[アメリカJCC]世界的良血馬が、血を遺す未来と引き換えに手にしたもの - 2003年・マグナーテン

アメリカジョッキークラブカップは、3月の中山記念、日経賞と共に、関東で行われる伝統の古馬中・長距離重賞の一つ。ここから、GⅠの大阪杯や天皇賞春、もしくは、香港のクイーンエリザベス2世カップへと繋がる、重要なステップレースとなっている。

過去の勝ち馬からも、メジロブライト、マツリダゴッホ、トーセンジョーダン、ルーラーシップが、後にGⅠを勝利。中でもルーラーシップは、父が日本ダービーを制したキングカメハメハ、母もオークスと天皇賞秋を制して年度代表馬となったエアグルーヴという、超のつく良血だった。

また、GⅠを勝利することはできなかったものの、2003年の勝ち馬マグナーテンも、それに負けず劣らずの世界的な名血だったといえる。

1996年4月、マグナーテンは米国で生まれた。父のダンジグは、故障の影響で競走馬としては大成できず、一般戦ばかりを走って3戦3勝で引退したものの、種牡馬として大成功。豊かなスピードを武器に産駒が大活躍し、デインヒルをはじめ多数の後継種牡馬にも恵まれた。ノーザンダンサーの産駒としては、サドラーズウェルズと並び、今なお、世界で最も枝葉を広げている系統といえる。

一方、母のマジックナイトも、1991年にフランスのGⅠヴェルメイユ賞を制し、続く凱旋門賞とジャパンカップでも2着に好走した名牝だった。

そんな両親を持つこの世界的良血馬には、生まれながらに、競走馬としてのみならず、将来は種牡馬としても大きな期待がかけられていたであろうことは、想像に難くない。

その後、日本に輸入され、美浦の藤沢厩舎に入厩したマグナーテン。しかし、500kgを超える雄大な馬体が、仕上がりの遅さに繋がったのだろうか。デビューを迎えたのは、3歳の7月だった。


トップトレーナーが送り出す世界的良血。手綱を握るのは、厩舎のエース岡部幸雄騎手。当然のように注目が集まり、既走馬相手でも1番人気に推されたことに驚きはなかったが、レースは、中団追走のまま伸びきれず6着と敗れてしまった。

それどころか、この後も度々上位人気に推されたものの、5戦して勝ち星を挙げられず、当時は11月の福島開催まで行われていた未勝利戦も終了してしまったのだ。

世界的な良血馬が、1勝もできないまま現役生活に終止符を打つことになってしまうのか──。

ここで陣営は、この名血を後世へと遺すこと……つまりは将来種牡馬入りさせることを諦め、去勢するという選択に至った。無論、それは決して簡単な決断ではなかったはずだ。

せん馬となったマグナーテンが再び競馬場に姿を現したのは、最後に未勝利戦を走ってからおよそ半年後。5月に地方競馬の盛岡で行われた、ダート1600mの交流戦だった。去勢手術明けらしく馬体重を24kg減らしていたものの、再び岡部騎手とのコンビで3着に入り、上々の内容を見せた。

そして、1ヶ月後。同じ舞台へ遠征した人馬は、苦節8戦目にしてついに初勝利を手にしたのである。将来、種牡馬入りすることは叶わないため、もちろん、その勝利だけでは物足りないことに間違いなかったが、デビューから1年弱。マグナーテンは、ようやく競走馬としてのスタートラインに立ったのだ。

続く次走は、そこから中5日で挑んだ東京の500万クラス(現・1勝クラス)で4着となり、三度遠征した盛岡の交流戦で2勝目を挙げた。その後は、戦いの舞台を完全にJRAへと移し、2走目で500万クラスを卒業すると、昇級2戦目のレースがマグナーテンにとって大きな転機となった。

1年3ヶ月ぶりとなった芝のレースで、松永幹夫騎手(現・調教師)を背に逃げ切ると、以後は完全に芝のレースに専念することとなったのである。

翌年の2月。3ヶ月の休養を挟み出走した丹波特別では、再び岡部騎手とのコンビで逃げ切り、5馬身差の圧勝。さらに、3ヶ月後のフリーウェイステークスでも、好位追走から抜け出してコースレコードで完勝し、3連勝を達成したのだ。

実に初勝利まで8戦──。その間にはせん馬へと生まれ変わり、ダート戦ばかりを走った時期もあった。子孫を残せないものの、マグナーテン自身には、しっかりと超一流の父母から卓越した能力が伝わっていた。紆余曲折を経て、初勝利までに1年を要したものの、そこからはわずか1年足らずで、ついに彼はオープン馬へと上り詰めたのだ。


昇級初戦となったバーデンバーデンカップでは4着に敗れ連勝は3でストップしたものの、大幅にリニューアルされた新潟競馬場の朱鷺ステークスでは、JRAレコードにあと0秒1と迫る、1分19秒4で快勝したマグナーテン。

そんな彼にとって、初めて重賞にチャレンジする機会が巡ってきた。中2週で臨んだ関屋記念である。

この年の関屋記念は、9頭立てという少頭数ながらも、非常に中味の濃いメンバーが集まっていた。

共に、2歳GⅠ勝ちの実績を持つ関西馬のエイシンプレストンと、マグナーテンと同厩のスティンガー。そこに、中央のGⅠで2度好走した実績を持つ、岩手競馬の雄・ネイティヴハートが参戦し、過去に関屋記念を2勝するなど重賞5勝の実績がある、古豪のダイワテキサスと、間違いなく豪華なメンバーが顔を揃えていた。

ゲートが開き、まず先手を奪ったのは、1年半ぶりの休み明けとなったクリスザブレイヴ。マグナーテンは、4馬身離れた2番手でしっかりと折り合い、3番手のドリームカムカム以下7頭は集団を形成して、レースは早くも3コーナーへと差し掛かかった。

すると、ここからクリスザブレイヴの逃げはさらに勢いを増す。4ハロン通過は46秒2と決してハイペースではなかったものの、それを追いかけたマグナーテンと3番手との差は、このとき既に10馬身以上に広がっていた。クリスザブレイヴの逃げ脚は、まるで久々の実戦復帰を喜ぶ、軽快なステップのようだった。

4コーナーを回り、新潟競馬場の新名物となった日本一長い直線。クリスザブレイヴの手応えも楽に映ったが、マグナーテンの手応えは、それを遙かに上回り、唸るほどに見えた。

後続も早めに仕掛け、差を詰めてきてはいたものの、前2頭の勢いは止まらず、岡部騎手はなおも手綱をがっちりとおさえたまま。そうこうしているうちに、長い直線もあっという間にゴールまで200mを切り、満を持してマグナーテンが先頭に立った。さらにそこから右鞭が2発、3発と入ると、その差はみるみる広がり、最後は粘るクリスザブレイヴに2馬身半差をつけて1着でゴールイン。

見事に、重賞初挑戦で初制覇を達成したのである。自らに流れるスピードを、余すところなくGⅠ馬相手に発揮し、見せつけた、着差以上の完勝だった。


いよいよ、競走馬としての本格化を迎えたと思われたマグナーテン。

──しかし、この1年の充実がまるで嘘だったかのように、ここからの彼は、長く暗いトンネルの中で、競走生活を過ごすことになってしまう。

2ヶ月の休養を経て、1番人気で臨んだ毎日王冠。道中、快調に逃げているように見えたマグナーテンは、ゴール寸前で失速。エイシンプレストンやダイワテキサスにリベンジを許し、4着と敗れてしまった。

さらに、中1週で臨んだ富士ステークス。ここでも1番人気に推され、道中は2番手を追走していたものの、直後のダイワカーリアンにピッタリとマークされたことが影響してしまったのか。早々と後続に捕まってしまい、今度はクリスザブレイヴやネイティヴハートに先着を許す、7着に惨敗してしまったのだ。

そこから立て直しが図られて半年間の休養に入り、年明けの初戦はマイラーズカップとなったが、結果は5着。さらに、自らがレコードを持つ舞台で行われた京王杯スプリングカップでも5着に敗れ、続く安田記念でも為す術なく10着に敗退。

長いスランプから抜け出すことができないまま、あっという間に6歳春シーズンが終わってしまった。

2年半前、未勝利戦を度々走っても勝てなかったとき以来の挫折。しかし、種牡馬となる未来がない以上、このままでは終われない。

そんな中、陣営が復活を期して次走に選んだのは、1年前に勝利した朱鷺ステークスと同じ、新潟芝1400mで行われるNSTオープンだった。夏の新潟の開幕週で、スピードが出やすい馬場コンディション。そして、先行馬にとって有利な内回りコース。卓越したスピードを生かしたいマグナーテンにとっては、絶好の舞台と考えられた。

ゲートが開き、真っ先にハナを奪ったのはカルストンライトオだった。この2走後、今もなお破られていない芝1000mのJRAレコードを樹立する、日本競馬史上、屈指のスピードの持ち主である。さらに、2番手に付けたのも快足馬のユーワファルコン。その2頭を前に見ながら、マグナーテンは4番手にポジションを取った。

前半の3ハロンは33秒1で、その後のラップも11秒台前半で流れていく。

あっという間に迎えた直線。カルストンライトオを交わして先頭に立つマグナーテンだったが、ハイペースを前目で追走していたため、先に失速した先行勢と同様、自らも苦しくなってしまう。

それでも、岡部騎手の叱咤に応えて踏ん張りきり、中団から差してきたブレイクタイムをクビ差封じ込めて、およそ1年ぶりの勝利。先行馬の中では唯一上位に入線するという、非常に価値ある内容だった。

さらに、このとき計時された勝ちタイムは、驚愕の1分19秒0。これは、それまでのタイムを0秒3更新する芝1400mにおけるスーパーレコードとなったのだ。


そして、6歳夏。既に、26戦を消化していたにもかかわらず、マグナーテンは以前の勢いを再び取り戻した。いや、それまで以上に躍動し始めたといっても過言ではなかった。

去勢するメリットの一つに「肉体的な老化を遅れさせ、競走寿命が伸びる」という説があるが、彼の成績はまさにこれを証明しているかのようだった。

その2週間後、連覇を目指して出走した関屋記念。前年と同じように道中は2番手を追走したマグナーテンは、直線残り200m地点で逃げるミデオンビットを交わしさると、あっさりと連覇を達成する。

さらに、東京競馬場の改修工事のためこの年は中山競馬場で行われた毎日王冠でも、再びエイシンプレストンにリベンジを果たす逃げ切り勝ちを収め、見事、前年の無念を晴らしたのだった。

GⅡのタイトルを手にし、ついにGⅠ制覇も視界に入ってきたマグナーテン。当時、せん馬には天皇賞への出走資格がなかったため、陣営が次に狙いを定めたタイトルは、これまで実績を残してきた芝1600mで行われるマイルチャンピオンシップではなく、世界の強豪が集うジャパンカップだった。

毎日王冠同様、中山競馬場での施行となったこの年のジャパンカップの距離は、従来よりも200m短い2200m。ワンターンのマイル戦よりも、コースを1周してコーナーを4度回るこの舞台の方が、マグナーテンの先行力を生かすことができると考えられたのだろうか。

迎えたレース当日。混戦の1番人気には、3歳にして、前走天皇賞秋を制したシンボリクリスエスが推され、片や、マグナーテンは8番人気だった。ここまでのキャリアの大半は、マイル前後の距離を走り、2000m以上のレースは3年ぶりで実績もない。しかし、舞台は違えど、母マジックナイトは11年前のこのレースの2着馬。同厩のGⅠ馬とはいえ、シンボリクリスエスの引き立て役で終わる訳にはいかない。ゲートが開き、8枠15番から先手を取ったマグナーテンと岡部騎手には、そんな決意がみなぎっているようにも映った。

前半1000mの通過は、1分0秒9のスローペース。しかし道中は常に11秒台後半から12秒台前半のラップが刻まれ、ペースが落ちて息が入るようなところがなく、逃げるマグナーテンにとって決して易しい流れではなかった。

それでも、迎えた直線。コーナリングで差を2馬身に広げ、中山の直線を一気に逃げ切らんとラストスパートをかける。後続から迫ってきたのは、アメリカのサラファンとイタリアのファルブラヴ。そして、大外から勢いよく追い込んできたシンボリクリスエスの3頭だった。

海外の歴戦の猛者達に、これからの日本競馬を背負って立つ存在になるかもしれない若武者。ただ、そんな馬達が相手でも、簡単には引き下がれない。先頭を譲るまいと、必死に逃げ足を伸ばす。坂を登り切って、ゴールまで残り100。生涯初のビッグタイトルは、手の届くところにあった。

しかし──。

大接戦の末、勝ったのはファルブラヴと天才L.デットーリ騎手。マグナーテンは完全に失速したわけではなかったが、残り50mで3頭に交わされると、差し返すことができず4着に終わった。この年のジャパンカップは、結果的に、1、2着となった外国調教馬を含む上位4頭は、全て外国産馬だった。

ただ、敗れたとはいっても、マグナーテンにとっては間違いなく大健闘といえる内容だった。なにせ、3走前には1400mを走っていた馬が、最後の最後まで逃げ脚衰えることなく見せ場を作ったのだから。

そして、ゴール前で交わされはしたものの、中山の急坂でも簡単には止まらないスタミナを、体力を、この時のマグナーテンは身につけていた。彼は、もはや一介のスピード馬という概念を超え、6歳シーズンが終わろうかというこの時期にあってもなお、成長し続けていたのだ。それは、3年前に陣営が下した決断が間違いではなかったことの、改めての証明でもあった。

充実期を迎えていたマグナーテンの現役生活は、翌年も続行された。


年明け初戦に選ばれたのは、ジャパンカップと同じ舞台で行われる、GⅡのアメリカジョッキークラブカップ。

1倍台の圧倒的な支持を集めたマグナーテンには、ジャパンカップでシンボリクリスエスとコンビを組んだO・ペリエ騎手が騎乗し、この日も、ゲートが開くと当然のように逃げの手に出る。

終始、2番手に3馬身ほどのリードを取りながら逃げ、前半の1000m通過は1分0秒5。前走同様、この日もまた、スローながら起伏のない淡々としたペースとなっていた。それでも、ジャパンカップ4着の実績がある以上、このメンバー相手に負けるわけにはいかない。

一旦、4コーナーで1馬身に詰まった後続との差を、直線に向くと再び3馬身に広げ、先頭で力強く坂を駆け上がる。そして、ゴール前では、最後方から追い上げてきたグラスエイコウオーに迫られたものの、半馬身差凌ぎきって優勝。2000mを超える距離を克服したことを、今度こそ結果で見せつけたのだ。

これが、生涯最後の勝利となったものの、この後もマグナーテンは、産経大阪杯をはじめ、2000mのレースを中心に使われるようになった。

その産経大阪杯では、2年連続の2着。特に翌2004年のレースでは、前年に牡馬クラシック二冠を達成したネオユニヴァースを8歳馬のマグナーテンが最後の最後まで苦しめるという、見所たっぷりの内容だった。

マグナーテンは当時におけるせん馬の最多獲得賞金記録を打ち立てるなどの功績を残した。9歳となった1月、調教中のケガで現役を退くまでに積み重ねたキャリアは、実に37戦。後世にその血を遺すことはできなかったものの、それと引き換えにマグナーテンが得たものは、無事是名馬と呼ぶにふさわしい丈夫な肉体と、太くて長い充実の馬生を実現させた成長力だった。

写真:Horse Memorys

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