エイシンプレストン~若き日の福永騎手を育てた"栄進寳蹄"〜

1995年にフジヤマケンザンが香港国際カップを優勝して以降、日本の競馬ファンにもすっかりお馴染みとなった香港競馬。中でも、12月に行なわれる香港国際競走の各レースは、日本のみならず、世界各国から強豪が集結。今や日本でも馬券の購入が可能で、毎年のように熱いレースが繰り広げられている。

2021年現在、日本調教馬で海外GⅠを最も多く制したのは、モーリスとエイシンプレストンの2頭。ともに海外のGⅠを3勝しているが、そのすべてが香港のレースだった。

今回はその中でも、暑い夏場に復調のきっかけを掴み、やがて彼の地でビッグタイトルを獲得するに至った、エイシンプレストンの馬生を振り返りたい。

父の現役時をなぞるように活躍した2歳シーズン

エイシンプレストンは、米国生まれの外国産馬。父のグリーンダンサーは、2歳時にGⅠを制すと、翌年のフランス2000ギニーとリュパン賞までGⅠ3連勝した活躍馬だった。この年いっぱいで引退したため、戦績で言えば早熟型とも言える。

種牡馬としても、凱旋門賞を勝ったスワーヴダンサーを輩出するなど成功。日本では、菊花賞と天皇賞を制したスーパークリークの父の父として有名で、同じく菊花賞と天皇賞を制したフィエールマンの母の父の父も本馬である。そんな、日本競馬にも馴染み深いグリーンダンサーが、なんと24歳の時に種付けを行い、1997年に生まれたのがエイシンプレストンである。

ただ、血統だけでいえば、グリーンダンサーはいわゆる欧州のスタミナ血統。前述した2頭のように、日本の競馬でその血を引く馬は、どちらかといえば、3歳秋以降に良くなる晩成型にでやすい。ところが、当のエイシンプレストンは、父の現役時をなぞるように2歳戦からその能力を全開させた。

初戦は、1999年11月京都の新馬戦。その背には、管理する北橋修二調教師の弟子で、当時デビュー4年目の福永祐一騎手が跨がっていた。このレースこそ、ダイタクリーヴァ(翌年の皐月賞2着馬)の2着に敗れたものの、2戦目は5馬身差で圧勝。そのまま、GⅠの朝日杯3歳ステークスへ駒を進めたのである。

どの馬にとっても、生涯最初の晴れ舞台。そこで人気を集めていたのは、地方・笠松所属ながらデイリー杯3歳ステークスを完勝したレジェンドハンター。一方、初勝利を挙げたばかりのエイシンプレストンも4番人気で、主役不在の混戦というのが大方の予想だった。

ゲートが開くと、ダンツキャストが大逃げを敢行した。前半800m通過が45秒1、1000m通過も57秒1の超ハイペース。それを、4コーナー手前からレジェンドハンターが捉えにかかり、直線は乱戦の気配漂う展開となる。

しかし、こういった厳しい流れで強さを発揮するのがヨーロッパ血統の持ち味。早目先頭から押し切りを図るレジェンドハンター目がけ勢いよく追い込んできたのは、エイシンプレストンとマチカネホクシンの外国産馬2頭。特に、4コーナーをロスなく回ったエイシンプレストンの末脚が目立ち、あっさり突き抜けそうな勢いだった。

──ところが、道中のハイペースがボディーブローのように効きはじめ、一度、坂の途中で脚が鈍ってしまう。それでも、なんとか父譲りの底力で持ち堪えると、坂を上ってから再び加速。最後の最後、ゴール寸前でレジェンドハンターを交わしさり、見事1着でゴールイン。デビューからわずか36日。驚くべき早さで、GⅠウイナーへと駆け上がったのだ。

開業22年目の北橋調教師にとっても嬉しいGⅠ初勝利となり、その勲章をもたらしたのは、同年の桜花賞で先にGⅠ制覇を成し遂げていた弟子の福永騎手。喜びもひとしおだったに違いない。

ケガの先に待っていた、長く暗いトンネル

迎えた3歳春シーズン。
当時、外国産馬にはクラシックへの出走権がなかったため、エイシンプレストンの最大目標は、NHKマイルカップに置かれた。

年明け初戦のきさらぎ賞こそ8着に敗れるも、続くアーリントンカップとニュージーランドトロフィーを連勝。大本命馬として本番を迎えるはずだった。

ところが──。

好事魔多しとは、このことか。大一番を前に骨折が判明したエイシンプレストンは休養を余儀なくされ、春シーズンを棒に振ってしまったのだ。幸いにも程度は軽く、10月のスワンステークスから、秋の最大目標に定めたマイルチャンピオンシップへ向かうローテーションが組まれた。

しかし、その復帰戦で6着に敗れると、マイルチャンピオンシップも突き抜けることができず5着と連敗。続く年明けの京都金杯ではなんと14着に大敗し、ダートに活路を求めた根岸ステークスも、まったく適性を見せることなく12着に敗れたのである。

その後、ダービー卿チャレンジトロフィーで2着に好走したものの、前年秋のスワンステークスからこの年の安田記念まで8連敗。まさかの結果に終わってしまったのだ。

ケガが尾を引き、歯車が狂ってしまったのか。

はたまた、父と同様に早熟だったのか。

デビュー3戦目から一貫して重賞に出走してきたエイシンプレストンは、ここでオープンの米子ステークスに出走することになった。

当時の阪神1600mは、得意とする中山1600mと似たコース形態で、頭数も手頃な12頭立て。1番人気は、わずかの差でメイショウキオウに譲ったものの、陣営にとっては確勝を期す、負けられないレースだったに違いない。

復活を期すこのレースのスタートで、いきなり2馬身ほど出遅れてしまったエイシンプレストン。ただ、挽回を図るために出鞭を入れられると、すぐさま中団まで盛り返し事なきを得た。その後は、遅い流れでレースは推移。終始手応えは楽なまま、最後の直線勝負を迎える。

直線で、馬場の中央に持ち出されたエイシンプレストンだったが、先行馬の脚色もなかなか鈍らず、思ったほど前との差がつまらない。それでも、過去の栄光を思い出すように、坂を上ってから一気に加速。ゴール前50mで、粘るヒコーキグモを捉えると、トッププロテクターの追撃も封じ、1年2ヶ月ぶりに先頭でゴールを駆け抜けた。

重賞ではないオープンとはいえ、勝つことを思い出すようなレースができた点に意義があった。エイシンプレストンの後の活躍を考えた際、この米子ステークスは、非常に大きな分岐点だったに違いない。

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