[名馬フィクション]午前6時。いま、きみのいる場所。 - エリモダンディー、シルクジャスティス

名馬のいるところに、ドラマあり。

長年、数々の伝説を繰り広げた名馬たちを応援していると、ふと「実は、こんな会話があったのでは……」と、想いを馳せることがある。ライバル同士の会話、仲間同士の会話。名勝負前夜やレース後の会話……。そうした名馬たちのIFストーリーから当時の競馬を振り返っていく「名馬フィクション」。

今回は、栗東の大久保正陽厩舎に所属した2頭のブライアンズタイム産駒、シルクジャスティスとエリモダンディーについて。


──きみはそんな馬ではない。

夜明けのこんな時間に、こんな場所にいるような馬ではない。しかし、いまきみのいるのは、間違いなく『こんな場所』なのだ。

この風景には見覚えがない、ときみはいうことができない。きみは冷たく暗い部屋にいて、静かに横たわった馬の姿をいちだん高いところから見つめている。

ここはきみの生まれ育ったえりも……いや、昨日までを過ごした栗東トレーニングセンターだろうか。仲良しの同厩舎のシルクジャスティスでもいて、くだらないおしゃべりなんかすれば、何もかもがもっとはっきりしてくるかもしれない。だがそんなことをやっても、何もはっきりとはしてこないかもしれない。きみの内側で誰かの声がこう囁いている。まわりで何もかもが次々とぼやけていくのは、前のレースでの骨折とそれに伴って痛み出した疝痛によるものだ、と。

夜はきみの知らないどこかを中心に回転し、午前2時を指していた時計の針はもう6時を回っていた。

──きみはなぜここにいるのか。

友達のシルクジャスティスが、年末のGⅠ・有馬記念で、先輩のマーベラスサンデーやエアグルーヴを押しのけて優勝してしまったのも、その一因かもしれない。シルクジャスティスこそそんな舞台、そんな場所にふさわしい馬だった。あの韋駄天サニーブライアンが逃げ切った日本ダービーを、大外から風のように追い詰めて2着に入ったし(きみはその時、馬場の内目を伸びて4着とダービーの掲示板に載ったのだった)、夏を越えてぐんぐん強くなったマチカネフクキタルが差し切った菊花賞では一番人気に推された馬なのだ。彼はきみの憧れであったし、あるいは目標だったと言ってもいい。

シルクジャスティスが有馬記念に勝った後、年が明けてきみは「おめでとう」を言うために彼の馬房を訪ねた。

「なんだか照れくさいよな」

シルクジャスティスはそう言った。

「先輩の馬を押しのけてGⅠ勝ったのは、ぼくらのクラシック世代ではきみが初めてなのだから、注目されて当然さ」

馬房に無造作に置かれている胡蝶蘭の花束に目をやりながら、きみは続ける。

「ぼくたちと一緒にクラシックを走ったメジロブライトくんもステイヤーズステークスを圧勝したし、年が明けたらもうぼくたちの時代だなんて言う人も出てきてるって」
「まあそれもお前が京阪杯勝って弾みをつけたからだけどな」
「えっ?」

戸惑うきみを一瞥して、シルクジャスティスは続けた。

「サニーブライアンが勝ち逃げしやがったおかげで、俺が大将格みたいに持ち上げられてしまったからな。菊花賞に挑戦したはいいけど5着で凹んでいたところに、お前の京阪杯の差し切り勝ち。あれで元気が出たよ」
「ジャスティス……」
「考えてもみろよ。420キロそこそこのお前が重賞のてっぺん取ってるっていうのに、恵まれた馬体の俺が凹んでなんかいられないって。それに俺な、菊花賞の後のジャパンカップはまた5着だったけど、鞍上の藤田さんに『もっといける』って言われたんだぜ。半信半疑で有馬記念に挑戦したらあっけなく勝っちまった。いわばお前のおかげみたいなもんさ」
「でも、ぼくはその次の京都金杯を……」
「2着で下向くなって。それとも、ユタカさんに怒られたのか?」
ぶんぶん、と首を振って否定したきみに、シルクジャスティスが笑いながら続ける。
「じゃあユタカさんも手ごたえを感じてるってこった。次のレースはなんだ? 日経新春杯? GⅡじゃないか。ここでうまいこと賞金を加算して、春の大目標は京都で天皇賞ってとこか。よし、俺も負けていられないぞ! 俺の次のレースは阪神大賞典。ここ勝って天皇賞行くぞ! ダンディー、お前も日経新春杯絶対勝て。淀の坂越えで同厩対決だ!」

カラカラと明るく笑うシルクジャスティスの顔が不意にぼやけた。きみは慌てて目を擦るけれども彼の姿は遠くなるばかりだ。夢をみていたのだろうか? きみの目の前には殺風景で冷えきった部屋があって、そこには馬体重420キロそこそこの牡馬が横たわっている。部屋の中なのに吐く息も白くなるほど、とても寒い。


「あの馬はぼくなのだろうか?」

きみも、次第に状況がのみこめてくる。

「ぼくは、死んじゃったのか……」

そう、きみは死んだ。日経新春杯を圧倒的な末脚で制したものの、レース後に鞍上の武豊騎手が下馬。全治9か月の骨折という大ケガを負い、悪いことに痛みとストレスから疝痛を併発して、最後は腸捻転が致命傷になった。シルクジャスティスには、さよならも言えていない。

不意に誰かに呼ばれたように、きみは顔を上げる。
お別れの時間だ。

──天国はどこにある?

坂路を駆けのぼったその先に。

──また走るのかい? うへえ。

きみはハナに皺を寄せて、うんざりとした表情を作る。部屋から歩み出たきみは窓の外を見て思わず相好を崩す。濃いブルーの空から淡いブルーの雪が降っている。子供のようにはしゃいだきみに、お別れを言ってと誰かが囁く。

さよならみんな。ジャスティス、寂しいからってあまり早く来るなよ。
坂路の空では重々しいブルーグレイの雲が淡雪の中を厳かに進んでいた。きみの最後の言葉は、坂路の風に消されていった。


エリモダンディーとシルクジャスティスは、同厩舎のブライアンズタイム産駒として活躍。若駒S勝利やダービー4着など世代トップクラスの実績馬だったエリモダンディーは、年末に京阪杯を制覇。さらに年明け、京都金杯2着後の日経新春杯でメジロドーベルらに快勝をおさめる。しかしレース直後に骨折が判明。さらに腸捻転を発症し、現役馬ながらこの世を去ってしまう。

一方のシルクジャスティスは、初勝利こそ7戦を要したものの、ダービー2着、京都大賞典1着、菊花賞・ジャパンカップ5着といった戦績を引っ提げ、有馬記念では古馬を相手に勝利していた。しかし同厩舎のエリモダンディーが早逝してからは白星に恵まれず引退。2019年に老衰を迎えた時は25歳だった。

写真:かず

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