忘れられない、1999年オークスでの出来事〜私がウメノファイバーを応援した理由〜

馬券運と恋愛運は、反比例する。

若い頃、こんな法則があるのではと、競馬仲間と話していた。つまり、競馬も恋愛も両方が上手くいくということは極めて稀で、どちらかが良ければどちらかが悪くなってしまう。

もちろん、科学的な根拠なんてあるわけがない。強いて挙げるなら「博打と恋愛と両方で良い思いをするなんて虫が良すぎる」と神様の逆鱗に触れてしまうからかもしれないが、案外と核心を突いている言葉だと私は思っていた。

けれど1999年のある時期に、この法則が崩れるときがやって来るのである。

この年の牝馬クラシック路線は百花繚乱だった。

前年末に、デビューからわずか28日でGⅠレース(阪神3歳牝馬ステークス)を制したスティンガーは天才少女と呼ばれ、藤沢和雄厩舎というブランドも後押ししたのか桜花賞でも1番人気に支持された。けれど、ステップレースを使わずぶっつけで臨んだ大一番で大出遅れを演じてしまい、12着と大敗する。

牝馬クラシック最初のタイトルを制したのは、プリモディーネ。福永祐一騎手に、初のクラシック制覇をもたらした。桜花賞2着馬のフサイチエアデールも、重賞を2連勝した実力馬。3着だったトゥザヴィクトリーは、オークスでは武豊騎手を鞍上に配して必勝体制を敷いていた。 

そんな混戦模様のオークスで、私はウメノファイバーを本命に推していた。北海道で新馬勝ちを収め、京王杯3歳ステークス(当時)を優勝。年が明けた2月にクイーンカップを制して重賞2勝目を挙げたものの、オークスでは7番人気に甘んじていた。

人気を落としている要因は、前年暮れの阪神3歳牝馬ステークスや桜花賞といったG1競走で、ワンパンチ足らない結果に終わってしまったこと。また、ウメノファイバーの血統も人気薄の一因だろうと感じていた。

ウメノファイバーの父であるサクラユタカオー自身は、2000メートルの天皇賞(秋)を勝っているものの、産駒はスピードに勝ったタイプが多く、代表産駒であるサクラバクシンオーのイメージが強かったのかもしれない。 

実際、レース前には「ちょっと距離が長過ぎる」といった意見が多かった。もちろん私自身も、ウメノファイバーにとってオークスの舞台が最適であるとは思っていなかった。

ただ、確かに距離はもう少し短い方が良いにしても、2度の重賞勝利はどちらもオークスと同じ東京コースで挙げていたし、その相性をもってすればG1の壁も距離も克服出来るだろうと考えていた。

そしてもう一つ、ウメノファイバーを推す理由が私にはあった。

時計の針をそこからさらに2年ほど戻した1997年に、ちょっと変わったクラス会が開催された。それは、私が小学校のときに通った塾のクラス会だった。

発起人と幹事は兼務されていたのだが、その役を仰せつかっていたのは当時浪人生活を送っていた自分だった。義務教育として通った小学校や中学校ならアルバムをたどって連絡を取ることができるかもしれないが、それとは違う塾というカテゴリでクラス会を企画したのだ。小学生の当時、私立中学を目指す自分が在籍していたクラスには8人の生徒がいたのだが、連絡が取れてこの集まりに参加したのは5人だった。

そのうちのひとりが、みんなからウメちゃんと呼ばれていた女の子だった。小学生のころはメガネをかけて地味な存在だった彼女も、再会した時はコンタクトレンズに変え、うっすらと化粧を施し、年相応のカワイイ女の子になっていた。そのクラス会を機に私はウメちゃんと連絡先を交換して、頻繁に遊ぶようになった。

最初は気楽に飲みに行く仲間が増えたと思っていたのだが、次第に私自身がウメちゃんに対して恋心を抱くようになった。何がキッカケかもう覚えてないが、彼女と居るときに居心地の良さを感じるようになっていた。

けれど、ウメちゃんは私の気持ちになかなか応えてくれなかった。こちらが意を決して自分の気持ちを伝えたものの

「うーん……。ごめん、友達としか見ることが出来ないよ」
「今のこのままの関係じゃダメかな?」

と言って、なかなかカノジョになってくれなかったのだ。それでもフラれた後も諦めきれず、翌年もう一度告白をしたものの、色好い返事は返ってこなかった。あまりにしつこい態度を取ってしまうと友達という肩書きすら失ってしまうので、そうならないよう適度な距離感を保ちながら、ウメちゃんとの関係性を続けていった。

お互いに時間があるときは電話で夜中まで話をしたり、ごはんを食べに行くこともあった。そして、私の得意分野でもある競馬に一緒に行ったことも、何度かあった。この当時、ウメちゃんは競馬ゲームの『ダービースタリオン』に熱中しており、電話しながら

「奇跡の血量って何?」
「どうしても皐月賞が勝てない。ローテーションは、どうすれば良いの?」

などなど、競馬の質問をしてくることが多々あった。当時はまだインターネットが今ほど普及していなかった時代。今ならWebで攻略法を調べられるかもしれないが、私がウメちゃんの競馬の講師として、いろんなことを教えていた。

そして1999年のオークスがあと数日に迫ったある日のこと。いつものようにウメちゃんと電話しながら、私はこんなことを言った。 

「今度の日曜日にオークスがあって、そこにウメノファイバーって馬が走るんだよ。その馬から買おうと思っているけど、ウメちゃんも買ってみる?」

ウメノファイバーがどんな成績を残してオークスに臨むのかを聞いてきたので私はこの馬のプロフィールを簡単に説明すると、こんな言葉が返ってきた。

「お父さんはサクラユタカオーでしょ?東京の2400メートルは、やっぱり距離が長いと思う」

いっぱしの競馬ファンのような意見をウメちゃんが言えるようになったのは嬉しい反面、ウメちゃんと一緒にウメノファイバーを応援することが出来ないのは正直、残念だった。

でも初志貫徹、ウメノファイバーからの馬券を買うためにオークス当日は、ウインズ後楽園に足を運んだ。

普段はあまり重要視しないパドックでも、この日はモニター越しに18頭の馬を見ていた。

自分の予想に自信を持たせるため、ウメノファイバーは桜花賞からのデキ落ちは無いと、心の中で何度も言い聞かせる。ウメノファイバーの単勝と複勝、そしてウメノファイバーを軸にした馬連流しの馬券を買って、レースのスタートを待った。

ウメちゃんへの三度目の告白をするか否か、悩んでいたことがあった。自分が我慢さえすれば友達という肩書きでずっと近くに居られる。でもウメちゃんのことをカノジョとして自分の友達に紹介もしたいし、もっと深い関係になりたいとも思っていた。

“そうだ!もしウメノファイバーが勝ったら、もう一度だけウメちゃんに告白をしよう”
“もしウメノファイバーが負けてしまったなら、ご縁がなかったと、キッパリ諦めよう”

ウメノファイバーにしてみれば良い迷惑だったかもしれない。お金だけでなく、どこぞの男の恋愛まで賭かっていることなんて知るはずもなく、文字通り馬耳東風といった表情で16番ゲートにウメノファイバーは身を収めて、レースが始まった。

この時期の牝馬には過酷といわれる距離だけに、無謀な先行争いはなく淡々としたペースでレースは流れた。ウメノファイバーは脚を溜める作戦で後方待機。それは想定の範囲内だったが、もし仮に脚を余して負けたらそれが一番悔しいだろうと想像していた。けれど、前年のジャパンカップをエルコンドルパサーで制し、このオークスの約4ヶ月後の凱旋門賞では2着となる蛯名正義騎手に、そうした隙はなかった。

これ以上無いという最高のタイミングで、最後の直線で追い始める。

その手綱さばきに応えるようにウメノファイバーはグングンと末脚を伸ばして前を走る馬を交わしていき、ついに残るはトゥザヴィクトリーだけとなった。

「エビナ!いけ!エビナ!差せ!!」

ウインズ後楽園B館の6階フロアに、私の絶叫が轟いた。そんな声援が届いたか、ゴール直前、トゥザヴィクトリーをハナだけ交わしたところがゴールだった。

自分の本命馬が見事に勝利して、ささやかながら配当も手にすることができた。けれど、予想的中の喜びと同時に、私はウメちゃんに三度目の告白をしなければならない、という状況にビビっていた。ウインズ後楽園でこのオークスの馬券を換金する列に並びながら「またフラれてしまったら、どうすれば良いのだろう……」と不安が頭をよぎる。

ましてや、競馬運と恋愛運は反比例するというジンクスもある。自信はなかったけれど、オークスの蛯名正義騎手のように腹を括った私は、ウメちゃんへの三度目の告白を敢行することを決意した。

ウメノファイバーが勝った二週間後、馬券で儲けたから食事にでも行こうと、私はウメちゃんを誘い出した。本当は馬券で浮いた分は、翌週の日本ダービーで全て吐き出していたのだけど、奮発して高級なイタリアンのお店を予約した。

「ウメノファイバーに乾杯!」

一杯目のグラスを僕とウメちゃんはぶつけ合った。

この乾杯の数時間後、晴れて恋愛は成就した。

私もウメノファイバー同様、3度目の「GⅠ挑戦」でようやく結果が出すことができた。この日から「ウメちゃん」を呼ぶときはニックネームではなく、下の名前を呼び捨てで呼んでも怒られない立場になった。

写真:かず

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