印象的な勝利を見せる、漆黒の馬体を持つ名馬。気高きダービー馬、エイシンフラッシュ。

「走り方がかっこいい馬といえば?」というテーマがあったら、どの馬を挙げるだろうか。パッと思いつくのは、グラスワンダーや、牝馬ならルージュバック。近年活躍した馬の中では、サートゥルナーリアなどが挙がるだろうか。

同じように「見た目がかっこいい馬といえば?」というテーマなら、白毛初のGⅠ馬となったソダシの名前を挙げる人がいる一方で、漆黒の馬体に身を包んだ、あの馬を挙げる人も多いのではないだろうか。

──そう、エイシンフラッシュである。

ダービー馬の称号を手にしただけでも十分に素晴らしいが、その通算成績は27戦6勝。デビュー以降、大きなケガもなく4年半にわたる現役生活を続けた。たくさんのレースに出走できたことは「無事是名馬」として称えられるべきだが、そのぶん、敗れたレースも多かった。時に、敗戦後には「見た目にだまされた」などと揶揄されることもあり、あまりに見栄えしすぎるその見た目で、逆に損をしているような部分すらあった。

とはいえ、近年のダービー馬は、以後なかなか結果を残せずにいる中で、後に天皇賞秋を制し、他のGⅠでも入着が複数回あった彼の実績は、十分すぎるほど優秀だったといえる。

漆黒の馬体に流れる、ヨーロッパの重厚な血

エイシンフラッシュは、2007年3月27日、社台ファームに生を受けた。

父は、現役時に英2000ギニーを制し、姉に世界的名牝のアーバンシーを持つキングズベスト。母は、牝馬ながらドイツのセントレジャー(日本の菊花賞に相当するレース)を勝利したムーンレディという血統。

そのムーンレディは、キングズベストの仔を受胎している時に、英国のタタソールズ繁殖馬セールに上場され、そこで社台ファームが落札。日本に輸入された後、キングズベストの仔を産み落とした。言い換えれば、エイシンフラッシュは持ち込み馬である。

そんな、バリバリのヨーロッパ血統といえるエイシンフラッシュは、2年後、栗東の藤原英昭厩舎に入厩。藤原調教師といえば、自身が大学の馬術部に所属していたこともあり、厩舎スタッフに多数の馬術経験者を揃え、馬術のトレーニングを取り入れていることでも有名である。

それゆえ、後の活躍を考えた場合、特にレースでの折り合いがカギだった若かりし日のエイシンフラッシュにとって、藤原厩舎に入厩したことはあまりにも大きかった。

エイシンフラッシュのデビュー戦は、7月阪神の芝1800m。鞍上には、2歳戦にこの勝負服でお馴染みの、福永祐一騎手が配された。血統表には、欧州では名馬として認知されている馬が数多く記載されていたが、日本ではやや馴染みが薄かったためか、15頭立ての5番人気と評価はさほど高くなかった。

レースでも、道中は中団のまま勝ち馬から0秒5差の6着に敗戦。

全体の成績に比べれば、デビュー戦の成績がやや落ちるのは、藤原厩舎の傾向としてよく知られているが、それは馬を無理に仕上げていない証拠でもあり、馬生全体を考えられてのことでもある。しかし、「新馬戦でダービーを感じた」と、後に藤原調教師が語っているとおり、敗戦の中にも陣営は手応えを感じていたようだった。

そこから3ヶ月の休養に入り立て直されたエイシンフラッシュは、馬体重を8キロ絞り、京都2000mの未勝利戦に出走。見事、初勝利を挙げた。続くオープンの萩ステークスで3着に敗れたものの、12月には、後のダービー馬やGⅠ馬を多数輩出している“出世レース”のエリカ賞を制して2勝目を挙げ、このシーズンを終えた。

陣営の努力が結実し、世代最強馬に

迎えた年明けは、前走から中4週で初の重賞挑戦となる京成杯に出走。ここまで全2勝を挙げた内田博幸騎手が前の週に落馬、負傷してしまったため、このレースでは横山典弘騎手が手綱をとることになった。

レースは、1000m通過が1分3秒2というスローペースで流れた。折り合いに苦労する馬がいる中、エイシンフラッシュも、やや行きたがるところを見せながらもなだめられ3番手を追走。直線では逃げるアドマイヤテンクウと一騎打ちになり、最終的な着差はハナ差だったものの、余裕にすら見える内容だった。そして重賞初制覇を成し遂げたエイシンフラッシュは、賞金面でもクラシックへの出走をほぼ確実なものとした。

成績面ではデビュー戦以外ほぼ順調にきたといえるエイシンフラッシュだったが、次走に予定されていた若葉ステークスは鼻肺炎による熱発で回避。皐月賞に直行する形となった。

そして迎えたクラシック第一弾、皐月賞。

3ヶ月ぶりの実戦が本番ということを懸念されたか、エイシンフラッシュの評価は単勝11番人気と低いものだった。

近年では前哨戦に出走せず本番へ直行というローテーションが一般的になりつつある。しかし当時は、本番直行にまだ良くないイメージがつきまとっていた時代。さらに、グレード制導入後、京成杯の勝ち馬がGⅠを勝っていないこともまた、少なからず影響したのかもしれない。しかし、そんな不利とされるローテーションでも、エイシンフラッシュは大いに見せ場を作った。

平均ペースで流れた道中、やや折り合いに苦心しながらも中団を追走したエイシンフラッシュは、4コーナーで一気にスパート。馬群を割って末脚を伸ばし、最内を突いたヴィクトワールピサには及ばなかったものの、2着ヒルノダムールからハナ差の3着に善戦。十分次に繋がる内容で、クラシック第一弾を終えたのだった。

そして迎えた、競馬の祭典ダービー。

皐月賞へ直行となったエイシンフラッシュにとって、今回が休み明け2戦目となることや、過去2年の勝ち馬が入っていた1枠1番を引いたことなど、追い風となる要素は複数あった。ところが、エイシンフラッシュの単勝人気は7番目でオッズは31.9倍。皐月賞3着馬の評価は、依然として低いままだった。というのも、この年の出走メンバーは『ダービー史上最高』とすら評されていたからである。

この年、3歳牡馬クラシックの前哨戦は、レースごとに勝ち馬が変わっていた。皐月賞の上位馬はもちろんのこと、重賞勝ち馬の大半が出走してきたことに加え、若葉ステークスと青葉賞を無敗で制したペルーサや、名牝エアグルーヴの仔で、プリンシパルステークスを圧勝したルーラーシップも参戦。前日に故障が判明し出走を取り消したものの、NHKマイルカップを当時のJRAレコードで制したダノンシャンティが出走していれば、エイシンフラッシュの人気はさらに下がっていたことだろう。

しかしそんな大一番で、エイシンフラッシュは、その不当な評価をまるで分かっているかのような魂の走りを見せたのである。

ゲートが開き、最内枠から他馬より半歩早いスタートを切ったエイシンフラッシュは、一度中団まで下げ、1コーナーを10番手で回った。2コーナーで早くもペースが落ち着くと、折り合いに苦労する馬が出始め、エイシンフラッシュも行きたがる様子を見せたが、内田騎手は馬を最内に誘導。わざと閉じ込められるようなポジションをとったことで、折り合いをつけることに成功した。

最初の1000m通過は1分1秒6で、平均よりやや遅いくらいだったが、ここからペースはさらに落ちて12秒台後半~13秒台のラップが連発。結果、1400m通過は1分28秒2、1600mの通過が1分41秒1と、歴代のダービーの中でも記録的なスローペースとなった。

そのため、勝負どころの3~4コーナー中間では、18頭が完全にひとかたまりとなり、そのままレースは最後の直線へと入った。

こうなると、そこからは完全な瞬発力勝負となる。
こういった条件を得意とするのは、サンデーサイレンス系種牡馬の産駒かキングカメハメハの産駒。そして好位につけていたネオユニヴァース産駒の皐月賞馬ヴィクトワールピサや、キングカメハメハ産駒のトゥザグローリー、ローズキングダムが一気に末脚を伸ばしてきた。

ところが、それらを上回る素晴らしい瞬発力を駆使し、馬群の中にわずかに開いたスペースを割って伸びる馬がいた。

白帽に、赤地、黒縦縞の勝負服。漆黒の馬体──。
エイシンフラッシュだった。

それは生粋の、そして重厚なヨーロッパ血統を持つ馬とは思えないほどのキレ味。残り200mの標識を過ぎたところで一気に先頭に立つと、後続に1馬身半のリードを取る。

末脚を極限まで温存させ、鞍上の指示が出たら一瞬で反応して末脚を爆発させる。陣営が東京2400mの仕様にするためエイシンフラッシュに施した技術が、ものの見事に発揮された瞬間だった。

ローズキングダムが再びゴール寸前で巻き返してきたものの、内田騎手のダメ押しの右鞭3発に懸命に応えたエイシンフラッシュは、クビ差の一騎打ちを制し見事1着でゴールイン。

『史上最高のメンバー』といわれたダービーで気高き走りを見せたエイシンフラッシュは、見事この大一番を制したのである。鞍上の内田博幸騎手も、リーディングを獲るため……そしてダービージョッキーになるために地方大井からJRAへ移籍してきたと語っていたが、わずか2年でその夢を実現させたのだった。

歓喜から一転、勝ち切れないレースが続く日々

世代最強を決める一戦に勝利したエイシンフラッシュは、二冠制覇を目指して夏場は休養。秋は、神戸新聞杯から始動することとなった。結果は、ライバルのローズキングダムに敗れたものの、タイム差なしの2着。秋初戦を、順調にクリアしたように思われた。

しかし、二冠を狙った菊花賞の直前追い切りで、左トモに筋肉の痛みが出て歩様が乱れ、やむなく回避が決定。ただ、幸いにも症状は軽く、目標はそのままジャパンカップへと切り替えられた。

神戸新聞杯から2ヶ月の間隔を経て迎えたジャパンカップは、エイシンフラッシュにとって古馬との初対戦となるレース。その舞台は、2走前、歓喜の勝利を挙げたダービーと同じ東京の芝2400mである。

この年のジャパンカップで圧倒的な支持を受けたのは、前走の天皇賞秋で5つ目のGⅠタイトルを獲得し、現役最強馬の座を確固たるものとしたブエナビスタ。次いで、凱旋門賞で大健闘を見せながらもアタマ差の2着に惜敗したナカヤマフェスタが2番人気に推されていた。一方、JRA所属の3歳牡馬は4頭出走していたが、それら2頭に続いたのは、ダービーで下したはずのペルーサとローズキングダムで、またしても、エイシンフラッシュはそれらを下回る5番人気に甘んじていた。

レースは、逃げ馬不在の中、本来は差し馬のシンゲンが逃げる意外な展開。当然のようにペースは遅く、エイシンフラッシュもやや折り合いを欠きながら、1コーナーを2番手で回った。その後も先団でレースを進め、迎えた直線。ダービーと同じ瞬発力勝負となったものの、道中の折り合いが影響したか伸びきれず、結果、8着に敗戦。2位で入線したライバルのローズキングダムが、直線不利を受けたことで繰り上がって優勝する姿を、悔しながらも眼前に見守ることとなってしまった。

すると、ここからのエイシンフラッシュは、ボタンを掛け違えたかのように、時に惜しいレースを見せるも、長く勝てない日々が続くことになってしまう。

次走の有馬記念は出遅れが響き、同期のヴィクトワールピサが勝利する姿を前に見て7着に敗戦。結局、3歳の下期を消化不良で終えると、年明け初戦の産経大阪杯も、同期のヒルノダムールに及ばず3着。続く天皇賞春では、道悪となった上に出入りの激しい過酷なレースとなり、十分に見せ場を作ったものの2着に惜敗し、ヒルノダムールに連敗を喫してしまう。

さらに、宝塚記念では勝ったアーネストリーから0秒2差の3着に惜敗すると、ぶっつけで挑んだ天皇賞秋が6着。ジャパンカップも8着と敗れるも、有馬記念では一転、三冠馬オルフェーヴルに4分の3馬身差に迫る2着となり、浮上のきっかけを掴んだように思われた。

しかし、5歳シーズン初戦にして、初の海外遠征となるドバイワールドカップで6着に敗れると、帰国後の宝塚記念が6着。秋初戦の毎日王冠では、ついに過去最低となる9着に敗戦。

気高きダービー馬は、気がつけば2年5ヶ月……実に、12戦も勝ち星から見離されてしまっていたのである。

天覧競馬で魅せた、一つの芸術作品

そんな中で迎えたのが、2012年の天皇賞秋だった。

この年は、古馬最強のオルフェーヴルが凱旋門賞に遠征してり不在。人気は4頭に集中して卍巴となったが、どちらかといえば3歳馬が有力とみられていた。

1番人気は、ダービー2着後にセントライト記念を完勝したものの、菊花賞には向かわずこのレースで初タイトル獲得を目指すフェノーメノ。さらに4月に香港のクイーンエリザベスⅡ世C勝利・宝塚記念2着から直行してきたルーラーシップが続き、この年のNHKマイルカップ制覇・前走の毎日王冠も快勝してデビューから無敗を継続しているカレンブラックヒルが3番人気に推された。

このレースでミルコ・デムーロ騎手と初コンビを組んだエイシンフラッシュは、前年2着のダークシャドウに次ぐ5番人気。とはいえ、上位4頭が単勝オッズで3~5倍台の支持を受ける中、2年半勝ち星のないエイシンフラッシュは16.6倍と大きく引き離されていた。

曇天の下スタートが切られると、予想通りシルポートが逃げの手に出た。やや行きたがったカレンブラックヒルが2番手につけ、フェノーメノが4番手。ルーラーシップはダッシュがつかず、後ろから3頭目を追走していた。

一方、エイシンフラッシュは中団やや後ろの内目を追走していたが、毎度課題となる折り合いは完璧についており、スムーズに流れに乗っていた。前年、驚異的なJRAレコードを生み出すきっかけとなったシルポートは、この日も玉砕覚悟で逃げまくり、前半1000m通過は57秒3のハイペース。大きく離れた中団各馬は、そこからおよそ2秒超の差で1000mのハロン棒を通過した。

さらに、府中名物の大欅を過ぎてから直線に入るまで、後続との差があまりに広がり過ぎたためか、とある中継ではテレビカメラにシルポート一頭だけが10秒ほど映り続ける事態となった。そしてレースは、最後の直線勝負を迎えた。

直線に入るところで15馬身以上あったシルポートのリードは、残り400mを切ってからみるみる縮まりはじめた。追ってきたのはカレンブラックヒルとダイワファルコン。さらに、その後ろから迫ってきたのが、フェノーメノとエイシンフラッシュだった。

しかし、それら4頭の中でも、内ラチ沿いピッタリを矢のように伸びるエイシンフラッシュの末脚は際立っていた。府中の長い直線を、ゴールに向かって真一文字に伸びる黒い閃光は、残り150mで先頭に立つと、最後はフェノーメノに迫られたものの、半馬身差をつけて1着でゴールイン。

2年半も雌伏の時を過ごしたダービー馬は、再び府中の舞台で眩い輝きを放ったのである。

さらにレース後。向正面から戻ってきたミルコ・デムーロ騎手は、おもむろにエイシンフラッシュから下馬して脱帽。スタンドから手を振る天皇皇后両陛下に向かって跪き、最敬礼をしたのである。本来、検量室前まで下馬してはならないというルールが存在しているが、そういったものを超越する、日本の競馬史に残る名場面だった。

最後の直線で、白い内ラチと、真一文字に伸びる黒く美しい馬体が描くコントラスト。そして、最後の敬礼に至るまでの一連の流れは、まさに一つの芸術作品を見ているかのようだった。

その後のエイシンフラッシュは、翌年の香港のクイーンエリザベスⅡ世Cと天皇賞秋で3着となったものの、7戦して勝利したのは毎日王冠の1勝のみ。4年連続の挑戦となった2013年のジャパンカップが結果的に最後のレースとなり、2014年に種牡馬入りを果たした。

今、振り返ってみれば、ダービー以後に勝利したのは2レースだったが、ダービーや天皇賞に抱くファンの記憶や印象は、大変に見栄えのする馬体とともに、27戦6勝という戦績をはるかに凌駕するものとなった。

まさに、記録よりも記憶に残る、名馬エイシンフラッシュという一つの作品。その美しき走りや気高き勇姿は、今も鮮やかに我々のまぶたに焼き付いている。

写真:Horse Memorys

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