その日、淀の空は晴れ渡っていた。
ファンファーレに手拍子が重なってゆく。京都競馬場のメインスタンドをぎっしり埋めた大観衆の視線の先には、噴水がもたらすさざ波が銀色に瞬く水面。そのさらに先、向正面のターフの緑に、つるべ落としの秋の陽が、ゲートの、そして18組の人馬の影を長々と映し込む。
春の中山、そして初夏の府中を経た三冠街道の終着地。
直前の故障判明に伴う東京優駿ディープブリランテ無念の回避を受け、ファンの期待を一身に集めたのはゼッケン1番。白い帽子に紅の勝負服、いまだ灰色の「金の船」だった。
そして私に競馬の魅力を教えてくれたステイゴールドの仔、皐月賞馬ゴールドシップだった。
長くて短い3分間のドラマ。第73回菊花賞のゲートが開いた。ゴールドシップは五分のスタートから最後方へ。9度目の航海が、はじまった。
今更であるが、ステイゴールドがラストランの香港ヴァーズに出走するにあたり、「黄金旅程」という表記を編み出した香港競馬関係者には、いちライトファンとして勝手ながら、心からの感謝の念を捧げたい。
50戦という長い長い競走生活を「旅程」の2文字で表現してくれたからこそ、引退レースでの大団円に「長い旅の終わり」という意味が加わり、さらにはその血を引く仔、孫の馬名に込められる関係者の思いも、大きく広がりを見せたのだから。
最たる例が、記憶に新しい、2023年の凱旋門賞。
ステイゴールド産駒初のGⅠ馬、「黄金旅程」から着想を得て命名されたドリームジャーニー(馬名の意味由来:夢のような旅路)を父に持つ、スルーセブンシーズ(同:七つの海を越えて)が、文字通り大海原を越えて、単騎遥かフランスへ渡り、夢に挑み、馬群をこじ開けて前に迫った。その勇敢な挑戦は、四半世紀以上の時をかけて祖父、父、そして仔へと馬名に連綿と刻まれた「旅路」とともに、競馬ファンの記憶に深く刻み込まれたことだろう。
そして、ゴールドシップ(同:黄金の船)も、父の「旅程」と、母ポイントフラッグを遡ってつながる日本競馬母系根幹の一つ「星旗」の名から、舳先に旗を掲げ、次の目的地に向かって大海原を旅する雄大な船のすがたが脳裏に浮かぶファンの方も多いのではないだろうか。
2歳夏の北海道シリーズでデビュー2連勝と、順調な「船出」を果たしたゴールドシップ。札幌2歳S、そして年末のラジオNIKKEI杯2歳Sと、ともに差し届かずの2着惜敗を経て、待望の初重賞制覇は3歳冬の府中・共同通信杯。
新コンビの内田博幸騎手がスタート直後からエンジンを全開にさせようと手綱をしごきにしごくと、檄に応えたゴールドシップはなんと好位につけ、そしてその末脚は、直線キレにキレた。1000m62秒6という超スローペースを利して逃げ込み濃厚に見えたディープブリランテを、上がり3F33秒3の末脚で並ぶ間もなくかわし去っていくゴールドシップ。西日を真正面から受け、四肢を一杯に伸ばし切ってターフの上を滑るように走りゆくその姿は、私には水面を切り裂いて進む白い水中翼船のように見えた。
そして、もはや語りつくされたであろう、伝説の皐月賞。
重く、荒れた馬場を考慮してか、外へ、外へと追走馬群が流れていく中、内田博幸騎手とゴールドシップは何一つ遮るもののない馬場の内側に飛び込んで、ぶち抜いて、突き放していった。満開の桜を背景に、1頭だけ、ポツンと内を、ひときわ深い内傾角度で4コーナーを回ってくるその人馬の姿に、私は(右左の周回の別はあれど)、渾身のモンキーターンで差しを決めるボートレーサーの姿を重ねていた。
菊花賞は1周目のスタンド前を流れていく。ゴールドシップは最後方から、ダノンジェラートをかわして17番手。
──さぁ、今日は、どこで動くかゴールドシップ。
最後の直線まで脚を溜め、直線ですべてを吞み込むか。
はたまた3コーナー、下りを利用して一気に外からまくりの手に出るか。
どちらにしても、不利さえなければ突き抜けてくれる…私は、そう確信していた。何せそれまでのゴールドシップは、最後の直線では必ずその順位を上げ、他の馬に抜かれたことが、ただの一度もなかったのだから。
後ろを離して逃げの手に出たビービージャパン。芦毛のトリップが2番手追走。フジマサエンペラーに続いて弥生賞馬コスモオオゾラが内。タガノビッグバン、アーデント、ニューダイナスティ、ミルドリーム、マウントシャスタと外に位置どる。
向こう正面に入って、中段内からもう1頭のステイゴールド産駒フェデラルホール、青い帽子はエタンダール、さらにスカイディグニティ。後方からユウキソルジャー、内ロードアクレイム、ベールドインパクト、ラニカイツヨシ。そして、ゴールドシップ。
…次の瞬間、スタンドからどよめきが上がった。
そしてそのどよめきが、一気に大歓声に変わる。
ゴールドシップが、動いた。
緑のターフを、西日を真正面から受けて、白く輝く馬体が駆けてゆく。
その姿は、幾重にも純白の横帆をかけて、優雅に、力強く、大海原を進む帆船の如し。
大歓声に込められたたくさんの夢を、追い風としてその満帆にはらみ、ゴールドシップは一気に進出を開始した。
のちにゴールドシップの代名詞の一つとなり、今ではその産駒も時折見せる"向こう正面からの大まくり"。
競馬場の大観衆が、そして、ウインズで、自宅で、菊花賞を観戦していた日本中の競馬ファンが目の当たりにしたのは、この時が、初めてのことだった。こんな競馬をするとは、少なくとも私には、全く想像ができなかった。
最後方のダノンジェラートを映す暇も与えられず、実況映像のカメラは、前を呑み込むゴールドシップの姿を追いかけるように前へ、前へとパンしてゆく。気が付けばゴールドシップは好位に取り付き、先頭の背中を射程圏内にとらえていた。
3コーナーでは4番手。坂を下って4コーナーではもう2番手。
それまで"最後の直線では必ずその順位を上げ、他の馬に抜かれたことが、ただの一度もなかった"ゴールドシップが、4コーナー2番手にいるということは、それ即ち「1着」である。
ビービージャパンを交わして刹那先頭に立ったマウントシャスタを次の瞬間に置き去りにすると、淀の直線は、ゴールドシップのものになった。いずれも後方に控えていた2着スカイディグニティを1馬身3/4、3着ユウキソルジャー以下をさらに2馬身置き去りにして、喝采の中、ゴールドシップは二冠馬となった。
勝ち時計3分2秒9は、当時のレースレコードにコンマ2秒、前年のオルフェーヴルとも遜色のない好タイム。
しかも1000mごとのラップ「60.9-61.2-60.8」というまったく息の入らない(向こう正面で先頭から4番手までに位置していた馬が軒並み上がり3F41秒以上要するほどに消耗するような)イーブンペースを、ゴールドシップは"ひたすらスタミナと末脚を温存して最後に差し切る"形ではなく、レース中盤から自ら動いて前をねじ伏せた。恐るべきスタミナ、そして、スピード持続力であるといえよう。
そして父ステイゴールドは、前年三冠を制したオルフェーヴル、そしてゴールドシップが5着に敗れたダービーでディープブリランテを鼻差追い詰めたフェノーメノも加えて、この2年間の牡馬三冠を6戦5勝2着1回と席巻。その地位をさらに盤石なものとした。ステイゴールドをただ応援し続け、(単なるいちファンとして)その血に手前勝手な夢を託し続けてきた私ではあったが、ステイゴールドの血がもたらす現実は、その夢すらも軽々と超えてきた。そしてその超現実は、今もなお続いている。
2012年10月21日、第73回菊花賞。
ゴールドシップはただひたすらに、強かった。
ようよう白くなりゆく「金の船」は、その後、時に満帆に順風を受けて輝き、時にその風に抗い、時に荒波にもまれ、時に錨が水底に絡み、そして「愛さずにいられない」存在に昇華してゆく。
その旅程は、その大航海は、いまだ始まったばかりだった。
写真:水面、Horse Memorys、math_weather
ゴールドシップの魅力や強さの秘密、ライバルたちにスポットをあてた新書『ゴールドシップ伝説 愛さずにいられない反逆児』が2023年5月23日に発売。
製品名 | ゴールドシップ伝説 愛さずにいられない反逆児 |
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著者名 | 著・編:小川隆行+ウマフリ |
発売日 | 2023年05月23日 |
価格 | 定価:1,250円(税別) |
ISBN | 978-4-06-531925-3 |
通巻番号 | 236 |
判型 | 新書 |
ページ数 | 192ページ |
シリーズ | 星海社新書 |
内容紹介
気分が乗れば敵なし! 「芦毛伝説の継承者」
常識はずれの位置からのロングスパートで途轍もなく強い勝ち方をするかと思えば、まったく走る気を見せずに大惨敗。気性の激しさからくる好凡走を繰り返す。かつてこんな名馬がいただろうか。「今日はゲートを出るのか、出ないのか」「来るのか、来ないのか」「愛せるのか、愛せないのか」...。気がつけば稀代のクセ馬から目を逸らせられなくなったわれわれがいる。度肝を抜く豪脚を見せた大一番から、歓声が悲鳴に変わった迷勝負、同時代のライバルや一族の名馬、当時を知る関係者・専門家が語る伝説のパフォーマンスの背景まで。気分が乗ればもはや敵なし! 芦毛伝説を継承する超個性派が見せた夢の航路をたどる。