[七夕賞]織姫と彦星に想いを馳せて。フジヤマケンザンやトウショウナイトなど、『7枠』から夢を叶えた出走馬を振り返る

毎年、彦星と織姫が年に1度だけ出会う日である七夕。日本だとこの伝統行事の日付は北海道の一部地域を除き7月7日で統一されている。

そして、この近辺で開催される中央競馬の重賞レースが七夕賞だ。毎年、ファンの間では7枠や7番など、7月7日にちなんだ数字が着目されることが多い。

そして過去、七夕賞で7枠に入った馬に焦点を当てると、このレースをきっかけに飛躍を遂げた馬達の名も数多い。今回はこのレースをきっかけに、秋以降の活躍へとつながった5頭を紹介していく。

1995年 フジヤマケンザン

4歳(旧齢表記)時から菊花賞で3着と活躍し、5歳時には中日新聞杯を制覇。その後も重賞戦線で何度も好走していたフジヤマケンザンだが、どうしてもG1のタイトルには手が届いていなかった。しかし7歳の秋に国際競走となった香港カップに遠征して4着となり、海外でも通用する力を見せ始めていた8歳の夏、フジヤマケンザンは七夕賞に参戦した。

重賞2勝に加え、当時は国際G2だった香港カップでの好成績も評価されたフジヤマケンザンは、メンバー中、最も重い58.5キロという斤量で出走。最軽量のオンワードノーブルが49キロで、出走馬のほとんどが53~54キロだったことを考えると、かなりのハンデを背負わされていた。

ゲートが開くとテンジンショウグンが1000m通過を1分ジャストの時計で逃げ、淡々とレースは流れていく。それを中団で見ながら進めていたフジヤマケンザンだが、向こう正面から徐々に上がっていき、直線を前にして2番手まで進出。好位から抜け出しを図っていたインタークレバーに馬体を合わせ、2頭で後続を離してマッチレースに持ち込んだ。

斤量的にはインタークレバーの方が3.5キロ軽く、直線に向いてからの叩き合いも本来であれば彼の方に分があるはずだ。しかしフジヤマケンザンは2頭の間にあるハンデなど全く感じさせずに伸び、一歩でも前に行こうとする。そして残り50mで遂にインタークレバーはフジヤマケンザンに後れを取り、そのままフジヤマケンザンはゴール坂へ。重賞3勝目を強い競馬で飾って見せた。

この年の冬、3度目の香港遠征へとフジヤマケンザンは飛んだ。好スタートから3番手につけると、直線で逃げ粘るVenti quattro fogliを捉えて優勝。ハクチカラ以来36年ぶりとなる、日本調教馬による海外で開催された平地の重賞制覇という快挙を達成した。

現代、多くの日本馬が挑戦し、活躍している香港国際競走。その礎を作ったフジヤマケンザンが大きく羽ばたくきっかけとなったのは、七夕賞の勝利であった。

2005年 グラスボンバー・カナハラドラゴン

この年の七夕賞は10頭立てと小頭数。そんな年に7枠に入った2頭は、穴党ファンにとっては魅力的な2頭と言っていい、個性的な馬であった。

1頭目はグラスボンバー。父は世界中に活躍馬を送り出したMachiavellianで、母の父は名種牡馬Nureyevと、血統表には超良血馬が立ち並んでいる。ここまで地道に積み上げた実力が評価され、重賞初挑戦ながら3番人気に推されていた。

一方、2頭目のカナハラドラゴンはかなりムラ駆け気質のある馬で、人気のない時に激走し、人気のある時は凡走するという、ファンの頭を悩ませる戦績の持ち主だった。そしてこの日も、重賞3着の実績がありながらも7番人気。前年、同舞台で行われた福島記念で12着に敗れていたことも影響していたのかもしれないが、前述の戦績を踏まえると、この時点で好走しそうな雰囲気は漂っていた。

レースはマルタカキラリーが大逃げを打ち、1000m58.6秒というハイペース。この展開で7枠の2頭は後方から進め、勝負所で一気に捲って進出していった。しかし、早めに逃げ馬を捉えに行ったダイワレイダースとトーセンダンディが直線に向いた時点で抜け出しており、グラスボンバーとカナハラドラゴンも懸命に追うがその差は詰まらずゴールイン。それぞれ3,4着に敗れた。

だが、グラスボンバーはメンバー中最速となる上り3F・35.6秒で先団を急追しており、このメンバー相手でも十分に力は通用するところは見せていた。またカナハラドラゴンもグラスボンバーとは大きな差がなく、展開次第では好走しそうと思わせるには十分な結果。秋以降に向け、楽しみが増えるレース内容だった。

そしてこの後、2頭はカ翌年の七夕賞までに5回対戦。片方が馬券圏内に好走すればもう一方は凡走し、そのレースでは必ず万馬券が出るという、なんとも不思議な関係であった。

2006年 トウショウナイト

2024年3月で騎手生活に別れを告げ、競馬学校の教官として新たな人生を歩み始めた武士沢友治騎手。彼とのコンビが印象深い馬は?と競馬ファンに聞けば、必ず「トウショウナイト」と答える人が一定数いるだろう。

だが、そんなトウショウナイトが武士沢騎手の手綱を離れていた時期もあった。それが2006年の春。メトロポリタンSと目黒記念では藤田伸二騎手が騎乗していた。そんな彼らのコンビが復活したのが、7枠に入った七夕賞だった。

G1で4着もあるトウショウナイトが、このレースで背負った斤量は57キロ。通常の七夕賞であれば重めの斤量だが、このレースには小倉三冠馬のメイショウカイドウを筆頭に数多くの実績馬が参戦していた。ゆえにそこまで目立つハンデではなく、コンビ復活の初戦から好走を期待したファンも多かっただろう。

しかし、結果は好位から全く伸びずに6着。実はこの前年にキ甲を骨折していたトウショウナイトは、それ以降手前を替えるのを嫌がり、本来の走りができない形になっていた。この七夕賞でも休養前のパフォーマンスには及ばず、武士沢騎手ものちに「もう復活できないかもしれないと感じていた」と話している。

しかしこの次走に選んだ函館記念で、トウショウナイトは再び手前を替えるようになる。追い切り中に何かを掴んだのか、それとも夏の滞在競馬が良かったのかは分からないが、トウショウナイトはこれをきっかけに復調した。9月の札幌日経オープンでコスモバルクを破って1年8か月ぶりの勝利を挙げると、秋にはアルゼンチン共和国杯で重賞初制覇。翌年の天皇賞・春では5着に好走するなど、中長距離路線で息の長い活躍を見せた。

2009年 ミヤビランベリ

2025年7月現在、七夕賞を連覇したのはこのミヤビランベリだけである。彼の馬上に跨っていた北村友一騎手は当時4年目。売り出し中の若手として名を馳せ始めていた時代だった。

前年、1600万下(現:3勝クラス)条件から格上挑戦で七夕賞を制したミヤビランベリ。その後はローカル重賞で2戦し、いずれも着外となった。だが、年明けの中山金杯、小倉大賞典を連続で3着とすると、1戦挟んで出走した目黒記念を圧勝。不良馬場をものともしない快勝劇で重賞2勝目を飾った余勢を駆って、七夕賞に出走してきた。

レースの道中は荒れた内側を避けて外目を進み、5番手で追走。逃げるドリームフライトがゆったりとした流れを刻む中、スローを見切ってミヤビランベリは勝負所で外から一気に進出した。

だが、4コーナーでただ1頭、内ラチ沿いを回ってきたグラスボンバーがコーナーワークを利して一気に抜け出し、瞬く間に3馬身近い差を後続につける。この動きに、2番手まで進出していたミヤビランベリも一旦は離された。だが、鞍上は焦ることなく外からパートナーを追う。その叱咤に応えてミヤビランベリはしっかり脚を伸ばすと、坂を上り切ったところでグラスボンバーを捉えて先頭に。後方から猛追してきたアルコセニョーラとホッコーパドゥシャらも抑え切って、レース史上初となる2連覇を決めて見せた。

北村騎手は後に、「馬場のどこを走るべきか、どうすればいいかとかなり神経を使った」とこのレースを振り返っている。1番人気に応えたことももちろんだが、それ以上に自分の選択と勝負勘が間違っていなかったこのレースは、思い出に残る七夕賞となったという。

のちに、この時と同じ7枠からダービージョッキーに輝くこととなる北村騎手。そのダービーでも、騎乗したクロワデュノールをスタートから絶好の位置へエスコートし、世代の頂点へ導いた。そんな北村騎手の強心臓と冷静さは、この七夕賞の時から既に覗かせていたと言っていいのではないだろうか。

写真:Horse Memorys、かず

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