ダンスインザムードが出てきたとき、私は彼女に兄ダンスインザダークの面影を重ねていた。
性別も毛色も違う2頭。
しかし、まとった雰囲気がすごく似ていると感じていた。
2頭の母はダンシングキイ。
ダンスインザダークの前にはエアダブリンとダンスパートナーも出している名牝だ。
兄や姉はいずれも後方から強烈な末脚を繰り出すイメージがある。
特にダンスインザダークといえば誰しもあの菊花賞の強烈な末脚を思い出すのではないだろうか。
4コーナーでほぼ最後方、絶望的な位置からワープでもしたかのように突然テレビ画面に現れたあの末脚。
しかし意外にも菊花賞までの7戦すべて、ダンスインザダークは直線を向くときには少なくとも5番手あたりにいるような競馬をしていた。
もちろん、大目標の日本ダービーもそうだった。
2枠3番からスタートした武豊騎手騎乗のダンスインザダークは2、3番手の好位につけてレースを進めた。
それまでの競馬と同じように、きっとこのあと直線であっさり抜け出して快勝することだろう。
誰しもがそう思った。
しかしその期待は裏切られる。
4コーナーを過ぎて直線、先頭を行くサクラスピードオーの外がパッと空いた。
次の瞬間、ダンスインザダークはその空間に突っ込んでいった。
──早すぎる!
場外馬券場のモニターを見ながら、私はそう直感的に思った。
案の定、最後の最後で外から伸びてきたフサイチコンコルドにやられてしまった。
そのダンスインザダークの日本ダービー惜敗から10年後の2006年。
第1回ヴィクトリアマイル。
私はダンスインザムードの走りをみて兄ダンスインザダークのダービーを思い出すことになる。
ダンスインザ―ムードは期待にたがわぬ走りをみせ、デビューから無傷の4連勝で桜花賞を圧勝。
オークスでは4着に敗退したものの、夏にはアメリカンオークス、秋には古馬に挑んだ天皇賞、マイルチャンピオンシップでそれぞれ2着と素晴らしい成績を残した。
しかし、4歳なってから思わぬスランプに陥る。
安田記念はシンガリに敗れ、夏の札幌クイーンステークスは8着、続く札幌記念は12着と惨敗。
この時には早期の引退までささやかれ始めた。
それでも管理する藤沢和雄調教師はあきらめることなく、課題となっていた精神面を克服すべくプール調教を取り入れるなどして対策に努めた。
そのかいあってかダンスインザムードは天皇賞・秋3着、マイルCS4着と復活の兆しを見せ始めていた。
そうして迎えたのが2006年に新設されたG1第1回ヴィクトリアマイルであった。
鞍上は北村宏司騎手。
所属騎手として藤沢和雄厩舎を支えながら、岡部騎手、ペリエ騎手、デザーモ騎手といった超一流の主戦騎手に隠れて結果を出せずにいた。
北村騎手にとっては、武豊騎手がエアメサイアを選んだためにめぐってきたビッグチャンスであった。
ダンスインザムードは1枠1番から絶好のスタートを切ると、兄がダービーで見せた走りと同じように好位の内5番手を進む。
少し気負っているようにも見えたが鞍上の北村騎手は手綱をぐっと握って上手くなだめていた。
隊列は大きく変わることなく4コーナーへ。
後方にいた馬たちが前に押し寄せてくる。
ダンスインザムードは最内をピッタリ回っている。
直線の入り口、先頭を行くマイネサマンサがやや外に膨れる。
ダンスインザムードの目の前がぽっかり空く。
──待てよ。この光景、どこかでみたことがあるぞ…。
と、次の瞬間、
──まだいくな!
ダンスインザダークの仕掛けが頭をよぎった。
──兄貴はここで先頭に立って差されたんや!
その心の声が届いたかのように北村騎手は動かない。
──よし!それでいい!
残り400メートル。
2番手を追走していたコスモマーベラスが先頭をゆくマイネサマンサの内側に進路を取り、ダンスインザムードに馬体を寄せてくる。
内ラチのスペースはもはやギリギリ、一頭入れるかどうかになった。
この状況であれば、誰しも馬体をねじ込んででもそのスペースに入りたくなるというもの。
──今しかない!いけ!
私は心の中で叫んだ。
しかし、北村騎手はまだ動かない。
コスモマーベラスをいかせ、後ろでためを作る選択をした。
──ウソやろ…。
逃げていたマイネサマンサとコスモマーベラスが馬体を合わせる。
ダンスインザムードの前は2頭の壁が…。
──あぁ、やってしまったな…。
そう思ったが、北村騎手は全く慌てていない。
ここまで逃げてきたマイネサマンサの手応えをしっかり見届け、必ずコスモとの間にスペースができると確信しているかのような落ち着きだ。
次の瞬間、シナリオ通りにマイネサマンサとコスモマーベラスの間が空いた。
北村騎手がここぞとばかりにダンスインザムードをその空間へ誘導する。
──よし! そこを突いてくれ!
……しかし、まだ北村騎手はアクションを起こさない。
手綱はほぼ持ったまま。
残り300!
まだ追わない。
──遅い! 早く追わないと後ろが来る!
並走したまま残り200メートル。
北村騎手はようやく追い始め、先頭に躍り出た。
ダンスインザムードが一瞬フワッとして左にもたれる。
いつもの彼女の癖だ。
北村騎手は「これは想定済み」とばかりに残り100メートルを上手にエスコートし、見事先頭でゴールを駆け抜けてみせた。
私は、北村騎手の騎乗にいい意味で裏切られた。
勝手にダンスインザダークのダービーと重ね合わせ、勝手に「早すぎる!」「遅すぎる!」と右往左往していた。
しかし、その日の北村騎手の騎乗はまさに「これしかない」という騎乗であった。
あの騎乗でなければ、兄が最後の最後で外から伸びてきたフサイチコンコルドに差されたように、ダンスインザムードも外から強烈な脚で伸びてきたエアメサイアに差されていたかもしれない。
なんせ、エアメサイアの鞍上はあの武豊騎手だ。
武豊騎手は願っていたのではないだろうか。
「早く抜け出せよ、早く追い出せよ」と。
しかし北村騎手は天才の思いどおりには動かなかった。
ダンスインザダークの日本ダービー最後の直線の走りを、まだデビュー前の北村騎手はどこかで観ていただろうか。
もちろん、もし観ていたとしても、あのレースが蘇ったなんてことはないだろう。
それでも私は勝手に妄想する。
北村騎手が兄ダンスインザダークのダービーでの走りを教訓にした、と。
それくらい素晴らしい騎乗であった。
しかし、見る人が見れば全く違う景色に見えるらしい。
レース後の藤沢和雄調教師のコメントがふるっていた。
「追い出しのタイミング? ちょっと早かったかな。岡部騎手ならもっと我慢していた」
「難しいところがある馬。岡部騎手ならムチを使わずに勝っていたよ」
なんとも手厳しい。
まあ、これは愛情の裏返しなのだろう──。
Photo by I.Natsume