今日も涼しい顔をして〜私にとっての永遠のヒーロー・ビワハヤヒデ〜

2017年11月6日、私は北海道で1頭の年老いたサラブレッドを眺めていた。

ビワハヤヒデ。
1993年のJRA賞年度代表馬である。
彼のおかげで競馬を知り、のめり込んでいった私にとってそれは初めて目の当たりにする『永遠のヒーロー』の姿であった。

10年ほど前、当時中学生だった私はとあるゲームがきっかけで競馬に興味を持ち始めた。
同級生は車やバイクなどに興味を持つ年頃であったが、何故か私はその興味の対象がサラブレッドだった。
とっかかりは「人と同じではつまらない」というひねくれた気持ちだったかもしれない。
しかし元来凝り性な私は、興味を持つととことん追求したくなる。そしてそれは、競馬に対しても例外ではなかった。

過去のレース動画を漁り、競馬関連の書籍を読んだ。その時に買った本たちは今でも私の机を埋めている。

中学生なりに努力をし、浅はかではあったが競馬を勉強していくにつれ、日に日に競馬の魅力に取り憑かれていった私は、1頭のサラブレッドに出会う。

それが、ビワハヤヒデである。

「速さに秀でるように」と付けられたその名は一切の無駄が削ぎ落とされた、まさに武士のような古風な勇ましさが感じられた。
そして、その勇ましい名前にふさわしい『小細工なしの先行押し切り』の競馬スタイルに、日に日に心惹かれていった。

「この馬をもっと知りたい」
競馬ファンから、1頭の馬のファンになった瞬間だった。

ビワハヤヒデの魅力は何かと言われれば──ちょうど彼自身が持つ芦毛のような、どこか薄暗いような地味さにあると思う。
デビューから強い勝ち方で3連勝するも、肝心の朝日杯はエルウェーウィンの2着に敗れた。
クラシックに進むと、皐月賞では大本命ウイニングチケットを競り落としたかと思えばナリタタイシンの豪脚に敗れた。
ダービーではそのナリタタイシンは抑え切ったが、今度はウイニングチケットの魂の走りに半馬身だけ屈した。そして3歳春、ついに栄光には手が届かなかった。

ひと夏越えて秋、1番人気で迎えた菊花賞は5馬身差のレコードタイで完勝。夏の雪辱を果たしたが、有馬記念では後続を突き放しながらも、ただ1頭トウカイテイオーに交わされ2着に甘んじた。
さらにこの年の安定した成績を評価され、GⅠ1勝ながら年度代表馬に選出されるも、GⅠ2勝のヤマニンゼファーを抑えての選出は賛否を呼んだ。

明け4歳の翌年は無類の強さで連勝を続け、古馬筆頭の地位を確立しながらも、天皇賞(秋)で故障発生、そのまま引退。

その年のクラシック二冠を圧倒的な強さで制していた半弟ナリタブライアンとの兄弟対決は夢と消えたうえに、その翌週に行われた菊花賞でそのナリタブライアンがクラシック三冠を達成。さらには前年にビワハヤヒデが樹立したレコードをいとも簡単に更新されてしまった。

兄弟の関係性は完全に決着し、「ビワハヤヒデの弟」から「ナリタブライアンの兄」と呼ばれるように変わってしまった。

何かと華やかさには欠けるビワハヤヒデだが、その競走成績は極めて優秀なものなのである。
結果としてラストランとなった天皇賞(秋)を除いて、デビューからの15戦連続連対は中央競馬においてシンザン(19戦連続連対)に次ぐ史上2番目の大記録である。
その勝ち鞍も1400〜3200mと非常に幅広く、さらに2歳時のもみじS・デイリー杯、3歳時の菊花賞、4歳時の宝塚記念と、実に4度のレコードが含まれている。

「今日も涼しい顔をしてビワハヤヒデ1着!」

これは1993年の宝塚記念、ゴール前での杉本清氏の名実況であるが、これはまさに彼を象徴するような言葉であると思う。
強い勝ち方をしながら、どこか素朴で地味で淡々としているその姿は、人々にある種の諦めのようなものを与えた。

概して日本の競馬ファンはゴールドシップなどに代表されるように、圧倒的な強さと脆さが共存したようなハラハラドキドキするような馬を愛する傾向にある。
その中でビワハヤヒデのような安心感のある安定した抜け目のない強さというものは、どこか人気になりにくいのかもしれない。
ちょうどかつて、シンボリルドルフよりミスターシービーの方が当時は人気があったという構図を連想する。

しかし、あえて繰り返すが、彼の競走成績は極めて優秀なものなのである。
その馬体のようないぶし銀に「速さに秀でる」という武士のような荘厳な名前、地味で淡々としながら他馬を寄せ付けない確実な強さ──これが、ビワハヤヒデ最大の魅力であると私は考える。

もう1つ彼の魅力をあげるとすれば「その物語が完結せずに幕引きしたこと」にあると思う。
今もなお「史上最強の兄弟」と謳われることのあるビワハヤヒデとナリタブライアンの直接対決は、あと僅かのところで、ビワハヤヒデの故障引退によって実現せずに終わった。
結果としてナリタブライアンが有馬記念を制するわけだが、もし兄弟対決が実現したのなら、その結果はどのようなものだったのだろうか。

ビワハヤヒデが横綱相撲で完封しただろうか、それともやはりナリタブライアンがスケールの違いで突き放したのだろうか──。

無事であれば翌年の天皇賞で、宝塚記念で、ジャパンカップで、またもしかすると世界の舞台で、あの兄弟が凌ぎを削るなんていう未来があったのだろうか。
その答えは出ないまま、誰も知らぬまま過去に消えたのである。

「もし〜たら……」
「もし〜れば……」

こうした『タラレバ』は競馬の禁句であると同時に、競馬の枕詞であると私は思う。
競馬ファンは、それが叶わぬことと知っていながら、各々の心に浮かぶ馬の実現できなかった続きの話を語り合う。
私もその例外ではない。

「もしビワハヤヒデが無事であったなら……」

そしてあの日、私は日西牧場にいた。
何度も競走馬のふるさと案内所に確認の電話をかけ、やっとの思いで辿り着いた。
そこにいたのは年を重ね、力強さも迫力もなくなった1頭の芦毛のサラブレッドだったが、その姿は間違いなく、画面の向こう側にいた『永遠のヒーロー』そのものだった。
季節は初冬、11月の北海道である。雪こそ降っていなかったが気温は1桁だったに違いない。
しかし私は寒さも時間も忘れ、ただただ彼を見つめていた。

頭の中にはあの菊花賞が、天皇賞(春)が、宝塚記念が、幾度となく流れていた。

そんな私の気持ちなど知るはずもないビワハヤヒデは、広い放牧地の中をのんびりと自由に歩き回り、疲れればその場に寝そべって気持ち良さそうな顔をするのである。

あっという間の2時間だった。
見学時間の目一杯まで彼を眺め続けていた。

「最後にもう1度、写真を撮って帰ろう」

そう思ってレンズを覗くと、彼がこちらを見つめていた。

「なんだ坊主、もう帰るのか。またな」

そんなことを言ってくれたのだろうか。
卒業式の時、恩師に「これからも頑張れよ」と肩を叩かれたちょうどその時に湧き上がる感情に、よく似ていたものが心を満たしていった。

私は、ビワハヤヒデに深く一礼していた。

自然と身体が動いた、というよりは明確な意思を持って、そうせずにはいられなかったという方が正しいだろう。
「彼に今、最大級の敬意を持って、お礼を言わなければならない」
そう、強く思った。

競馬の神様がいたならば、それから起こる未来を案じて私に「そうしろ」と教えてくれたのかもしれないと、今になってそう思うことがある。

ビワハヤヒデに出会って、競馬を知った私はもっと馬を知りたいと思うようになり、高校を卒業してすぐ乗馬を始め、大学入学後はそのクラブですぐアルバイトを始めた。
大学4年間、乗馬馬であれどその身近で馬に触れ実際に経験したことは、強い馬の動画を見漁るよりも遥かに刺激的で幸せに溢れたものだった。

大学4年生になった2018年の1年間では、中央・地方競馬含めた全25場を1人で旅した。
これまで携わってきた馬たちが、競走馬の誇りをもって戦い抜いてきたその舞台を、この目で実際に見てみたいと思ったからだった。
そして一介の会社員となった今も、応援してる馬が出走となれば予定を合わせて競馬場で応援する日々である。

競馬のカッコ良さも、面白さも、切なさも、命の尊さも、血の重みも全てビワハヤヒデに教わった。
私はそれを無駄にしないようにと、今も日々、馬の勉強をしているつもりだ。

そして、そう遠くないいつの日か、引退競走馬や功労馬の支援に携わりたいと思っている。
サラブレッドへの責任と、恩返しのつもりだ。

不法侵入者によってタテガミが切られてしまった事件によって、日西牧場は今後一切の見学を断る方針を明らかにした。
もう2度と彼に会うことは叶わなくなってしまったが、穏やかに長生きしてくれるのならそれも良かったのかなと思う。

「もしまたビワハヤヒデに会えたなら」
もちろんそう思うこともあるし、まだまだお礼をたくさん言って、たくさん写真を残しておきたかった。
それでもきっと「その物語が完結せずに幕引きしたこと」が彼の魅力の1つであるのだとすれば……そしてタラレバが競馬の枕詞であるとすれば、この別れ方も正解の1つなのだと思うことができる。

これからも私は、ビワハヤヒデに教わったことを胸に留め、彼への感謝を忘れず、一生懸命に一途にサラブレッドを追いかけていこうと思う。

そんな私の決意など知らぬまま、彼は今もきっと北の大地で佇んでいるだろう。
もちろん『今日も涼しい顔をして』。

写真:かず、さねちか

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