国内の最強馬決定戦に相応しい舞台として、天皇賞・秋を挙げる人は少なくない。GIでは最も施行数の多い1600、2000、2400mで、ちょうど中間の距離で行なわれる点。そして、やや外枠不利な面はあるにしても、比較的紛れが少なく、直線が長く大回りの東京競馬場で行なわれる点も、その舞台に相応しいといえるだろう。
ただ、そんな天皇賞・秋にも、かつては様々な出走制限があった。中でも有名なのが、勝ち抜き制。1981年に撤廃されるまで、一度勝つと、その後、天皇賞には出走できないというルールが長年存在していた。
また、意外と知られていないのが、3歳馬(当時の4歳馬)が出走不可能だったということ。第1回の天皇賞・秋を3歳馬のハツピーマイトが優勝した翌年から1986年まで、実に50年近くも3歳馬には出走権がなかったのだ。
その後、1987年に出走可能となってから2020年まで、計35頭の3歳馬が天皇賞・秋に挑戦してきた。そのプロフィールは多種多様で、牝馬や、地方からやってきたスーパースター、ダービー馬にまで至る。多くの若きサラブレッドが高い古馬の壁に挑み、結果、古馬の分厚い壁を前に敗れた馬もいれば、見事に頂点の座を極める馬もいた。
そして、2000年代に入ると、今度は外国産馬やせん馬にも門戸が開放され、3歳以上のすべてのサラブレッドに出走権が付与された。
今回は、果敢にも3歳で天皇賞秋にチャレンジした若き勇者たちを振り返りたい。
※馬齢はすべて現在の表記に統一しています
オグリキャップ(1988年)
3歳で天皇賞・秋に挑戦した馬を振り返る際に、オグリキャップの名を欠かすことはできない。日本競馬史上最高クラスのスーパースターである本馬は、地方・笠松競馬の出身。当地で12戦10勝の活躍を見せ、3歳の1月、鳴り物入りで中央競馬へと移籍した。
ところが、地方所属時にオグリキャップを所有していた小栗氏は、中央競馬の馬主資格を持っていなかった。そのため、オグリキャップはクラシックの登録がなく、当時は追加登録制度もなかったため、いわゆる裏街道を歩むことになる。
1988年3月。中央初戦のペガサスS(現・アーリントンC)を快勝したのをきっかけに、月1回のペースで走り続けたオグリキャップは、毎日杯、京都4歳特別、ニュージーランドトロフィーと、あっという間に重賞を4連勝。さらに、古馬と初めて激突する舞台となった、当時2000mの高松宮杯を楽勝すると、休み明けの毎日王冠も快勝。中央の重賞を6連勝、地方・笠松時代から合わせると、なんと14連勝という怒濤の勢いで、天皇賞・秋へと駒を進めたのだ。
その舞台でオグリキャップを待ち受けていたのが、現役最強馬で、同じ芦毛のタマモクロス。この前年、3歳4月に初勝利を挙げて以降、現在でいう1勝クラスでくすぶり、一介の条件馬でしかなかったタマモクロスは、秋、久々に出走した芝のレースで圧勝すると、そこからは無敵の快進撃で7連勝。重賞5連勝、GIも天皇賞・春と宝塚記念を連勝し、史上初の天皇賞・春秋連覇を賭け、ここに出走していた。
人気は、わずかの差でオグリキャップが上回りレースはスタートしたものの、中団8番手からレースを進めるオグリキャップに対し、これまで度々後方から豪脚を披露してきたタマモクロスが、逃げるレジェンドテイオーの2番手に付ける意外な展開となった。
その後、勝負所でオグリキャップがポジションを上げて迎えた直線。坂上で早目に抜け出すタマモクロスを、馬場の中央からオグリキャップが追う展開となり、残り200mを切ってからは、予想どおりのマッチレースに。
しかし、タマモクロスは意地でも並びかけることを許さず、1馬身ちょっとの差は最後まで詰まらないまま1着でゴールイン。GI・3連勝、条件戦から実に8連勝で、史上初の天皇賞・春秋連覇を達成した。
一方、重賞7連勝と、3歳馬として51年ぶりの天皇賞制覇を目指したオグリキャップは、芦毛の先輩に僅かに届かず、惜しくも快挙を逃したのだった。
続くジャパンCでも対決した両雄は、米国のペイザバトラーに敗れ、タマモクロスが2着、オグリキャップは3着。そして、タマモクロスの引退レースで、リベンジしたいオグリキャップにとってはラストチャンスの有馬記念で、ついにオグリキャップが先着し優勝。見事、日本一の座と初のGIタイトルを獲得し、タマモクロスからバトンを受け取って、この先、数々の伝説を日本の競馬史に刻み込んでいくのだった。
バブルガムフェロー(1996年)
日本の競馬を根底から覆したといわれる、大種牡馬サンデーサイレンス。その産駒がデビューしたのは1994年で、翌年には、なんとたった2世代のみでリーディングを獲得するという快挙を達成した。
その年の暮れ。同馬の産駒としては、前年のフジキセキに続き朝日杯3歳Sを勝利したのがバブルガムフェローだった。
このときのレースぶりと、年明け初戦のスプリングSの内容を見る限り、クラシックはこの馬で間違いなしと思われたが、なんと、バブルガムフェローは皐月賞の直前に右後脚を骨折。春シーズンを棒に振ってしまう。
ただ、故障の回復具合が早かったのは不幸中の幸いで、夏頃から乗り込みが開始されたが、陣営は、菊花賞ではなく天皇賞・秋を目指すことを発表。前哨戦の毎日王冠では3着とまずまずのレースを見せ、そこから中2週で出走したのが天皇賞・秋だった。
ただ、このときの古馬勢は、近年最高といえるメンバーが顔を揃えた。1番人気に推されたのは、天皇賞・春で過去2年の年度代表馬、ナリタブライアンとマヤノトップガンを撃破し、前走のオールカマーで、再びマヤノトップガンを破ったサクラローレル。
2番人気には、バブルガムフェローと同じサンデーサイレンス産駒で、6連勝、重賞4連勝中のマーベラスサンデーが続き、3番人気のバブルガムフェローを挟み、宝塚記念でGI・3勝目を挙げたマヤノトップガンが4番人気となった。
レースは、最内枠から飛び出したトウカイタローが引っ張り、カネツクロスが2番手、バブルガムフェローがその後ろに付ける展開。マヤノトップガンは6番手、マーベラスサンデーは中団8番手。そして、外枠16番からのスタートとなったサクラローレルは、無理をして前にいくようなことはせず、後方12番手からレースを進めた。
前半1000mは1分0秒3のスローで流れたため、そこからはペースが上がり、迎えた直線は瞬発力勝負に。
人気4頭の中で、まず先頭に立ったのはバブルガムフェロー。そこへ外からマヤノトップガンが襲いかかり、さらに外から、マーベラスサンデーが末脚を伸ばしてきた。一方、サクラローレルは、前2頭の直後から抜け出しを図るも進路がなく、外にもマーベラスサンデーがいたため、自慢の末脚を披露することができない。
そんな攻防が繰り広げられる中、サンデーサイレンス産駒最大の武器である瞬発力を繰り出したバブルガムフェローは、マヤノトップガンの追撃を最後まで抑えきり見事優勝。60年近い歳月を超え、ついに3歳馬が天皇盾を獲得したのだ。
この快挙をともに実現したのが、デビュー10年目の蛯名正義騎手。主戦の岡部幸雄騎手が、米国のブリーダーズCに出走するタイキブリザードに騎乗するため、今回は代打での騎乗だった。
競馬学校で同期の武豊騎手は、既に天才の名をほしいままにし、他の同期や後輩も、次々とGIを勝利。蛯名騎手は、その勝利をきっと悔しい思いで見続けていたに違いない。しかし、そんな蛯名騎手の才能は、この勝利をきっかけに一気に開花。2021年に引退するまでに挙げたGI通算26勝は歴代5位タイ。通算2541勝は歴代4位の大記録で、凱旋門賞で連対実績のある日本人騎手は他にいない。
蛯名騎手が、日本を代表するトップジョッキーとなった分岐点は、この天皇賞・秋だったといっても過言ではないだろう。
ダンスインザムード(2004年)
87年に再び出走可能となって以降、天皇賞・秋に出走した3歳馬は35頭。そのうち牝馬は4頭しかいないものの、着順は、4、2、4、6着。意外といっては失礼だが、いずれも大健闘といえるだろう。その中でも、飛びきりの血統背景を持つのがダンスインザムードである。
全姉に95年のオークス馬ダンスパートナー、全兄に96年の菊花賞馬ダンスインザダークを持ち、半兄にも、ダービー2着で重賞3勝のエアダブリンがいるという極めつけの超良血馬。
この世に生まれ落ちた瞬間からGI勝利が義務づけられたダンスインザムードは、期待通り、4戦全勝で桜花賞を勝利。グレード制導入後では初の、3きょうだいによるクラシック制覇を実現してみせたのだ。
ところが、圧倒的な1番人気に支持され、二冠制覇間違いなしと思われたオークスで4着に敗れると、そこから歯車が微妙に狂いはじめる。米国に遠征して挑んだアメリカンオークスで2着。さらに、帰国初戦の秋華賞も4着に敗れると、陣営は中1週にもかかわらず、天皇賞・秋に出走することを決断した。
下馬評では混戦ムードとなっていたこの年の天皇賞・秋。それでも、やや抜けた1番人気に推されたのが、同じ藤澤厩舎のゼンノロブロイだった。トップクラスの実力を持ちながら、前年のダービーとこの年の天皇賞・春で2着。あと少しのところでビッグタイトルを取り逃していた、無冠の大器である。
それに続いたのが、前哨戦の毎日王冠を制したテレグノシスで、3番人気には、2走前の安田記念で念願のGI勝利を手にしたツルマルボーイが推されていた。
一方、秋華賞で単勝1.7倍の支持を集めていたダンスインザムードの評価は、単勝38倍の13番人気と急落。ただ、GI馬は、17頭中自身を含め6頭というメンバー構成。初コンビとなった若き日のルメール騎手ともども、この評価に若き乙女が燃えないはずはなかった。
レースは、前年と同じくローエングリンの逃げに始まり、シェルゲームをはさんで、ダンスインザムードが3番手につける展開。一方、上位人気3頭は、いずれも中団より後ろに構え、末脚を温存しながらレースを進めていた。
前半1000mは1分0秒1のスローで流れ、その後、馬群が一団となって迎えた直線。粘るローエングリンを残り200mでかわし、先頭に躍り出たのは、同じ縦縞の勝負服を身に纏うダンスインザムードだった。史上初の3歳牝馬による天皇賞制覇を目指すルメール騎手とダンスインザムードは、そこからジワジワと後続を引き離しにかかる。
ところが、中団で脚を溜めていたゼンノロブロイが、これまでの鬱憤を晴らすように末脚を伸ばし、あっという間に馬体を併せてきた。そこからは競り合いとなり、ダンスインザムードも最後まで抵抗したものの、ゴール前で捉えられ2着惜敗。
ただ、結果的に同厩の先輩に花を持たせる形となったものの、ダンスインザムードにとっても、会心のレースといって間違いない内容だった。
その後5歳時に、創設第1回のヴィクトリアマイルを優勝。米国の重賞キャッシュコールマイルにも勝利し、マイルCSでは2着2回と活躍したダンスインザムード。
母となってからは、初仔のダンスファンタジアが重賞を制し、6番仔のカイザーバルが秋華賞で3着と好走したものの、今のところGI馬は誕生していない。母に並び、超えていくような産駒、そして母仔3代でのGI制覇を達成する産駒の誕生が期待される。
シンボリクリスエス(2002年)
サンデーサイレンス旋風と、ほぼ時を同じくして巻き起こったのが、外国産馬の大活躍。通称「マル外旋風」である。当時の外国産馬には、クラシックはじめ多くのGIに出走権がなく、そういった3歳馬たちの春の目標になるレースということで、96年に創設されたのがNHKマイルカップだった。
そのとおり、NHKマイルカップは第1回から6年連続で外国産馬が勝利したものの、2001年からは、ついにクラシックも門戸が開放されはじめた(当初は2頭のみ)。
これに対し、天皇賞は一足早く2000年から開放されはじめ、メイショウドトウが早速2着に好走すると、翌年には、アグネスデジタルがテイエムオペラオーを差し切り優勝。ミツドファーム以来、45年ぶりに外国産の天皇賞馬が誕生した。さらに、その翌年の天皇賞・秋にも、1頭の若き外国産馬が出走を表明していた。シンボリクリスエスである。
新馬戦を勝利したシンボリクリスエスは、2勝目を挙げるのにやや手間取ったものの、4月の山吹賞を快勝すると、青葉賞も連勝してダービーの出走権を獲得。このとき騎乗した武豊騎手が、レース後「秋になったら良くなりますよ」と、管理する藤澤調教師に語ったのは有名な話だが、本番のダービーでは、武騎手が騎乗するタニノギムレットに1馬身差及ばず2着惜敗。あと僅かのところで、ビッグタイトルを逃してしまった。
その後、休みを挟んで秋を迎えたシンボリクリスエスだったが、体重こそほぼ変わらないものの緩さがなくなりつつあり、馬体は凄みを増して、武騎手の予言どおり中身も伴ってきた。実際、秋初戦の神戸新聞杯では、皐月賞馬のノーリーズンらを相手に完勝。その1ヶ月後に出走したのが、この年は中山競馬場で開催された天皇賞・秋である。
この年も、下馬評は大混戦ムード。1番人気に推されたのは、札幌記念勝利から直行してきた前年の二冠牝馬テイエムオーシャンで、オッズはなんと4.9倍。前哨戦の京都大賞典を制した3年前の菊花賞馬ナリタトップロードが2番人気で、シンボリクリスエスがそれに続いた。
レースは、ゴーステディが逃げ、テイエムオーシャンが4番手。シンボリクリスエスは、ややいきたがるのを岡部騎手になだめられながら7番手の内を追走し、ナリタトップロードは中団やや後方に構えていた。
1000m通過は59秒3と決して早くないものの、持久力が問われるような淀みない流れ。実際、直線に向くとゴーステディは早々に失速し、テイエムオーシャンも坂の途中で馬群に飲み込まれてしまった。
そんな厳しい流れでも、終始手応え良くレースを進めていたのがシンボリクリスエス。直線でも、岡部騎手がほぼノーステッキのまま残り100mで満を持して先頭に立つと、追ってきたナリタトップロードとサンライズペガサスを、ゴール前で再び引き離し完勝。厩舎の偉大な先輩にあたるバブルガムフェロー以来、6年ぶり史上3頭目となる3歳の天皇賞馬が誕生した瞬間だった。
続くジャパンCは惜しくも3着に敗れたものの、年末の有馬記念を制して年度代表馬に輝くと、翌年、東京で行なわれた天皇賞・秋も勝利し連覇達成。さらに、年末の有馬記念も連覇し、2年連続で年度代表馬のタイトルを獲得したシンボリクリスエス。特に、引退レースとなった2度目の有馬記念は、2着に9馬身差をつける圧巻のレコード勝ちで、後世に伝説として語り継がれるような大圧勝劇だった。
種牡馬としても、菊花賞を制したエピファネイアなど、芝・ダート問わず複数のGI馬を世に送り出し、エピファネイアからは無敗のクラシック勝ち馬が2頭も誕生。さらに、母の父としてもダービー馬のレイデオロを送り出し、ロベルト系の血を広げることに大きく貢献した。
ここまで取り上げた4頭のうち、3頭が藤澤調教師の管理馬。そして、87年以降に天皇賞・秋に挑戦した3歳牝馬4頭のうち3頭も、同師の管理馬である。師は、調教助手になる前、欧州へ修行に出向いた際、2000mの大レースで活躍した馬こそが大事にされ、種牡馬入りしたときに最も価値があるのも、この距離で活躍した馬ということを知ったそうだ。
実際、藤澤調教師はこれまで天皇賞・秋を6度も制し、3歳馬で当レースを勝利したのも、現役では藤澤調教師のみ。その師も、22年2月で定年を迎えるため、21年が最後の天皇賞となる。そこには、グランアレグリアが有力馬の1頭としてスタンバイしているが、片や、3歳馬では皐月賞馬のエフフォーリアも出走を表明。管理するのは、開業までの1年間、技術調教師時代を藤澤調教師の下で過ごした鹿戸雄一調教師。藤澤調教師にとって最後の天皇賞で、互いの有力馬が激突するのにも、なにか不思議な運命を感じずにはいられない。
写真:Horse Memorys、かず