1982年うまれの名馬、サクラユタカオー。
父は仕上がりの早さと卓越したスピードを良く仔に伝えたことから馬産地の生産者に「お助けボーイ」と呼ばれたテスコボーイ、母はスターロッチ系の名牝アンジェリカという血統を持つ。2000m前後の良馬場を得意として、1986年の毎日王冠(東京芝1800m)と天皇賞・秋(東京芝2000m)を連勝した優駿である。
サクラユタカオーは種牡馬としても優秀で、父譲りの良質なスピード能力を仔に伝えた。1993年と1994年のスプリンターズステークスを連覇したサクラバクシンオーと1995年のエリザベス女王杯を制したサクラキャンドルの兄妹がその代表だろうか。さらに1999年の安田記念・マイルCSを制したエアジハード、同じく1999年のオークスを制したウメノファイバーなど、個性派GⅠ馬を何頭も送り出した。
名伯楽の境勝太郎元調教師をして「自分の管理馬の中で最も強かった馬はサクラローレルだと思うが、こと2000mの良馬場に限るという条件を付ければサクラユタカオーかも知れない」と言わしめたサクラユタカオー。そのサクラユタカオーの仔が、父の得意条件である東京競馬場での親子制覇を夢見て挑んだ戦いを、今回は紐解いてみたい。
トゥナンテは、父サクラユタカオー、母ダイナサルーン(母の父ノーザンテースト)で、全兄弟に中山記念のダイナマイトダディがいる血統を持つ。毛色である美しい栗毛は父譲り。父の時代に囁かれていた「テスコボーイの栗毛は走らない」という俗説も、過去の話となっていた。ちなみに全兄のダイナマイトダディは母譲りの輝くような栃栗毛に四白流星のグッドルッキングホースで、この印象的な流星は本馬にも受け継がれている。
500キロを超える雄大な馬体を持つトゥナンテは、4歳9月の未勝利戦までデビューがずれ込んだ。馬主は有限会社社台レースホース、管理トレーナーは栗東の松元省一調教師、鞍上は幸英明騎手という布陣で臨んだデビュー戦であったが、結 果は2番人気15着に終わる。次走からはダート戦を走るようになり、5着、3着と着順を上げていき、4戦目の未勝利戦で待望の初勝利を挙げた。クラシックからは出遅れてしまったが、陣営は来年以降の古馬としての活躍を期待して調教を課していった。
500万条件(現1勝クラス)を3戦で卒業し、鞍上の幸騎手とも手が合ってきた。ここで陣営はひとつの決断をする。それは、主戦場をダートから芝に移すこと。脚元の不安もありダートで結果を出してきたトゥナンテであったが、父サクラユタカオー、母父ノーザンテーストという観点から見た時により活躍が望める舞台は、やはり芝であった。年末の900万条件(現2勝クラス)を勝ち、準オープンに駒を進めたトゥナンテ。次走は年明け京都の岩清水ステークスに決まった。
岩清水ステークスは京都競馬場の外回りの芝1600m、15頭で争われた。昇級初戦のトゥナンテは、芝経験の少なさが嫌われて8番人気だった。ゲートが開くと半年後に七夕賞を制するサンデーセイラがぐんぐんと加速してハナを切り、トゥナンテは10番手の外で折り合いをつける。阪急杯で3着もある1番人気のレイシアトルはさらに後方からの競馬。4コーナーを回って直線。サンデーセイラを競り落としたエリモウィングが抜け出したところで中団・後方の馬が襲いかかる。一番外から伸びてくるのはレイシアトル。しかしトゥナンテと幸騎手は馬場の真ん中を通って前に取りつく。1馬身、半馬身、エリモウィングを捕まえる。外から伸びるレイシアトルも届かない。先頭でゴールしたトゥナンテは、これが待望の芝初勝利。父サクラユタカオーの血が、脈々と沸き立ち始めていた。
晴れてオープン馬に昇級したトゥナンテ。ここからは父サクラユタカオーの適距離と言える芝1600~2000m戦に参戦するようになる。オープン第一戦は中山競馬場に遠征しての東風ステークスであった。雨の中、不良馬場で行われたレース。かつてのサクラユタカオーを知るオールドファンからすれば道悪は空っ下手という印象が強く、それが影響したのか14頭立ての7番人気と辛口の評価であったが、結果は4着と上々の滑り出しであった。
続いてトゥナンテは、重賞にも初挑戦。中京競馬場で行われた小倉大賞典を、スエヒロコマンダーの2着と大健闘する。ここで賞金も加算して、順風満帆と思われた。しかし、新潟競馬場の新潟大賞典を4着した後で臨んだ初めての東京競馬場でのエプソムカップで重賞の壁にぶち当たる。18頭立ての3番人気に支持されたもののアメリカンボスの10着と大敗。続く京都競馬場のカシオペアステークス、京阪杯をそれぞれ9着、11着と大きな着順が続く。中央の主場では全く歯が立たないのか──ファンにも不安がよぎる。
しかしながら、一度沸き始めた父サクラユタカオーの血は容易にはおさまらなかった。次走に選んだ年の暮れの阪神競馬場のオープン競走・六甲ステークス。ここには翌年に中央の舞台に名を轟かすことになる外国産馬メイショウドトウをはじめ、オープンとはいえ骨っぽい面々が集まっていた。トゥナンテはここでは4番人気ではあったが、落ち着いた表情で輪乗りに加わる。全頭が一斉にスタート。メイショウドトウは4番手の外で1コーナーを回る。トゥナンテは後ろから3頭目くらいを追走。向う正面を過ぎて3コーナーへ。1番人気のメイショウドトウの手ごたえが怪しくなり、トゥナンテの幸騎手は4コーナーで外に回して先行勢に取りつく。最後の直線。馬場の真ん中に出したトゥナンテの脚色が良い。トウカイパルサー、プロモーションが追いすがって来るもののこれはセーフティーリード。誰よりも早く、トゥナンテと幸騎手がゴールを駆け抜けた。遠かったオープン初勝利を、他馬をねじ伏せる着差以上の強さで手にした。父サクラユタカオーが、これ以上の足踏みは許してはおけないと、トゥナンテの背中を押していたのかもしれない。
年が明けて、20世紀最後の年である2000年となった。トゥナンテは小倉競馬場の小倉大賞典をジョービッグバンの7着したのち、阪神競馬場の産経大阪杯に挑戦してメイショウオウドウの8着と敗れた。ただ、着順は大きいものの上がり3ハロンは常に出走馬中ベスト3位に入っているように、切れる脚にさらに磨きをかけていた。そして福島で行われた新潟大賞典を3着した後、歓喜の時が訪れる。中京競馬場の愛知杯で、2着のブルーエンプレスに4馬身の差をつけて、ついに待望の重賞制覇。さらに、続いて小倉競馬場に渡ると、北九州記念を勝って重賞連勝──。
そして陣営は、ついに秋の大目標に向かって舵取りを始める。東京競馬場の芝2000mの最高峰、天皇賞・秋である。
父サクラユタカオーが勝ち取った秋の盾を、その仔トゥナンテが勝ち取ることができるのか。
そのカギは、実はこの北九州記念のレース運びの中にあった。このレース、1番人気に推されたトゥナンテであったが、黒帽2枠2番という内枠が当たっていた。いつも置かれ気味に後方を追走し、4コーナーで外に出し、上がり最速ないしそれに準じる末脚で追い込むという勝ちパターンであったが、内枠を引いたことにより外から被せられて位置を下げてしまい外に出せないという恐れがあった。おそらく幸騎手は、好発を決め好位をキープして前々で競馬し、直線は内枠を利して内を突くという青写真を描いていたのではないかと思われる。結果、道中は内々で距離損なく好位を守り、最後の直線で逃げるアンブラスモアの内を突くという、青写真通りの競馬で押し切ったわけである。これは新しい競馬の可能性を切りひらく勝ち方で、重賞タイトルが増えた以上の大きな自信のようなものが、陣営にもあったのではなかろうか。
夏を越え、一回り大きくなったトゥナンテ。天皇賞・秋の親仔制覇を目指して、次走は東京競馬場芝1800mの毎日王冠と決まった。このレースも父サクラユタカオーは制しており、ここを勝てばこれもまた親子制覇となる。しかし中央の主場に戻ってきたこともあり、今まで戦ってきた敵とは比べ物にならないほど強くなってきているのもまた事実だった。1番人気はエプソムカップ連覇のアメリカンボス、2番人気は藤澤厩舎の秘密兵器マチカネキンノホシ、3番人気は小倉記念・朝日チャレンジカップと重賞連勝中のミッキーダンス。トゥナンテも重賞連勝中であるが、ここでは主場の実績がないことから人気の上では4番人気であった。
ファンファーレが鳴ってゲートが開くと、エイシンキャメロンがハナに立ち、馬群を引っ張る。トゥナンテと幸騎手は後方3番手から、内々を通って徐々に位置を上げていく。スローペースの中、4コーナーを回って直線へ。エイシンキャメロンが逃げ、ミッドナイトベットとイーグルカフェが追いかけようとする。馬群がばらけて内々が空いた瞬間を、幸騎手は見逃さなかった。「内からトゥナンテ!」実況が叫ぶ。最内を突いてエイシンキャメロンを並ぶ間もなく抜け出す。外から目標を内に見定めたアドマイヤカイザーが末脚を伸ばしてくる。その後ろ、イーグルカフェやアメリカンボスからでは届かない。トゥナンテ、アドマイヤカイザーの叩き合い。トゥナンテが一歩速くゴールへと飛び込んだ。重賞3連勝で毎日王冠の親仔制覇となった。3着に逃げ粘ったエイシンキャメロンのスロー逃げのアシストがあったとはいえ、幸騎手会心の騎乗が光った。そして同時に、トゥナンテにとっても最高のレースとなったのではないだろうか。
GⅡ毎日王冠を制覇したトゥナンテの次の目標はもちろん、勝てば父サクラユタカオーとの親仔制覇となるGⅠ天皇賞・秋である。出走23走目でGⅠ初挑戦のトゥナンテに対し、綺羅星のごときスターホースたちが迎え撃った。筆頭格は、世紀末覇王・テイエムオペラオー。この年の古馬GⅠを総なめする勢いで、破竹の5連勝中を挙げていた。対するは、打倒オペラオーを目指して鞍上に的場均騎手を迎えた外国産馬メイショウドトウ、さらにオペラオーとは宿命のライバル関係とも言える菊花賞馬ナリタトップロード、他にも古豪ステイゴールドやダイワテキサスなどタレント揃いだった。
そんなメンバーの中にあって、トゥナンテは5番人気に支持されていた。トゥナンテと幸騎手のコンビも、競馬ファンにとって決して無視できない存在となっていたのだ。
天候は雨のち曇り。馬場は水を含んだ重馬場となっていた。父ユタカオーは雨馬場は空っ下手であったが、息仔トゥナンテにとってはこれは恵みの雨となるのだろうか──。
GⅠファンファーレが轟き、ゲート入りが始まる。トゥナンテは5枠10番に歩を進めた。全頭ゲートに入り、一斉にスタート。トゥナンテは好発を決めて前へと出ていくが、その外からロードブレーブがハナを主張する。メイショウドトウも前目で、3番手につけたトゥナンテを大外からまくってミヤギロドリゴがロードブレーブを追う。テイエムオペラオーは好位につけ、虎視眈々とライバルたちを見つめる。3コーナー.ロードブレーブとミヤギロドリゴが後続を10馬身と引き離し、観衆がにわかにざわめいた。トゥナンテはメイショウドトウと並んで3番手4番手。テイエムはその後ろ。そして4コーナーから直線を迎えると、一気に前2頭を後続が飲み込んだ。
先頭は馬場の真ん中をメイショウドトウ。テイエムオペラオーも後方から追い出しをかける。内ピッタリを回ってきたトゥナンテの前が空く。幸騎手がゴーサインを出した。「内からトゥナンテ!」実況が叫ぶ。後方からは誰も脚を伸ばしてこない、先頭争いは3頭に絞られた。最内を伸びるトゥナンテ、その外を通ってこれをねじ伏せようとメイショウドトウ、さらにその外を糸を引くような末脚でテイエムオペラオー。メイショウドトウ、トゥナンテを並ぶ間もなく交わし去る。「勝ったのはテイエム!」実況の大絶叫。トゥナンテは、メイショウドトウとの2着争いを繰り広げたのち、惜しくも4分の3馬身届かずの3着となった。
残念ながら、トゥナンテのレースの物語はここで終わっている。この後彼はレースに出走することなく2003年に引退。北海道のノーザンホースパークで乗馬と報じられたが、急転直下、レックススタッドで種牡馬に転じて産駒を送り出した。地方競馬ではあるが福山競馬場で重賞勝ち馬まで送り出したという。
「トゥナンテ」という名前は、スペイン語で「いたずらっ子」という意味だという。どちらかというと目端が利くとかずる賢いとかいう意味を含んでいるというが、こうして彼の来し方を紐解いてみるとそのようなマイナスのイメージはほとんど浮かんでこないことに気付く。
父譲りの美しい栗毛に、鮮やかな大流星をアクセントに、父の残した勲章をなぞるように親仔制覇に挑んだトゥナンテ。
鞍上の幸騎手の纏う黄色と黒・社台レースホースの勝負服とベストマッチの彼は、その幸騎手と二人三脚、自慢の末脚を行かす術を少しづつ身に着けてきた。クラスが上がるごとに騎手との絆は深まり、ついにオープンにまで上り詰めたとき、幸騎手からは勇気をもって最内を突くことを教わったのだ。全23レース中、21レースを共に戦ってきた相棒のエスコートで、トゥナンテは重賞の階段を一足飛びに上がっていき、毎日王冠の親仔制覇を成し遂げ、天皇賞・秋では超一線級のテイエムオペラオーやメイショウドトウを苦しめるまでに成長していた。
奥手の馬が多い父サクラユタカオーの産駒の中でもとびっきりの奥手だった「いたずらっ子」は、残念ながら父に肩を並べることは出来なかったが、その鮮やかな栗毛にぼくたちは夢を乗せ、父の在りし日の姿を重ね合わせながら渾身のイン差しに酔うことができた。それはそう、競馬というブラッドスポーツの醍醐味の表れであり、楽しみを体現した姿であると言えるだろう。トゥナンテ、きみは胸を張っていい。
写真:かず