

ところが、1番人気に推されたこのレースで、東京のダート1600mでは不利とされる1枠を引いたのは痛かった。道中で砂を被りながら中団を進んだ結果、直線では早々に後退してしまい、見せ場なく13着に大敗。残念ながら、キングヘイローの居場所はここにはなかった。

その1ヶ月後。今度は、自身2度目となるスプリント戦に出走した。11度目のGⅠ出走となる高松宮記念である。

高松宮記念は、この4年前にGⅠへと昇格し、距離も2000mから1200mに短縮されたが、この年から施行時期が3月へと移っていた。

上位人気に推されたのは、前年のスプリンターズステークスで1、2着したブラックホークとアグネスワールド。キングヘイローは4番人気の支持を集めた。

この日は五分のスタートを切ったキングヘイロー。
序盤は、中団やや後ろから徐々に前との差を詰めていく展開となった。

前半600mの通過は、33秒1のハイペース。この時点では、ほぼ馬なりのまま7番手までポジションを上げ、スプリンターズステークスに比べ行きっぷりの良さは段違いだったが、4コーナーで大外を回ったことにより、直線入口では後ろから6番手まで位置を下げてしまう。

当時はまだ、中京競馬場が現在のようなコースに改修される10年も前のこと。直線は今よりもおよそ100m短く坂もない。圧倒的に、逃げ・先行馬にとって有利な競馬場だった。

言うまでもなく、一転してキングヘイローはピンチに陥った。

──またしても、GⅠに手が届かないのか。

そんな思いが、多くの人の頭の中をよぎった。ただ、現実は待ってくれず、レースはあっという間にゴールまで残り200mを切っていた。

10頭ほどが固まった混戦の先頭を走るのはアグネスワールド。そこへ、外からブラックホークが襲いかかってきたが、重賞未勝利の伏兵ディヴァインライトが、いつの間にか内ラチ沿いからスルスル抜け出し、単独先頭に立とうとしていた。騎乗しているのは、かつてキングヘイローの主戦を務めた福永騎手である。

しかし、残り100mを切ったところで、突如として、画面の外から馬群の大外を矢のような勢いで追い込んでくる馬がいた。橙帽に、緑、青袖、白玉霰の勝負服。緑のシャドーロール、緑の覆面。そして、頭の高い走り──。

キングヘイローだった。

それは残り100mを切ってからの一瞬の出来事で、この時の最後の1ハロンは12秒3。秒数にすれば、5~6秒のことだっただろう。

この世に生まれ落ちた瞬間から期待されたGⅠ制覇。

順調だった、デビューからの3連勝。

スペシャルウィークとセイウンスカイというライバルに出会い、その実力を見せつけられたクラシック三冠。

人馬ともに若かった、日本ダービーの苦い記憶。

完璧に乗っても勝てなかったマイルチャンピオンシップ。

初のダートで喫した大敗。

さらには、陣営が積み重ねてきた苦労。

自分の居場所を探し続けた2年半と21戦──。

良かったことも悪かったことも、一つ一つの思い出が、直線で前を行く一頭一頭に重なった。
それらすべてをキングヘイローは一気に飲み込み、最後にかつての主戦騎手をも飲み込んだ。
そしてその先に、栄光のゴールと、探し続けた自身の居場所があった。

あまりにも鮮やかな逆転劇。

こうして、キングヘイローはついにGⅠのタイトルを獲得したのである。
レース後。カメラは、検量室前で人目をはばからず涙を流す、一人の男性を捉えていた。
トレセンに入厩してからともに戦い続け、キングヘイローの居場所を一緒に探し続けた坂口正大調教師である。

自身の調教師としての最後のレースを弟子の浜中騎手が騎乗して勝利したと。
その浜中騎手が2019年の日本ダービーを制したとき。
名伯楽・坂口調教師は涙もろいことでも有名となったが、とりわけこの時の涙は、今でも名シーンとして多くの人の記憶に深く刻まれていることだろう。

また、この2000年のレース自体も、名勝負として多くの人の記憶に刻まれている。

というのも、2010年の高松宮記念当日の最終レースは、「中京サンクスプレミアム」の名称でJRAプレミアムレースとして行われたが、過去の高松宮記念の勝ち馬の中からファン投票が実施され、同馬が最多得票を得たことにより、「キングヘイローメモリアル」の副名称が付与された。それくらい、この年の高松宮記念は名勝負と認知されていたのだ。

キングヘイローは、その後6戦したものの勝利を挙げられず、有馬記念で4着と健闘したのを最後に、現役を引退。翌年から種牡馬となり、次々と活躍馬を輩出した。

牡馬の芝部門では、ローレルゲレイロが高松宮記念で親仔制覇を達成し、スプリンターズステークスも勝利。

またダートでは、東京盃を連覇し、2018年のNAR年度代表馬に輝いたキタサンミカヅキを筆頭に、交流重賞のサマーチャンピオンを勝ったキングスゾーンや、兵庫県競馬を代表する名馬となり、大井の黒潮盃や、川崎の報知オールスターカップを制したオオエライジンなどを輩出した。

牝馬でも、無敗でオークスと秋華賞を制したカワカミプリンセスや、JBCレディスクラシックを制したメーデイア、短距離の重賞を複数制したダイアナヘイローとダイメイプリンセスなどを輩出。

とにかく、性別、芝・ダート、距離の長短を問わず、ありとあらゆるカテゴリーで名馬を輩出したといって良い。

そして、これこそが、現役時にキングヘイローが様々な条件で自らの居場所を探し続けた結果の賜物ではないだろうか。

芝のスプリントGⅠを制した馬で、牡馬クラシックの連対経験があるのは、2021年3月現在も、キングヘイローただ一頭。獲得したGⅠタイトルはたった一つでも、その存在は、今もなお多くのファンの心の中に、確実に刻まれている。

写真:かず

あなたにおすすめの記事