いつかまた、貴女の夢を - シンハライト

「もう、競馬場で会えないんだな……」

 競走馬引退の報を目にする度、私は茫漠とした寂寥の念を覚える。

傑出した成績を残した競走馬には引退式が執り行われ、名残惜しさを残しつつも惜別の拍手を送る機会が与えられるが、誇らしげに花道を歩んでセカンドステージへ向かえる馬はごく一部。多くの競走馬はひっそりと──あるいは予期せぬ形でターフを去り、ファンは報道や、馬名がひたすら並んだ抹消欄でその事実を知ることとなる。昨今はSNSを通じ第二の馬生を過ごす姿を目にする機会に恵まれることもあるが、競馬ファンと競走馬の直接の接点が競馬場にほぼ限られる以上はターフを去った競走馬と再会することは難しく、予期せぬ別れは大きな喪失感を与える。貴方や私の「推し」たる彼ら・彼女らに会える機会は思っているより遥かに短くて、とても貴重だ。

2016年のローズステークス。このレースが一頭の将来性豊かな牝馬のラストランとなることを、この日、競馬場で見守っていた誰が想像しただろうか。北上する台風16号がもたらした大雨に渋る阪神競馬場。水を含んだ馬場に他馬が脚を取られる中、ただ一頭軽やかに次元の違う末脚で馬場を真一文字に切り裂いたシンハライト。その瞳には洋々たる未来が開けていた。

──はずだった。


シンハライトは2013年4月11日、この世に生を受けた。母シンハリーズは芝9ハロンのデルマーオークスを制したG1ウイナーである。ただし日本のファンにとっては、日本競馬界にとってエポックメイキングだった『シーザリオのアメリカンオークスで3着となった実績馬』といった方が馴染み深いかもしれない。出走馬の多くが後に日本に輸入され、イスラボニータやエイシンアポロンらG1ウイナーの母となっている同レース。その一角を担ったシンハリーズもまた、繁殖牝馬として高いポテンシャルを示し、仔の代からは重賞ウイナーのアダムスピークやリラヴァティ、孫の代からも複数のオープン馬を輩出し、牝系の祖としてこの国に根を下ろそうとしている。

シンハリーズの6番仔としてこの世に生を受けたシンハライトはディープインパクトを父に迎え、良血馬らしい品の有るシルエットと気品のある顔つき、そしていかにも瞬発力に富んだ弾けるような身のこなしの持ち主だった。少し小柄な馬体に秘められた才能の芽を摘まぬよう、陣営は慎重に歩みを進め、2歳夏、函館競馬場でのゲート試験後もデビューを焦らず北の大地で馬体の成長を待った。真夏のピークが去ったのを確認して栗東へ入厩すると、漸く迎えた10月のデビュー戦と、十分なインターバルを設けた1月の紅梅ステークスで連勝を飾った。

続く舞台は、桜花賞トライアルのチューリップ賞。中団をスムーズに追走すると阪神競馬場の長い直線利して脚を伸ばす。同じ位置に構えていたジュエラーと競り合いながら先団を飲み込むと、鼻面を並べて飛び込んだゴールで僅かに先んじ重賞初制覇を飾った。ウオッカのレースレコードを塗り替える1分32秒8の時計を手土産にクラシック戦線の主役の一角として堂々と名乗りを上げ、数々の名馬を知る池添謙一騎手をして「これほどの背中を持つ馬は中々いない」と評されたように、その鮮やかで軽やかな3連勝は世代の頂点を伺うのに十分なインパクトであった。


迎えた桜花賞。この年のクラシック戦線で主役と目されたのは阪神ジュベナイルフィリーズを完勝しクイーンCで後続を千切り捨てたメジャーエンブレムであった。ダイワメジャーの特長を凝縮したパワフルで豊富なスピードで他馬を圧倒するメジャーエンブレムと、爆発的な末脚を有するシンハライト、ジュエラー。豊作と言われたこの世代においても、彼女ら3頭は傑出した存在として大きな期待を集めた。

そんな桜花賞は、意外な展開となった。

快速を飛ばして後続を振るい落とす逃げが本領のメジャーエンブレムのダッシュが鈍く、変わって馬群を先導したのは17番人気のカトルラポールと18番人気のメイショウバーズ。力量差を埋めるべく位置取りのアドバンテージを得たい彼女らがペースを落としたことで馬群は凝縮する。持ち前のスピードを殺され窮屈な走りを強いられる2歳女王とは対照的にシンハライトは好位の外目を追走すると、直線、馬群を割ろうと苦しむ最大のライバルを横目に、一気に加速して先頭に躍り出る。実にスムーズな──あるいはスムーズすぎる──レース運びであった。

シンハライトの勝利は揺ぎ無いものと思われた刹那、更に後方で息を潜めていたジュエラーとデムーロ騎手が襲い掛かる。もしメジャーエンブレムと共に抜け出す形になっていれば持ち前の勝負根性が発揮されたかもしれない。メジャーエンブレムという最大の目標を失い、早く先頭に立ちすぎてしまったシンハライトに生じた一瞬の隙をイタリアの名手は見逃さなかった。馬体が並んだ瞬間、シンハライトももう一度ファイティングポーズを取ったものの、僅か数cmの競り合いに敗れ、手中に収めていたはずの勝利は手中からスルリと零れ落ちた。


メジャーエンブレムが距離適性を重視してNHKマイルカップに舵を切り、桜花賞馬ジュエラーは左前第一指骨の剥離骨折が発覚して戦線離脱。三強から唯一、オークスに駒を進めることとなったシンハライトは、単勝2.0倍の一番人気に支持された。

ゲートでやや後手を踏んだシンハライトは、不利なく運んだ桜花賞とは一転して馬群に包まれ、窮屈なポジションに押し込められる。迎えた直線、馬群のど真ん中で行き場を無くし絶体絶命のピンチに陥った。だが残り200m、僅かに開けた間隙に420kg足らずの小柄な馬体をねじ込むと、他馬を跳ね飛ばすようにして一気に加速。先に抜け出したビッシュをとらえ、大外から脚を伸ばしたチェッキーノを抑え込み、クラシックのタイトルを手にした。

苦しい形成からも諦めずに道を切り拓きそして勝ち切る姿には、彼女が持つ勝利への執念が隠せないほどに滲み出ていたように思う。桜花賞2着の惜敗を糧に臨んだ樫の大舞台で、想定外の苦しい位置取りから繰り出された気迫あふれる走りは、11年前に同じ帽色、同じ勝負服でこの舞台を制したシーザリオ──もちろん、母シンハリーズの因縁の相手でもある──をも彷彿とさせ、時空を超えた奇縁を感じる結果ともなった。


 しがらきでひと夏を超えたシンハライトは8月上旬に栗東に帰厩し、秋華賞への王道ステップであるローズステークスに姿を現した。オークスから+14kgとリフレッシュされた馬体には筋肉がぎっしり詰まり、生命力の充溢を感じさせた。戦前の下馬評は桜花賞馬ジュエラーとの一騎打ちムード。オークス馬シンハライト1.6倍、桜花賞馬ジュエラー3.7倍の二強オッズが示すように、春の二冠を分けた才媛のリターンマッチにファンは胸を膨らませた。

 直前まで降り注いだ雨こそ上がったものの重くのしかかるような曇天の下、ゲートが開いた。クロコスミアが先導し世代上位のアットザシーサイドが続く隊列。故障明けの影響かいかにも力みが目立つジュエラーに対し、シンハライトは重馬場も苦にせず軽やかなフットワークで追走する。

直線、クロコスミアがじわじわと一歩ずつ後続を引き離す。桜花賞馬ジュエラーは序盤のロスが響いたか反応が鈍い。ライバルを引き離して追撃態勢に入ったシンハライトは、水を含んだ芝コースを蹴り上げて大外から、末脚を爆発させる。クロコスミアが築いたはずのセーフティリードはみるみる縮まり、馬体を並べ、ハナ差ねじ伏せたところでゴールに飛び込んだ。「ギリギリだったが着差は僅かでも捉えられるという手応えがあった」と池添騎手が述懐したように、高い能力に裏打ちされた彼女の勝負強さを改めて見せ、二冠達成に向けて視界は良好。その先に広がる古馬との戦いにファンは思いを馳せた。

だが秋華賞当日の京都競馬場。そこにシンハライトの姿は無かった。彼女を突如襲った脚部の病魔は彼女に二度と全力疾走を許さなかった。6戦5勝、2着1回。準パーフェクトの戦績を残したシンハライトは、ファンに別れを告げることもなく、競馬場から姿を消した。


クラシックを競い合ったライバルも、不本意な顛末を迎えた。桜花賞馬ジュエラーは秋華賞4着で復調気配を見せたものの、それが最後のレースとなった。秋華賞後に筋肉を傷めた同馬は翌春に判明した骨折で現役の道を断たれたのである。メジャーエンブレムはNHKマイルCを制した後、放牧先で半腱半膜様筋のトラブルを発症。懸命の治療が続けられたが復帰は叶わず年末に引退を発表した。三強は皆、一年に満たぬ競走生活で鮮烈にファンを魅了し、突如歩みを止め、輝きの残滓を残してターフを去った。

彼女たちのレベルの高さは残されたライバルが証明した。秋華賞を制したヴィブロスはドバイターフを制覇。クラシックで三強に及ばなかったアドマイヤリードは成長を遂げ古馬となりヴィクトリアマイルを制した。ローズステークスでシンハライトにあと一歩まで迫ったクロコスミアはエリザベス女王杯で三年連続2着の実績を上げた。

 唐突に幕を下ろすことになった彼女らの次世代に託された。彼女らの面影を残す二世はもうターフに姿を見せ始めている。宝石のように一際大きな輝きを放ったシンハライト。彼女自身も、今度は牝系の祖として自らの血を大きく拡げる使命を帯びている。


どんな競走馬も、いつかはターフに別れを告げる。その日がいつかはわからない。だからこそ、悔いの残さぬよう刮目し、一走一走をこの目に焼き付けたい。彼ら・彼女らの走りを忘れにために。いつか父の名で母の名でターフに帰ってきたときに「あの日あの時、君の親もここを駆け抜けたんだよ」とそっと教えてあげられるように。

いつか時代を超えて、彼女のDNAを引く仔が彼女の見られなかった景色が見せてくれることを、ライバル物語の続きを見せてくれることを、夢の続きを見せてくれることを、願いたい。

写真:かぼす、Horse Memorys

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