2017年12月29日、大井競馬場。

その日行われたGI競走「東京大賞典」で、一頭のサラブレッドがGI級競走通算11勝の大記録を達成しました。

その馬の名前は言うまでもないでしょう、この記事で取り上げる「コパノリッキー」のことです。

生い立ち

コパノリッキー(以下リッキー)は2010年3月24日、北海道沙流郡のヤナガワ牧場で生まれました。

ヤナガワ牧場と言えば、キタサンブラックの存在でさらに知名度が上がった印象がありますが、その他にもコパノリチャード、サンライズバッカス、プライドキムと言ったGI級競争勝ち馬を輩出する、日高地方の有力な生産者の一つです。

父はダート界の大種牡馬ゴールドアリュール、母はコパノニキータ(母父ティンバーカントリー)という血統。

母父であるティンバーカントリーも、アドマイヤドンのようなダートで強い馬を輩出していることから、ダートで使うことを想定した配合だったのでしょう。それを証明するかのように、彼の戦績を見ると通算33戦の中で芝を走ったことは1度もありません。後述のように、走る予定はあったようですが……。

コパノリッキー誕生には、逸話がありまして、オーナーのDr.コパこと小林祥晃氏がTwitterで披露してくださっています。

彼の母コパノニキータという馬は、1歳時に脚が曲がっていて売れないと判断されて処分される予定でした。ですが、この時に彼女を買い取って救ったのが、後にリッキーのオーナーとなる小林祥晃氏です。価格はわずか10万円、サラブレッドとしては信じられないぐらいの安さです。彼女はデビューしてからも心房細動で命の危機に陥りますが、中央競馬で22戦3勝の成績を上げて繁殖入りを果たしました。10万円の購入金額に対して獲得賞金は3795万円、オーナーとしてはこの時点で十分お買い得な結果になったと言えるでしょう。そして、2010年に生まれた第3仔がリッキーでした。

※参照:https://togetter.com/li/773982より

デビューから1度目の骨折、低迷

成長したリッキーは村山明厩舎に入厩し、2012年12月22日に阪神ダート1800mの新馬戦で、鮫島良太騎手を背にデビューしました。この時は人気も無く8着に敗れました。

しかし年明けの未勝利戦。

こちらでも人気はしませんでしたが、それをひっくり返して勝利しました。

その後も1400mの500万下1着、OPのヒヤシンスSで3着、伏竜Sで1着と、安定した成績を残してGII兵庫チャンピオンシップで重賞を初制覇。順調にダート界の出世街道を歩み続けました。

一緒に戦った同世代の馬には、ベストウォーリア(後に南部杯連覇でGIを2勝)、インカンテーション(後に重賞6勝、フェブラリーS2着など)、アップトゥデイト(後に中山大障害、中山グランドジャンプでJ・GI2勝、当時は全日本2歳優駿3着などダートの有力馬だった)などが居ます。

しかしこの勝利の直後、彼に悲劇が襲い掛かります。右前トウ骨骨折で全治半年──これにより、予定していた日本ダービーへの出走は叶わなくなり、さらには7月のジャパンダートダービーにも間に合わないということになってしまいました。これによって一旦『出世街道』から外れた道を歩むことになってしまいました。

※右前トウ骨:人間で言うと右腕の前腕の親指の方の骨。

※ジャパンダートダービー:毎年7月に大井競馬場で行われるGI競走。3歳ダートの頂点を決める。

半年後、彼はOP特別の霜月ステークス(東京ダート1400m)で復帰したものの、10着と惨敗。年末にはフェアウェルステークス(中山ダート1800m)にも出走しましたが、またしても9着と大敗を喫しました。

春の快進撃が嘘だったかのように負け続け、3歳シーズンを終えました。

転機と激走

古馬となってから、陣営はある選択に迫られました。

──このまま中央で戦うか、地方競馬に移籍して再起を図るか。

収得賞金の関係で、4歳の5月まではOP馬としてはやや少な目の収得賞金額でレース選択をしなければならず、さらに6月以降は降級で準オープン馬となってしまいます。これではGIはおろかJRA、地方交流の両方の重賞にも出ることが難しくなります。そのため、地方競馬に移籍してそちらで戦った方がこの馬のためではないかという話が出ていました。実際にこの時、大井競馬場の某厩舎に移籍する話が出ていた、という噂も耳にしています。

そんな彼のもとに、朗報が飛び込んできました。

GIフェブラリーSの抽選をくぐり抜けて、出走できることになったのです。この時に抽選に落ちて出られなかったのは同期のケイアイレオーネで、後に大井の佐宗厩舎に移籍してリッキーら中央勢と戦うことになります。

せっかくの機会を「記念出走」で終わらせるわけにはいかないと、陣営は意気込んでいました。しかし周りの評価は「勝負にならないのでは?」という低調なもの。

当時ダート界のトップホースであったホッコータルマエ、そのタルマエをジャパンカップダートで破ったベルシャザール、古馬相手にOP勝ちしたベストウォーリア、酒井学騎手との名コンビで知られる二ホンピロアワーズなど……。

オープン競走で惨敗が続いたリッキーに付け入るスキはなさそう……大多数の競馬ファンの意見は、懐疑的なものでした。

レースはエーシントップが先頭に立ち、リッキーは2番手、その1馬身後ろ位の外目にホッコータルマエ、さらにもう1列後ろに内からベストウォーリア、二ホンピロアワーズ、ベルシャザールが並ぶといった展開で進みます。

4コーナーを回ったところでも、各馬追い上げを始めるものの隊列は変わりません。

残り400mより少し前ぐらいで、リッキーはエーシントップをかわして先頭に立ちます。その後ろ1馬身差ぐらいのところまでホッコータルマエが既に来ており、少し後方ではベルシャザールも十分差し切れそうな手応えであがってきています。

そうした状況で、大多数のファンは「このままかわされるだろう、人気が無いけど見せ場は十分だった」という印象を持ちつつ、タルマエとベルシャザールが来るのを待っていたに違いありません。

残り200m、リッキーがさらに一伸びしてタルマエを振り切ろうとします。しかしタルマエも幸騎手のムチに応えて追い縋る。ベルシャザールは少し伸びを欠いて3番手までぐらいといったとこほ。恐らくこのあたりで、観客の多くがようやく気付いたのでしょう。

とんでもない大波乱になりそうだ、と。

結局ゴールまでタルマエはリッキーをかわせずに、半馬身差の2着となりました。

最低人気の馬がG1勝利、これはJRA史上4回目の事です。また、これが鞍上の田辺裕信騎手にとってはGI初勝利、小林祥晃オーナーにとっても中央競馬のGI初勝利となりました(地方競馬では、2009年にラブミーチャン号が全日本二歳優駿で勝利)

リッキーの入線後は、東京競馬場は大歓声……、ではなくタルマエとベルシャザールが負けたことによる動揺で大きなどよめきが起きていました。

ダート界のトップホースとして

フェブラリーS勝利後、コパノリッキーはかしわ記念に向かいます。

この時は2番人気で、1番人気は前走で下したワンダーアキュートでした。前走の勝利はフロックという評価もあったのでしょう。

レースは若干出負けし、前に3頭を置いての競馬となります。しかし3コーナーあたりから捲って先団に取り付くと、直線で伸びて快勝します。

これでGI2勝目とし、前走がフロックでないことを証明しました。次走の帝王賞はワンダーアキュートの2着となりますが、上半期のダート戦線で強さを見せ続けました。

次走に選んだのは盛岡2000mで開催されたJBCクラシック。

ここでは距離が長いと思われたのか、クリソライト・ワンダーアキュートに次ぐ3番人気となりました。しかし、そのレースをレコードタイムで完勝します。この時にはホッコータルマエ(4着)も破り、リッキーがダート界の新王者かと思われましたが──しかし、それは後述の事情によりチャンピオンズカップ以降への持ち越しとなります。

そのチャンピオンズカップでは1番人気に押され、10ヶ月前のフェブラリーステークスと全く逆の立場でレースに臨むことになりました。しかし、ゲートで出負けし後方に置かれ12着と惨敗。勝ったのは、完全復活したホッコータルマエでした。

ここからリッキーとタルマエの因縁の対決が続きます。

ホッコータルマエに対して「完全復活した」という表現を使いましたが、実はタルマエはドバイWC出走後に命に関わる重病を現地で発症し、帰国後もなかなか復調していませんでした。しかし、一走して勝負勘を取り戻した彼は、リッキーに対して敢然と立ち向かい続けます。

次走の東京大賞典は、リッキーが逃げてタルマエが2番手から追いかける展開となりました。3コーナーあたりから並びかけてそのまま直線に併入、2頭のマッチレースと化します。

しかし、直線半ばでタルマエが出るとそのまま突き放されて2着と敗れました。

1年間でGI級競争3勝、2着2回の好成績を収めて一躍ダート界のトップクラスに躍り出たリッキー。しかし頂点の座は、タルマエと分け合う形になりました。

年が明けた2015年1月。

リッキーは東海ステークスに登録されました。鞍上はミスターJRAこと武豊騎手。

乗り替わった年明け初戦を勝利して、彼はフェブラリーSに臨みます。そしてそこで見事に勝利。これでGIは4勝目となり、名実ともにダート界のトップに立ったと思いきや──そのメンバーに、タルマエの名前はありませんでした。因縁のライバルは、ドバイ遠征のためフェブラリーSを回避していたのです。

直接対決は、次のレースに持ち越しとなりました。

しかし、コパノリッキーには更なる試練が待ち受けていたのです。

写真:ゆーた、sa(@sa_nekotaisho)

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