ライバルとの激闘と別れ…。メジロベイリーの、短くも濃い現役生活を振り返る。

2022年6月28日、メジロベイリーが繋養先の東北牧場フォレブルーで老衰のため亡くなった。24歳だった。通算成績は7戦2勝。現役生活は、同時にケガとの戦いになったものの、短くも太く、非常に濃いものだった。


名門メジロ牧場が生産した最後のGI馬としても知られるメジロベイリー。ただ、それ以外にも注目される点がいくつかあった。

例えば、血統もそのうちの一つ。メジロベイリーの父は、既にこのとき日本の競馬を席巻していたサンデーサイレンスで、母の父はマルゼンスキーという良血。この血統構成は、メジロベイリーが生まれた1週間後に日本ダービーを勝利するスペシャルウィークと同じだった。

ところで、メジロ牧場といえば「天皇賞を勝つことが一番の名誉」と、創設者の北野豊吉氏が遺言を残した通り、盾獲りこそが信念だった。そして4つ上の半兄メジロブライトも天皇賞・春を制し、メジロの冠号がつく馬としては6年ぶり7度目の、同場の生産馬としては実に16年ぶりの天皇賞制覇を成し遂げていた。

それ故、メジロ牧場の生産馬には、瞬発力やスピードを武器に活躍するサンデーサイレンスの産駒は少なかった。裏を返せば、日本を代表するオーナーブリーダーと、日本競馬を根底から覆したスーパーサイアーがコラボした結果生まれたのがメジロベイリーである。

また、デビュー戦から、後の名馬との激闘が続いたことも印象深い。中でも初戦は、いわゆる「伝説の新馬戦」と呼ばれるほど凄まじいメンバーが顔を揃えた。

この時、1番人気に推されたのが、同じサンデーサイレンス産駒のタガノテイオー。以下、メジロベイリーとドラマチックローズを挟み、ダイイチダンヒルがこの3頭に続いた。そのダイイチダンヒルもまた、サンデーサイレンスの産駒で、近親には重賞勝ち馬のサマーサスピションやローゼンカバリーらがいる良血。後に、皐月賞トライアルの若葉Sを勝利し、ダービーにも駒を進める逸材だった。

そして、極めつけともいえるのが、この時点ではまだ5番人気の評価でしかなかったジャングルポケットだろう。

ジャングルポケットと言えば、翌年のダービー馬であり、その後ジャパンカップも勝利──そしてそれが決め手となって2001年の年度代表馬に輝いた、この世代を代表する名馬である。

レースは、最内枠から好スタートを決めたメジロベイリーが逃げの手に出るも、勝負所で有力馬3頭に並びかけられる厳しい展開。直線に向くと早々に失速し、勝ったジャングルポケットから1秒8差の5着に敗れてしまう。

ただ、このレースの出走馬8頭は、後にすべて勝ち上がり、そのうち4頭がオープンまで出世する超のつくハイレベルな馬たちだった。メジロベイリー自身は、2戦目でもタガノテイオー・ダイイチダンヒルとの再戦に敗れ、初勝利まで4戦を要したものの、その4戦目では、後のダービー3着馬ダンシングカラーを撃破。才能の片鱗を示している。

そして、その才能を、万人の前で存分に発揮したのが続く5戦目。GIの朝日杯3歳Sだった。

フルゲート16頭に対して、20頭を超える馬が登録していたこのレース。抽選は13分の4という狭き門で、もちろん、初勝利を挙げたばかりのメジロベイリーもその1頭だった。

しかし、メジロベイリーは、この第一関門を見事に突破。単勝40倍の伏兵ながら、スタート地点に立つことを許されたのである。

一方、1番人気に推されたのは、デビュー戦と2戦目で対戦し、いずれも先着を許していたタガノテイオー。「伝説の新馬戦」2着後、2戦目でしっかりと勝ち上がり、札幌3歳Sでも再びジャングルポケットの2着に好走。そして、4戦目の東京スポーツ杯3歳Sを快勝し、このレースに臨んでいた。

僅差の2番人気となったのが、デビューから2連勝の外国産馬エイシンスペンサー。以下、オープンのクローバー賞で初勝利を挙げたウインラディウス、地方・水沢のネイティヴハート、そのネイティヴハートを京王杯3歳Sで破ったテイエムサウスポーの順で、人気は続いた。

レースは、メジロベイリーの好スタートで幕開け。しかし、快速馬カルストンライトオがすぐさまそれを制して逃げ、そこへジーティースマイルとテイエムサウスポーが絡んでいく展開。ペースは必然的に上がり、中山のマイル戦らしい厳しい流れとなった。

メジロベイリーは一旦5番手まで下げ、その1馬身後ろにタガノテイオー。さらに、エイシンスペンサー、ネイティヴハート、ウインラディウスが直後につけ、虎視眈々と前の様子を窺う。

ペースはその後も落ちることなく、勝負所で、ネイティヴハートとエイシンスペンサーがまくり気味に進出して迎えた直線。メジロベイリーの横山典弘騎手は、外に進路を取ろうとするもネイティヴハートに塞がれて出ることができず、馬群の中に突っ込むことを決断する。

──すると、ちょうど前が開き、残り100mからはタガノテイオーとの一騎打ちが展開された。

初のビッグタイトルに向け、負けられない両雄。先んじてゴールに駆け込もうとするタガノテイオーと、懸命に追うメジロベイリーの叩き合い。

しかし、最後の最後。メジロベイリーが、まるで「三度目の正直」という言葉を分かっているかのようにもう一段ギアを上げ、僅かの差で前へ出たところにゴールがあった。

アイネスフウジン以来となる、未勝利戦1着からの下剋上を成し遂げたメジロベイリーは、見事にこの世代最初のGI馬に輝いたのだ。

素晴らしいマッチレースの末、3度目にしてライバルに雪辱を果たし、同じ父を持つ者同士、これから何度も至高の名勝負が見られるかと思われたのだが──。

運命とは、なんと残酷なものか。

実はゴール前200mで、タガノテイオーの左後脚は悲鳴を上げていたのだ。

左第1趾骨粉砕骨折。

レース中、異変に気付きながらも追い続けた藤田伸二騎手は、ゴール後すぐに下馬したものの、残念ながら予後不良の診断が下ってしまった。

文字どおり、死力を尽くしてゴール板を駆け抜けたタガノテイオー。しかし、春のクラシックで再び見られるかと思われた両雄の対決は、互いの健闘を讃えあうことも許されぬまま、突如として終わりを迎えたのである。

そして、この勝利により、2000年のJRA賞最優秀3歳牡馬(現・最優秀2歳牡馬)に選出されたメジロベイリーにも、辛い現実が待ち受けていた。

皐月賞を目標に調整されている過程で骨折を発症し、やむなく春のクラシックを断念すると、その後、脚部不安も発症。休養は長期に及び、このシーズンを棒に振ってしまったのである。

復帰が叶ったのは、朝日杯3歳Sから実に1年2ヶ月も後のこと。オープンの白富士Sが、その舞台だった。

しかし、さすがにここは本来の走りが披露できず、デビュー以来最低となる13着に大敗。それでも、次走の大阪城Sで4着に好走し、再び表舞台へと返り咲く準備は整ったかに思われたのだが──。

さあこれからというときに、今度は競走馬にとって不治の病ともいわれる屈腱炎を発症。2度目の休養は2年以上にも及び、回復が待たれたものの、2004年10月。ついに引退が発表された。

その後、青森県の諏訪牧場で種牡馬入りしたメジロベイリーは、2009年からビッグレッドファームに移動。さらに、2012年からは、結果的に終の棲家となる東北牧場へ移り、2017年に種牡馬を引退。引退名馬繋養展示事業の助成対象馬となり、余生を過ごしていた。

父として、JRAの重賞勝ち馬を出すことはできなかったが、それでも数少ない産駒の中から、中京記念2着のアルマディヴァンとグレートチャールズがオープンまで出世。さらに、ウィードパワーとヴェリイブライトが、地方重賞を勝利している。

7戦2勝の成績以上に、競馬ファンの脳裏にしっかりと刻み込まれているメジロベイリーの記憶。実働は1年にも満たなかったが、短くも濃い現役生活と存在感は、数多の名馬が誕生した98年生まれ世代の中でも、いまなお輝きを放ち続けている。

先に逝ってしまった、永遠のライバル・タガノテイオー。そして、新馬戦で激突したジャングルポケットや、対戦が叶わなかったアグネスタキオンにクロフネ。さらにはマンハッタンカフェといった同期とのドリームレースは、今頃、発走の刻を迎えていることだろう。

写真:かず

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