![[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]ボーンシスト(シーズン1-45)](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2025/05/2025051702.png)
ひと声もかかることなく、乾いたハンマー音が響きました。主取りになるのに慣れてしまった自分もいて、何ごともなかったかのようにセリ会場裏の小部屋から降りていきます。もちろん本心としては、悔しくて恥ずかしい気持ちがあります。今回も碧雲牧場のスタッフ全員が応援しに来てくれていますし、彼女たちに会わせる顔がありません。
主取りになって出ていくのは、生産者にとって最も恥ずかしい場面ではないでしょうか。種付けから誕生、そこからセリに出るまで2年以上かけて大切に育ててきた馬が、誰にも手を挙げられないのです。無収入になって経済的に打撃を受けるだけではなく、生産者としてのプライドが打ち砕かれる屈辱的な瞬間。穴があったら入って、そのままこの世から消えてしまいたい気持ちです。実際に馬を育てているわけではない僕ですら恥ずかしくて悲しいのですから、本物の生産者にとってのあの時間は、最悪のそれのはずです。僕は福ちゃんのお姉さんで今年2回、その瞬間を味わいました。
それでも、消えてしまうわけには行きません。「ダメでした…」と皆に言いながら、福ちゃんのお姉さんの元に向かいました。セリ会場から馬房に戻ったダートムーアの23は、午前中から興奮しすぎて疲れたようで、馬房の中でうつらうつらと眠たそうです。そんな姿を見て、可愛いと思ってしまう自分がいます。僕はやはり本物の生産者にはなりきれないのかもしれません。馬は経済動物であり、セリで馬が売れないことが生産者にとっては死活問題です。そこを割り切れない僕だからこそ、このような結果を招いてしまったのではないでしょうか。
具体的には、リザーブ金額(最低価格)が高すぎたのです。今回は500万円で下を取らない設定にしていましたが、術歴のある牝馬がオータムセールに出てきたら200~300万円が相場です。手術費(30万円)やここまでのコンサイニング費用を加えると、どれだけ安くても500万円以下では売りたくないという算盤はありました。しかしそれ以上に、どこかでダートムーアの23に対する愛着や想いゆえに安く売りたくないという気持ちが強すぎて、そんなことは全く関係のない購買者との間に大きな溝ができてしまっていたことに気づかなかったのです。客観的にダートムーアの23の市場価値を評価できていなかったということです。冷静になってリザーブ価格を200万か300万円で出し、何人かに競って300~400万円台で落札してもらって納得するのが本物の生産者なのです。これは今回の結果を受けて、あとから冷静になって考え出した僕なりの結論であり反省です。周りの人たちは僕に気を遣って、はっきりとは言ってくれませんでしたが、ダートムーアの23の市場価値は300万円ぐらいだったということです。
僕はもうすぐ50歳になり、年齢的にも自分のやり方や考えを突き通しやすくなっています。それは良い方向に出ることもあれば、今回のように悪い方向に出ることもあります。慈さんもシモジュウも年下ですし、NO,9ホーストレーニングメソドの木村さんにとって僕はお客様ですから、「500万円のリザーブ価格は高すぎるから売れないよ」とはっきりと言ってくれません。「500は高いですよ」と言ってくれた友人はいましたが、あくまでもひとりの意見として聞いていました。もし売れなければ自分で走らせるという逃げ道も用意していたのが、自分の価値観を押し付ける結果につながったところもあります。どうしても売らなければならないのであれば、リザーブ(下限)価格を100万円に設定したかもしれません。つまり、僕のせいでダートムーアの23は売れ残ってしまったのです。悪いのはダートムーアの23ではなく僕だったのです。
もうひとつ、僕の判断を誤らせた原因のひとつにボーンシスト(bone cyst)があります。ボーンシストとは骨の嚢胞(のうほう)のことで、骨内に液体や半液体の袋状の構造が形成される状態を言います。1~2歳の若馬に好発する疾患で、遺伝や栄養、急速な成長など様々な要因によって、関節軟骨下の骨の発育不良によって起こるとされています。また、慈さんによると、離乳前の小さい時期に、母馬の激しい動きに付いていこうとして、関節内の骨の一部に過度の物理的ストレスが加わることで発生するとも考えられているようです。

特に、膝関節を構成する大腿骨はボーンシストの好発部位となり、ダートムーアの23も後ろ膝に軽度のボーンシストが見つかりました。「重大な所見ではありません」という医師の診断もありますし、NO,9ホーストレーニングメソドの木村さんもボーンシストは問題ないと判断してくれました。ところが、見る人によってはボーンシストの方を嫌がるそうです。たとえ軽度であっても、症状が出るとかなり手こずるケースが多く、手術や治療が難しいため嫌われるのです。軽度か重度かにかかわらず、ボーンシストの所見があるというだけで購買リストから消すという関係者もいるみたいですね。
ボーンシストがどれほど嫌われているのか僕には実感がないため、木村さんの言葉をうのみにしてしまっていました。もちろん、木村さんは数々の馬を育成してきた経験から「大丈夫」と言ってくれたのですが、購買者にとっては大きなリスクに思えたのでしょう。骨片除去手術をして、脚元を綺麗にして臨んだつもりが、ボーンシストがあるじゃないかと購買者には思われていたのだとすると、たしかに500万円は高い値付けだったのです。
また、種子骨の骨片除去手術後は、肢を固定して守るため、外に出て歩くことがでず、およそ3週間も舎飼い(馬房の中で過ごすこと)しなければいけませんでした。そのため、運動できずに筋肉は落ちていくばかりでなく、精神的なストレスで飼い葉を食べずに身体が減って行きました。やはり手術をしてから2か月ほどでセリに上場するのは無理があったのです。木村さんも精一杯にやってくれたのですが、ダートムーアの23は肉体的にも精神的にも、とてもセリに出るような状態ではなかったのです。セレクションセール前とオータムセール前の立ち写真を比べてみると分かると思います。ただでさえまだ細いダートムーアの23の身体から、筋肉がごっそりと失われ、薄っぺらい馬体になってしまっています。


冷静に分析をしてみることは大切ですが、僕の手元に残った以上、この先は僕の手で彼女を幸せにするしかありません。そのためには考えを変える必要があります。市場価値と僕が思う彼女の価値に乖離があったことはたしかですが、どちらの価値観が正しいのか、まだ決着はついていないのです。市場価値が間違っている可能性だって十分にあります。
今となっては、僕にできることは、彼女は500万円以上の価値があると信じること。いや、セレクションセールではリザーブ価格は700万円でしたし、もっとさかのぼれば下では1200万円以下では売らないと決めていたのですから、それぐらいの価値はあると考えていたのです。今は僕だけがそう信じていて、僕だけでも信じてあげなければならないのではないでしょうか。
そして、実際に彼女に価値をつけることです。いつの日か、あのとき500万円で買われなくて良かったと胸を撫でおろせるように、彼女を大切に育て、競走馬としての能力を十全に発揮できるようにサポートしていかねばならないのです。その上で、胸を張って碧雲牧場に彼女を返してあげたいと願います。
(次回へ続く→)