2015年の二冠馬ドゥラメンテが、急性大腸炎のため9歳という若さで亡くなった。馬名の由来は、イタリア語の音楽用語で「荒々しく」という意味だそう。その名のとおり、凄まじい活力、そして生命力が漲っているイメージがあっただけに、この若さでというのが、未だに信じられない競馬ファンは少なくないはずだ。
ここでは、ドゥラメンテをはじめ、わずか数世代しか産駒を遺せず早逝してしまった名馬たちをご紹介していきたい。
ドゥラメンテ:5世代
ドゥラメンテといえば、まず注目されるのは、その光り輝く血統。
3代母は、1983年のオークスを制したダイナカールで、ここから始まる牝系は、わずか十数年で、数々の名馬を輩出。現代の日本競馬で、最も繁栄した牝系の一つといっても過言ではない。
その4番仔で、トニービンとの間に生まれたのがエアグルーヴ。96年のオークスで母娘制覇を達成し、翌年には天皇賞秋も勝利。牝馬として26年ぶりの年度代表馬に輝いた名馬である。
そのエアグルーヴに、サンデーサイレンスが交配されて生まれたのが、後にエリザベス女王杯を連覇したアドマイヤグルーヴ。さらにそこに、キングカメハメハを交配して生まれたのがドゥラメンテで、言い換えれば、ダイナカール自身や、娘、孫娘に歴代のチャンピオンサイヤーが掛け合わされて生まれてきたドゥラメンテは、日本競馬の粋を集めた結晶のような存在といえる。
そんな彼の現役生活の中で、未来永劫語り継がれるであろうレースといえば、2015年の皐月賞ではなかろうか。
結果的に他馬の進路を妨害してしまったことは決して褒められないが、ライバルを弾き飛ばすように4コーナーを回り、迎えた直線。中山競馬場において、かつてどんな偉大な馬も見せたことがないような爆発的な瞬発力で、先頭を行くリアルスティールをあっという間に捉え、差し切ってしまったのだ。
それは、戦慄が走るような破壊的な末脚。騎乗するミルコ・デムーロ騎手も、リアルスティールを交わす瞬間「なんだ、この脚は!?」と、驚きを隠せずに首を振り、自身4度目の皐月賞制覇を確信し、スタンドに向かって四本指を立てフィニッシュ。
あれから早6年が経過したものの、このシーンは今なお多くのファンの記憶の中に、鮮明に残っていることだろう。
ドゥラメンテは、次走のダービーも完勝しあっさりと二冠を達成。しかし、前回の末脚があまりにも「ヤバ」すぎただけに、世代の頂点を決めるダービーというレースとはいえ、インパクトでは、皐月賞の方がはるかに上回っていたといわざるを得ない。
その後、骨折が判明して秋は全休。翌春の中山記念を快勝後に挑んだドバイシーマクラシックで2着。さらに、帰国後の宝塚記念でも2着。その宝塚記念の入線後に故障を発症し、競走能力喪失と診断され引退、種牡馬入りを果たしたが、9戦5勝2着4回という戦績は、ほぼパーフェクトといって良いだろう。
そんなドゥラメンテの初年度産駒がデビューしたのは、2020年のこと。JRAの2歳重賞を制する馬は出てこなかったもの、タイトルホルダーが弥生賞を制覇。さらに、その勢いのまま本番の皐月賞でも2着に好走し、秋も活躍が期待されている。
2022年に生まれてくる予定の産駒も含めると、遺されたのはわずか5世代。ダイナカールから続く、親仔5代GI制覇の快挙を成し遂げてくれる産駒が、必ずやその中から出現することだろう。
ナリタブライアン:2世代
1994年。特徴的な、沈み込むようなパワフルなフォームで、史上5頭目の三冠馬に輝いたのがナリタブライアンである。牡馬クラシック戦線で、同期を圧倒しながら勝ち進むその姿を見て競馬の虜になったファンは、とりわけ30代~40代に多いはずだ。
そんなナリタブライアンも、兄のビワハヤヒデとは対照的に、決してデビュー直後から順風満帆な現役生活を送っていたわけではない。4戦目までは敗戦と勝利を繰り返し、これといって目立つ実績もなかった。その原因は、自分の影にも驚くほど臆病な性格。そこで陣営は、ナリタブライアンにシャドーロールを装着させることにした。
すると、効果てきめん。ナリタブライアンは、馬が変わったようにこれまで持て余していた素質を開花させる。6戦目の京都3歳ステークスをレコードで快勝すると、朝日杯3歳ステークスも連勝してGIを初制覇。同時に、前年敗れた兄の雪辱も果たした。
年明けは、共同通信杯4歳ステークスとスプリングステークスを勝利し、皐月賞は、3歳限定戦にも関わらずコースレコードで完勝。ここでも兄の雪辱を果たした。
さらに、単勝1.2倍の圧倒的人気に推されたダービーでは、ロスなどまるで関係のない大外ぶん回しの安全策で5馬身差圧勝。あっさり二冠を達成する。
迎えた秋初戦は、当時、菊花賞トライアルとして行なわれていた京都新聞杯。ここで、スターマンの奇襲にあい連勝は止まったものの、本番の菊花賞は、再びレコードで7馬身差の圧勝。三冠レースを走る度に2着との差を広げ、史上5頭目の三冠馬に輝いたのである。
年末の有馬記念でも、古馬との壁を全く苦にせず完勝し、年間獲得賞金の新記録を打ち立てて年度代表馬に。そこから、翌年の阪神大賞典を7馬身差で圧勝するまでは良かったのだが──。
その後に発症した股関節炎が、シャドーロールの怪物のすべてを変えてしまった。
秋に戦列へ復帰して以降は、6戦してわずか1勝のみ。ただしその1勝は、マヤノトップガンと一騎打ちを演じ、今も歴史的名勝負として名高い、96年の阪神大賞典である。もちろんそれは、疑う事なき超のつく名勝負だったが、騎乗した武豊騎手も、ゴールした瞬間は「鳥肌が立った」という反面、全盛期と比べると「あれっという感じもした」と、後に振り返ったほど。故障の影響は、あまりに大きすぎたのかもしれない。
そこから、天皇賞春2着を挟んで出走した高松宮杯で4着となり、その1ヶ月後に屈腱炎が判明。秋に引退が決定し、種牡馬入りが発表された。
ところが、平穏無事な第二の馬生が待ち受けていると思われたナリタブライアンは、その後も、残酷な運命につきまとわれてしまった。彼を悲劇が襲ったのは、種牡馬入りしてから2シーズン目。98年6月のことである。
このとき疝痛を起こしたナリタブライアンには、緊急の開腹手術が行なわれ、一旦は快方に向かったと伝えられた。しかし、9月にまたも疝痛を発症し、再び開腹手術が行なわれたものの、この時、胃を破裂しており既に手遅れの状態。やむなく安楽死の措置がとられ、産駒の活躍を見ることなく、この世を去ってしまったのだ。
遺された産駒は、わずか2世代のみ。直仔からJRAの重賞勝ち馬は生まれず、母の父として、札幌2歳ステークスを勝ったオールアズワンと、チャレンジカップを勝ったマイネルハニーを送り出すに留まっている。
兄のビワハヤヒデもGIを3勝したものの、やはり種牡馬としては重賞勝ち馬を輩出できなかった。ただ、従妹のファレノプシスがGIを3勝し、その弟のキズナは、2013年のダービー制覇。いまや、ディープインパクトの後継種牡馬の筆頭格として奮闘し、一族の血を広く現代に繋いでいる。
エルコンドルパサー:3世代
凱旋門賞制覇を夢に掲げるホースマンは少なくないが、日本調教馬で、その夢を最初に実現しかけたのがエルコンドルパサーである。
父は、名種牡馬のキングマンボ。母のサドラーズギャルは、欧州最高の大種牡馬サドラーズウェルズや、弟のフェアリーキング、そして、その伯父でこちらも名種牡馬のヌレイエフと同じファミリーの出身。エルコンドルパサー自身も、Special=Lisadellの全姉妹クロス4×4×3を保持しているという良血だった。
そんなヨーロッパ色が強い血統背景を持つエルコンドルパサーは、デビューから2戦つづけてダートを走り、7馬身差と9馬身差で圧勝。続く共同通信杯で初めて芝を走る予定だったが、雪の影響でダートに変更されるも、全く問題にせず快勝。3連勝を飾った。
春は、ニュージーランドトロフィーを勝利すると、本番のNHKマイルカップも余裕の完勝。デビューから5連勝で、あっさりとGI初制覇を成し遂げたのだ。
秋は、世紀の対決に湧いた毎日王冠で復帰し、全盛期のサイレンススズカには及ばなかったものの2着。続くジャパンカップでは、古馬や、同期のダービー馬スペシャルウィークを寄せ付けず完勝し、歴史的ハイレベルとなったこの年の3歳馬の中でも、一歩抜きん出た存在となる。
翌4歳シーズンは、凱旋門賞を大目標に定め、春から欧州遠征を敢行。初戦のイスパーン賞こそ2着に敗れたものの、続くサンクルー大賞を勝利し、秋初戦のフォワ賞も連勝。
そして10月。日本調教馬として初……そして欧州以外で調教された馬として初めて凱旋門賞に勝利するため、エルコンドルパサーは、再びロンシャンの地に姿を現したのだ。
そこに待ち受けていたのは、愛・仏のダービーを制したモンジュー。この年の凱旋門賞は歴史的な不良馬場での開催となり、事前から、この2頭の一騎打ちになることが予想されていた。
果たして、実際のレースもそのとおりになり、逃げるエルコンドルパサーを、中団につけたモンジューが、直線で馬群を割り追ってくる展開。直線半ばまで懸命に粘るエルコンドルパサーだったが、ゴールまで残り100mのところでついにモンジューに捉えられ、半馬身及ばず2着。日本競馬の悲願は、本当にあとわずかのところで、惜しくも実現しなかったのだ。
とはいえ、3着のクロコルージュは、そこから6馬身もの大差。「今年の凱旋門賞には、チャンピオンが2頭いた」と、報じる現地メディアもあったほどで、それは疑いようがないほどの素晴らしい快挙だった。
この年、エルコンドルパサーは、日本国内のレースに未出走だったにも関わらず、JRA賞の年度代表馬を受賞。それを手土産に、2000年春から種牡馬として第二の馬生を歩むことになったのだ。
そんな、順風満帆だった彼を、そのわずか3年後に悲劇が襲おうとは、果たして誰が予測できただろうか。
2002年7月16日。腸捻転により、エルコンドルパサー死去。
たった7年という、あまりに儚く短すぎる生涯。その間に遺した産駒は、わずか3世代である。
初年度産駒の重賞ウイナーこそ、根岸ステークスを勝ったビッググラスのみに留まったものの、2世代目のヴァーミリアンは、当時史上最多のGI級競走を9勝。12歳まで現役を続けたトウカイトリックも、3000m以上の長距離重賞を3勝するなど、渋い活躍を見せた。
さらに3世代目からは、神懸かった追込みで菊花賞を制したソングオブウインドや、未勝利戦から5連勝でジャパンカップダートを制したアロンダイトを輩出するなど、産駒が大活躍。
母の父としても、クリソライト、マリアライト、クリソベリルの3兄妹弟が、GIや交流GIを制している。それだけに、わずか7歳での早世は、いっそう惜しまれるところだ。
ドバイミレニアム:1世代
最後は番外編として、海外調教馬の中からドバイミレニアムを取り上げる。
英国産のこの馬の父はシーキングザゴールド。日本で活躍した産駒でいえば、NHKマイルカップを勝ち、4歳時に日本調教馬として初めて欧州のGIを制したシーキングザパール。そして、スプリンターズステークスで大本命のタイキシャトルを破り、シーキングザパールとともにワンツーを決めたマイネルラヴがあげられる。
また、母の同じファミリーからは、アドマイヤドンの父ティンバーカントリーや、後の桜花賞馬レジネッタが登場。また、2013年の朝日杯フューチュリティステークスを勝利する、アジアエクスプレスも同じファミリーの出身である。
そんな由緒正しいファミリーから登場したドバイミレニアムは、デビューから3戦3勝で挑んだイギリスダービーで、1番人気を裏切り9着に敗れるも、GⅡ勝ちを挟んで挑んだジャック・ル・マロワ賞でGI初制覇を達成。続くクイーンエリザベス2世ステークスも6馬身差で圧勝し、GI2連勝を飾る。
その後は休養に入り、年明けは、自身の名前の由来となった、2000年のドバイワールドカップに出走するため、前哨戦のマクトゥームチャレンジラウンド3に出走。そこを快勝すると、本番のドバイワールドカップでは、デットーリ騎手がゴールのはるか手前でガッツポーズするほどの内容で6馬身差の圧勝。しかも、レコードのおまけ付きで、名前どおりに大目標としたレースを勝ち切ったのだ。
続く、10戦目のプリンスオブウェールズステークスも8馬身差で圧勝。秋は、ブリーダーズカップクラシックを目指したが、その過程で故障し引退。種牡馬入りが発表された。
しかし、芝とダートの両方で世界的名馬となったこの馬にも、信じられないような最期が待っていた。
翌年の4月末。急性グラスシックネスという神経系の奇病にかかったドバイミレニアムは、わずか5年という、あまりにも短い馬生に別れを告げることになってしまったのだ。
遺した産駒は、たった1世代のみ。それでも、その忘れ形見の中から、アイルランド2000ギニーと、父仔制覇となったジャック・ル・マロワ賞勝利のドバウィを輩出。
そのドバウィは、世界的名種牡馬となり、初年度産駒から、父の父に次いでドバイワールドカップを勝ったモンテロッソや、父仔3代でジャック・ル・マロワ賞を勝ったマクフィを輩出。この2頭は、ともに日本で種牡馬生活を送っている。
この世代からは、他にも、モンテロッソと同じくドバイワールドカップを勝利したプリンスビショップや、クイーンエリザベス2世ステークス勝ちのポエッツボイスも登場。さらに、2021年の活躍馬でいえば、サウジカップやイギリスのインターナショナルステークスを勝ち、ドバイシーマクラシックで、クロノジェネシスとラヴズオンリーユーを撃破したミシュリフの3代父もドバウィである。
このように、ドバイミレニアムは早世してしまったものの、ドバウィが、ここに名前を挙げきれないほど世界中でGI馬を輩出。そのおかげで、一大系統となるほど、ドバイミレニアムの血は確実に、そして世界中で繋がれている。
他にも、アドマイヤベガやカネヒキリ、エアシャカール、ナリタトップロードなど、多くの名馬たちが多くの産駒を遺すことなく早逝した歴史がある。ドゥラメンテが遺した世代から、きっと大物が出ると信じ、その活躍を応援したい。
写真:Horse Memorys、かず