[インタビュー]障害G1騎手から、ケンタッキーダービー遠征馬のパートナーに。高野容輔助手に伺う、過去現在そして未来

2022年5月には日本馬クラウンプライドも出走した、アメリカ競馬の最高峰・ケンタッキーダービー。馬券発売もされたことで日本国内でも高い注目が集まりましたが、クラウンプライドの前にこのレースに日本馬が出走したのは2019年のことになります。挑戦したのは、栗東・角田晃一厩舎のマスターフェンサーでした。

現地でマスターフェンサーに調教をつける高野助手(撮影:高橋由二)

この馬の身の回りの世話をし、アメリカ遠征にも帯同したのは高野容輔(こうのようすけ)助手。約9年間の騎手人生で通算50勝を挙げられ助手に転身された高野助手に、その半生とアメリカ遠征の思い出を伺いました。

(※本インタビューは、リモートにて実施いたしました)

有馬記念がきっかけで、ジョッキーを志す

1983年10月29日に、兵庫県揖保川町(現・たつの市)で生を受けた高野さん。父と母、そして姉1人という家庭で育ちましたが、競馬とは全く無縁の環境だったと言います。

小学4年生当時の高野さん

そんな高野さんが競馬に興味を抱いたのは、とあるテレビ中継でした。

「偶然、シルクジャスティスが勝った有馬記念を観ました。それまで競馬に関わる人たちは"年配のちょっと怖い人"だと思っていましたが、勝利インタビューを受ける藤田伸二騎手は若いし格好良くて、憧れました。競馬へのイメージが、覆されました!」

そしてもう1つ、高野さんを競馬の世界に導いた偶然が、当時住んでいた街で配られた地域紙にあったそうです。

「隣町に住む1学年上の人が競馬学校の騎手課程に合格した、という記事がありました。同じように乗馬経験がなく、背が低い自分ももしかしたら可能性があるのではないか?と思いました」

その先輩とは、今も現役で騎手を続けている小坂忠士騎手。現在では合併しどちらのご出身もたつの市に。2年続けて、同じ地域から騎手が誕生したのでした。

競馬学校時代の1枚。18期生としてデビューしました

2002年3月に騎手デビューを果たした高野さんの初勝利は、同年6月30日の阪神競馬場での最終レース・ダート1400m戦でのウエスタンデンコー。

「前が壁になってしまっていたけど、それが開いてガムシャラに追ったら勝っていました」と振り返るように、4コーナー11番手からの追い込みで初勝利を挙げると、このデビュー年は5勝。

「僕がレースで馬を勝たせたことによって、喜んでくれる人の顔を見るのが嬉しかったです!」

2003年は17勝、その翌年は18勝と順調に勝ち星を積み重ねていきますが、2005年以降は落馬によるケガで戦線を離脱することも増えてしまいます。かつては自分が手綱を取ってレースを勝たせた馬たちが、他の騎手に乗り替わって重賞レースを賑わせたこともありました。

「騎手時代に辛かったのは、ケガをしてレースに乗れないことでしたね。今になって振り返ると、ケガをしてしまったのは自分の技術不足だったと感じることもあります。助手に転向してからの方が騎乗の技術が向上したと思いますが……。自分が障害未勝利を勝たせたナムラリュージュやアズマビヨンドは後に障害重賞を勝ちましたけど、あのまま自分が乗り続けても重賞を勝たせてあげられていたかは……正直分からないです(苦笑) 運やめぐり合わせもある世界ですからね」

騎手から調教助手へ。レースで乗る側から送る

2010年の末、高野さんは騎手免許を返上。騎手としての実働期間は約9年でした。その間には、大雨で渋った馬場となったマーメイドステークスを最低人気のトーホウシャインで勝利したり、やはり不良馬場で勝ちタイムが5分を超える決着となった2010年の中山グランドジャンプを8番人気のメルシーモンサンで勝つなど、穴党には頼りになる存在でした。

しかし、ジャンプレースに数多く騎乗していた高野さんは、自身の体の異変に気が付きます。

「度重なる落馬の影響なのかもしれませんが、大したことのない落馬でも記憶が飛んでしまうようになり、レースに乗るのが怖くなって引退を決めました」

騎手としての通算成績は1456戦50勝。この50勝の内訳は平場戦48勝、重賞2勝。重賞を複数勝ちながらも、特別戦での勝ち鞍はありません。「こんな極端な成績を残した騎手は、少ないと思いますよ」と高野さんご自身も苦笑いをされていました。

騎手として最後に乗ったスリーロゼット号と、その背に乗る高野さん

2011年からは調教助手に転身。レースでの騎乗ではなく、レースに送り出す側のスタッフとなられます。

「調教助手になってからの方が、馬のことを理解できるようになったし、思い通りに馬に乗れる感覚もあります。若い時に指示されて意味も分からずやっていたことが、時を経て助手となったからこそ分かることも、たくさんありますね」

──ならば、騎手としてまたレースに乗りたくなる瞬間もあるのでは? そんな質問をすると、高野さんはすぐに頭を横に振ります。

「競馬のレースはまさに命が懸かっています、一度心が折れてしまった人間がそう簡単に戻れる場所ではないです」

そして何より、調教助手としてのやりがいを見出されたそうです。

「何戦か継続してレースに乗ってくれた騎手の人から『この馬、良くなりましたね』と言ってもらえるとすごく嬉しいです。例えば常足(なみあし)の時から動きが硬い馬の場合、全身を使って走れるように日々調教をしていきます。具体的には、養成ギブスを付けたみたいに馬の動きを制限したり矯正したり……。そうすることによってバランスの良い馬に変わっていきますね。レースでは1頭でも負かして上の着順に来て欲しい、そう願っています。結果が出なければ引退が早まってしまう可能性があるので、少しでも競走馬として長く走れる(活躍できる)ようにと心掛けています」

競走馬の引退後にも注目が集まることが多くなりつつある昨今。先日もコンビを組んでJ・G1を勝ったメルシーモンサンに会いに、高野さんが鹿児島を訪れ再会を果たした場面がテレビでも放映されていました。

「自分が調教をつけている馬を、乗りやすく人の指示に従うようにできれば、速く走る能力が足りていなくてもセカンドキャリアの一助になるのではと考えています。中央競馬から移籍して地方競馬に行くのか、乗馬となるのかは、その時にならないと分かりません。しかし馬を扱いやすく調教する事で、次のステージでも可愛がってもらえる可能性が増すのではないでしょうか。そういったところも意識して、日々の調教を行っています」

もちろんレースに勝つことも、賞金を得ることも関係者としては大切なことです。しかし高野さんはそれに留まらず、自分の手元を離れたときのことまで考えて、調教されていました。

──もし、騎手になっていなかったらどんな職業に就かれていたのでしょうか。

「全く想像がつかないです。子供の頃は将来の夢もなかったし、高校に進学するのなら"やりたい何かを見つけよう"と思っていたぐらいでしたから。そう考えると、馬に関わる仕事は天職だったのかもしれません。騎手にしか味わえないことも経験できました。そして今は調教助手としての仕事も、とても楽しいです」

その楽しい経験を存分に経験できたのが、2019年のマスターフェンサーとのアメリカ遠征だったと言います。

体が硬い、とある2歳馬との出会い

マスターフェンサーは2016年2月21日、北海道浦河町の三嶋牧場で誕生しました。父はジャスタウェイ。4歳時に天皇賞(秋)、5歳時にはドバイデューティーフリーと安田記念と、G1レースを計3勝した名馬です。母のセクシーザムライは美浦の萱野厩舎で35戦2勝という成績を挙げて繁殖入りしました。

マスターフェンサーはそのセクシーザムライの4番仔として誕生し、2018年に栗東の角田晃一厩舎に入厩をします。そこで身の回りの世話や調教を付けることになった高野容輔助手。世話を始めると「とにかく、硬い馬」という印象を受けたといいます。

「デビュー戦で芝のレースを使うと聞いた時は、不安も大きかったです。脚が壊れてしまわないか心配でしたし、その後の数戦も乗り役の騎手には『躓く可能性もあるから、気を付けて乗って欲しい』と伝えていたほど。ですが返し馬にいってもレースでもそういった懸念は微塵も感じさせない走りを披露してくれました。心配は杞憂に終わりましたね。体の硬さをカバー出来たのは、豊富な筋肉量だったと思います。日々の調教も筋肉を増やすことや、左右のバランスが均等かを意識して行っていました」

──左右のバランスが悪い、というのは乗っていてわかるものなのでしょうか。

「乗るだけでわかるものですよ。例えば、自転車に乗った時にサドルが曲がっていると違和感がありますよね?それと同じような感覚です。サドルは調整すれば直りますが、馬は日々の調教で時間を掛けて直していくイメージです」

マスターフェンサーは、デビューから2戦は芝の2000mのレースを使われましたが、2018年12月23日の阪神競馬場での未勝利戦で初めてダートに出走し初勝利。2着馬には3馬身半差をつける完勝でした。

年が明けた2019年も月に1走のペースで出走し、500万下(1勝クラス)を勝利。さらにヒヤシンスステークス4着、伏竜ステークス2着と大崩れをしない堅実な走りを見せます。

そしてケンタッキーダービーの出走権を争う「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」のポイントで上位に食い込み、獲得ポイント上位馬の回避が相次いだことでマスターフェンサーが遠征可能となりました。

こうして、マスターフェンサーと高野容輔助手のアメリカ遠征が幕を開けたのです。

街全体が盛り上がるアメリカの大イベント

海外遠征というと、慣れない場所で、時には「アウェーの洗礼」を受けるなんてことをイメージする人もいるかもしれません。特に長期の滞在が必要となる土地では、そういったリスクも考えてしまいます。しかしマスターフェンサーとのアメリカ遠征において「そんなことは全くなかったです」と、高野さんは振り返ります。

「とてもウェルカムな雰囲気で不自由さを感じたことはありませんでした。ただ、馬は輸送で到着直後は堪えていた時期もあったようです。それでも、キーンランドで現地の馬たちと一緒にあちらの牧草を食べてリラックスしているうちに、体調も戻りました」

現地の食べ物や水にも対応したマスターフェンサー

人間でも海外の食べ物や水が合わないと苦労をすることもありますが、マスターフェンサーは現地で調達した飼い葉や水を口にして、大一番に向けて体調を整えていきます。体調が整えば次は調教を連想しますが、そこでも日本との違いがあったようです。

「レースまではトレーニングセンターではなく、競馬場で調整をしました。トレーニングセンターだと坂路やウッドチップなど選択肢がありますが、競馬場となると馬場しか調教する場所はありません。マスターフェンサー1頭だけに乗る生活でしたが、どのような調教メニューで負荷を掛けていくか? ということを毎日考えながら乗っていました」

1875年に第1回が行われたケンタッキーダービー。現地では『スポーツの中で最も偉大な2分間』と称されるほどの一戦で、全米から注目が集まるレースです。その熱狂ぶりを現地・チャーチルダウンズで目の当たりにすると、凄まじいインパクトがあったと言います。

「多くのファンが集まりますから、現地の盛り上がりはすごいです。ダービーの週には毎朝の調教をファンが見に来ていて、スタンドやコースの外ラチ沿いにたくさんの人が立っていました。ホテルの値段もダービー前になると通常より高く設定されていますし、地元のスーパーマーケットでも競馬グッズが売られています。朝の情報番組では、天気予報の背景映像に、ダービー出走馬の調教映像を流しているほどでした」

ケンタッキーダービーが近づくにつれ、熱気はさらに高まるばかり。前日に行われるケンタッキーオークスの際には、場内の盛り上がりもすごかったそうです。

「オークスにも多くの人が詰めかけ、イベントも派手に行われました。我々の滞在用の馬房はチャーチルダウンズの3コーナー近くにあったのですが、音に敏感になってイライラしないか心配になったほど。厩舎の周りではファンがバーベキューをしたり、スタンドからはレースとレースの合間にライブ会場なのか?と思うほどの爆音で音楽が流れていました。レースの音やファンの歓声、それにレディ・ガガの曲が流れてきても、マスターフェンサーが動じることはありませんでした。よく我慢してくれました」

そして2019年5月4日、アメリカ3歳三冠レースの開幕を告げる145回目のケンタッキーダービー当日。前日まで降っていた雨はあがったはずでしたが……ダービーの発走3時間ほど前から、冷たい風とともに再び雨が降り始め泥田のような馬場へと変わっていきます。

ゲートが開くと、内からマキシマムセキュリティ、ロングレンジトディ、ボーディエクスプレスが並走状態で先行。1コーナーに入ったところで、マキシマムセキュリティがハナを取り切ります。高野さんはコースの中で愛馬の走りを見ていましたが、途中のラップタイムを見て驚愕。なんと2ハロン(400m)の通過タイムが22秒台と計時されたのです。マスターフェンサーは、後方を走っていました。

「このまま何もできずにレースが終わってしまうかもしれない。そうなると、出走枠を1つ潰してしまったことになる。現地の関係者に申し訳ない……」

高野さんは心の中でそう感じたといいます。

しかしレースが進み最後の直線でジュリアン・ルパルー騎手とマスターフェンサーは、インを突いて末脚を伸ばします。一瞬、3着争いに加わろうかという勢いでした。

結果は6着。

過去、日本調教馬としてケンタッキーダービーに参戦したスキーキャプテンは14着、ラニは9着でした。それを思えばマスターフェンサーの6着は日本馬にとっての最高着順となりますが、それ以上に「日本生産馬」として初めて挑んでこの着順だったことも素晴らしい要素と言えるでしょう。

過去の2頭は外国生産馬、つまりマル外でした。このマスターフェンサーの善戦は、日本の生産者(ブリーダー)にとっても、大きな励みになる着順だったと言えるかもしれません。そしてその結果は現地の高野さんにも影響を与えます。

「ケンタッキーダービーの後、あちらの関係者のマスターフェンサーを見る目が変わったんです!『次はどこのレースを使うのか?』と質問攻めにあいました。アメリカでは年間2万頭近い馬が生産をされます。そのなかでケンタッキーダービーに出走できるのはたった20頭。その中での6着というのは大変栄誉なことでした。日本のG1レースで6着だと掲示板外として記憶に残らないこともあるかもしれませんが、ケンタッキーダービー6着というのは『その世代で6番目に強い』という見方をされて、大変リスペクトされるのだと感じました」

もう1回、ケンタッキーダービーに送り出したい

これまでケンタッキーダービーに出走した日本馬というのは当時は前述したスキーキャプテンとラニだけで、マスターフェンサーは3頭目の挑戦でした。だからこそ、ケンタッキーダービーの情報がこれまで日本国内ではとても少なく「何となく知っているけど……」というファンが多かったかもしれません。

実際に高野さんも遠征をされたことで"これほどアメリカ国内で権威のあるレースなのか"と驚いたと言います。レースのプロモーションビデオもとても質の高い映像で、現地の盛り上がりや熱量は遠征したからこそ知ることが出来たと振り返ります。

「改めて考えてみると、すごいレースに自分の担当馬を出走させたんだなぁ……と感慨深いものがありますし、誇らしい気持ちにもなります」

そして高野さんはこんな夢を我々に話してくれました。

「出来ることなら、またケンタッキーダービーに馬を連れて行きたいです。マスターフェンサーでの遠征は初めての海外で手探り状態で、自分がどうしたいか、分からないこともありました。でもその遠征の経験を得た今なら、アメリカでも『自分のやりたいことをやれる』と思いますし、もっと良い仕上げも出来るのではないか。そんな風に思います」

シカゴの検疫所からケンタッキー州に向かう馬運車の中での1コマ

マスターフェンサーはケンタッキーダービーの後はベルモントステークスで5着。そして芝のベルモントダービーインビテーションにも出走、アメリカで3戦走り、遠征は長期に渡るものでした。

「僕は全然英語は話せません。横に現地のコーディネーターの人が居るときは通訳をしてくれますが、馬に乗ったら一人なので、『こう聞かれたら、こう答えよう』という英語でのテンプレートを用意していました。ただ、帰る直前には少しずつ英語でのコミュニケーションも取れるようになっていました」

ベルモントダービーにも出走。異国の地で芝のレースも走りました

「遠征時に現地でコーディネートしてもらった沼本さんにも大変お世話になりました。沼本さんはラニのアメリカ3冠挑戦時の経験を踏まえて、我々のことをサポートしてくださいました。『それはこちらの仕事なのでやらなくて大丈夫ですよ』と言っても『自分の経験のためにやらせてください!』と言って馬房掃除や飼い葉桶を洗ったり、バンテージを巻いてくれたりとこちらの仕事を手伝って頂きました」

「日本では馬を連れて競馬場に行くのは厩舎スタッフのみですが、海外遠征ではコーディネーターの方や牧場スタッフ、現地で担当してくれる獣医さんとレースまでを共にするので、自然とチームとしての意識の共有ができました。帰国するまでの期間限定チームですが、こういう経験ができるのも海外遠征ならではですね」

左端が沼本さん。チームとしての結束も固くなる、と高野さん

騎手、そして調教助手として、様々な舞台で輝いてこられた高野さん。今回のインタビューを通じて感じたのは、一度でも得た経験を次の機会に活かそうとする努力をされる方だということ。

遠征を経験したことによって「次はやりたいことが、きっと出来るはず」と話された際には、とても強い意志を感じました。

そう遠くない未来に、またケンタッキーダービーに担当馬を出走させてチャーチルダウンズのパドックで馬を曳く高野容輔さんの姿を見たいものです。

その時またレースが中継されるのであれば、テレビの前で全力で応援をしたいと思います。

写真:ご本人提供

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