桜の季節に笠松を想う。~1994年桜花賞・オグリローマン〜

笠松駅は、名鉄名古屋本線の岐阜寄りに位置する。

名古屋駅から名鉄特急岐阜行きに乗ると、地下ホームから発車した電車はトンネルの暗闇を通って、すぐに明るい地上に出る。
左側を並走する東海道新幹線を横目に、名鉄特急はぐいっと右へカーブしていく。

ほどなくして庄内川を渡ると、沿線がそのまま生活導線になっているような街並みを駆ける。
例年2月に行われる「はだか祭」で有名な国府宮駅、そしてJR東海道本線と合流する名鉄一宮駅を通り過ぎると、電車は雄大な木曽川に架かる陸橋に差し掛かる。
その陸橋を渡ると、すぐに砂のトラックコースと黄色と青のスタンドが見えてくる。

岐阜県羽島郡笠松町に位置する、笠松競馬場である。

「名馬 名手の里 ドリームスタジアム 笠松けいば」

車窓から見えるその看板に偽りなく、この小さな郷の地方競馬場である「笠松」の名は、日本競馬史において、決して小さくない意味を持つ。

笠松競馬場は、桜の美しい競馬場である。

木曽川の堤防沿いにあり、桜の季節には1コーナー奥から2コーナー、そして向こう正面と、その1周1,100mのコースを覆うように、桜が咲き誇る。
満開の桜の下を、サラブレッドが疾走する姿は美しく、絵になるものだ。

さらに競馬場から歩いてすぐ近く、木曽川の堤防沿いには、奈良津堤とよばれる桜の名所もある。
かつて千本桜とも呼ばれ、「飛騨・美濃さくら三十三選」に選ばれているこの名所は、ソメイヨシノが1kmほどに渡って咲き誇り、滔々と流れる木曽川とともに絶景を成している。

その桜の美しい笠松競馬場から、過去には、日本競馬史に残る名手・名馬が幾度となく輩出され、咲き誇ってきた。

初めて地方競馬から中央競馬に移籍し、その剛腕でキングカメハメハ、ダイワスカーレット、ブエナビスタなど数々の名馬を栄光に導いてきた安藤勝己騎手。
その安藤元騎手の後に、同じく笠松から移籍して活躍している柴山雄一騎手。

1995年、報知杯4歳牝馬特別における衝撃の末脚で、中央・地方交流元年を印象付けたライデンリーダー。
同じように、笠松から中央へと偉大な挑戦を続けた、レジェンドハンターやラブミーチャン。
その逆に中央から笠松に移籍し、多くの交流競走を制し、イナリワンを撃破し、果ては帝王賞まで制覇したフェートノーザン。

──そして、何より。

かつて昭和の終わりから平成の初めにかけて、ハイセイコー以来の第二次競馬ブームの熱狂を巻き起こした怪物・オグリキャップ。

時代を越えて、多くの名馬・名手が、この笠松から日本競馬史を美しく彩ってきた。

かつて、そんな桜の美しい笠松競馬場から中央に挑戦し、仁川で見事に桜の女王に戴冠した牝馬がいた。

その牝馬、オグリローマンは、北海道三石町の稲葉牧場で1991年に生を受けた。

父は、アメリカからの輸入種牡馬であるブレイヴェストローマン。
ダートの活躍馬を多く輩出するが、時にオークス馬・トウカイローマン、二冠馬・マックスビューティーなどの芝の名牝も送り出していた。

母はホワイトナルビー、その12番目の仔であった。
稀代のアイドルホース・オグリキャップはホワイトナルビーの6番仔であり、父はダンシングキャップであるから、オグリローマンはオグリキャップの半妹になる。

そんなオグリローマンは、兄・オグリキャップと同じ笠松競馬の鷲見昌勇厩舎に入厩し、デビューを果たす。
3歳7月のデビューから、年内で7戦を走って6勝。その戦績から、兄と同様に笠松から中央へ挑戦するため、1994年初頭に笠松から中央競馬の瀬戸口勉厩舎に転厩してきた。

中央初戦は、1994年2月19日のオープン特別のマイル戦、エルフィンステークスが選ばれた。

鞍上には、武豊騎手。兄・オグリキャップの伝説のラストランの手綱を取った武騎手は、その妹の手綱からどんな素質を感じていたのだろうか。

しかし、初めての芝のレースに戸惑ったのか、オグリローマンは先行策を取るも9頭立ての最下位に沈んでしまう。

それでも、鞍上に田原成貴騎手を迎えた1か月後のGⅢ・チューリップ賞では、最後方から脚を溜めて差す競馬で変わり身を見せ、アグネスパレードの2着と好走する。
上り3ハロン35秒9は出走馬のなかで最速を記録し、芝への対応力を見せた走りだった。

そして、4月10日。
桜の咲き誇る仁川でクラシックの栄誉を競う、第54回桜花賞を迎える。

兄・オグリキャップは、笠松から転厩した際にクラシック競走への登録がなく、また当時は追加登録制度もなかったため、皐月賞、日本ダービーを走ることすら叶わなかった。

稀代のアイドルホースだった兄が、出走することすらできなかったクラシック競走。
同じ芦毛の妹・オグリローマンが、その舞台に立とうとしていた。

満開の仁川の桜をバックに、ゲートが開く。

2006年に改装される前の阪神競馬場は、外回りコースがなかった。
なかでもマイル戦は、1コーナー奥の切込みからスタートし、すぐに2コーナーに差し掛かるというトリッキーなコース。そのため、多頭数で施行される桜花賞においては、2コーナーまでの激しいポジション争いからハイペースになることが多く、当時は「魔の桜花賞ペース」として、数々の逃げ・先行馬を潰してきた。

武豊騎手に手綱が戻り、3番人気に支持されていたオグリローマンは、1枠1番の最内からのスタートだった。
最短距離を走れる半面、18頭立ての多頭数では内に包まれる危険性も孕む、難しい枠順だ。

武豊騎手は、やわらかく、やさしく──そして速く、スタートを決めた。
難しいことを難なくやってのける、名手が名手たる所以のような、見事なスタート。

先手を主張する岡部幸雄騎手のメローフルーツ、スリーコースと岸滋彦騎手、大崎昭一騎手のツィンクルブライドを前目に見ながら、オグリローマンは中団のポジションを確保する。
エルフィンステークスを勝ち、1番人気に支持されていたローブモンタンと田原成貴騎手は12番の外枠から4番手あたり、2番人気の柴田善臣騎手のノーザンプリンセスは馬群のちょうど中団あたりを追走している。

前半の800mは47秒2と、やはり例年通りのハイペースで流れ、満開の桜の3コーナーをカーブしていく。勝負の4コーナーから直線に差し掛かるところ、武豊騎手はオグリローマンをバラけた馬群の外に持ち出していく。

逃げ込みを図る先行集団。
最内からツィンクルブライド、真ん中からメローフルーツ、そして外からローブモンタント、3頭の叩き合い。

内からツィンクルブライドが抜け出したと思われた刹那、芦毛の馬体が大外から飛んできた。

オグリローマン。

一頭だけ、脚色が違った。
測ったかのように、その末脚はゴール寸前の残り20mもないであろう地点で、すべてを吞み込んでいた。

その末脚は、芦毛の毛色とも相まって、兄・オグリキャップを彷彿とさせた。
タマモクロス、スーパークリーク、イナリワン、バンブーメモリー、ホーリックス……歴戦のライバルたちを追い詰め、どんな絶望的な状況からでも追い込んできた、根性の末脚。

オグリローマンの豪脚に、その面影を見た。

オグリローマン、1着。
ハナ差の2着にツィンクルブライド、さらに1馬身1/4離れた3着にローブモンタント。

地方競馬出身馬としては、初の桜花賞制覇。
クラシック全体で見ても史上6頭目であり、牝馬では昭和26年にキヨフジがオークスを勝って以来43年ぶり、2頭目の快挙だった。

桜の美しい笠松競馬場からやってきたオグリローマンが、桜の女王の座を勝ち取る。
クラシックの舞台に立てなかった兄譲りの、強烈な末脚で。

それが、なんとも美しかった。

ウイニング・ランの頭上では、仁川の満開の桜が、咲き誇っていた。
遠く離れた笠松でも、同じように満開だったのだろうか。

オグリローマンは、クラシック二冠目のオークスでは1番人気に支持されるも、チョウカイキャロルの12着に惨敗。その後、4戦するもすべて着外と、桜の下で見せた輝きを取り戻すことなく、怪我により引退した。

引退後は生まれ故郷の稲葉牧場に戻り、母としても10頭の産駒を送り出してきたが、2015年3月に心不全のため永眠。その底力にあふれる血は、脈々と受け継がれ、2019年の秋華賞にはオグリローマンの孫となるローズデソーロが出走し6着に入るなど、いまだ広がりを見せている。

稀代のアイドルホースだった兄が立つことが叶わなかった、クラシックの晴れ舞台。
その舞台で、兄譲りの豪脚を披露し、戴冠したオグリローマン。

桜の美しい笠松競馬場で走り、仁川の桜の下でも大輪の花を咲かせた名牝だった。


その笠松競馬場は、2021年4月現在、開催自粛となっている。

日本競馬史に残る名手、名馬を輩出してきた競馬場は、公正競馬の毀損という甚大な問題の前に、大きく揺れている。

麗らかな春の空の下、あの美しい桜に包まれながら開催される笠松競馬は、戻ってくるのだろうか。

それは、時の判断に委ねるほかないのかもしれない。

ただ、それでも。

それでも、桜の下で輝いたオグリローマンの走りを、忘れないでいようと思う。

写真:大嵜直人、かず

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