サクラチトセオーにトロワゼトワル……京成杯AHで、ハンデを味方につけた馬、跳ね除けた馬。

秋競馬の開幕を告げる京成杯オータムハンデ。筆者が真っ先に思い浮かべるこのレースのイメージは、タイムが非常に早くなるということ。皐月賞以来、およそ5ヶ月ぶりの開催で、馬場はいわゆる「パンパン」の状態。JRAレコードが出ることも珍しくない。

古くは、名牝ダイナアクトレスが1分32秒2という驚異的なタイムで優勝し、7年後に、サクラチトセオーがこのタイムを更新。2003年には、ゼンノエルシドが同競馬場初の1分31秒台を記録して重賞初制覇を成し遂げ、9年後、レオアクティブがJRAで初めて30秒台に突入する、驚愕の1分30秒7を記録。そのレコードも、現在はトロワゼトワルによってさらに0秒4更新されている。

とはいえ、このレースの本質は、レース名のとおり軽ハンデをどれだけ活かすか。もしくは、重いハンデをいかにして克服し、好結果が得られるかだろう。

そこで今回は、過去にこのレースで軽ハンデを利して激走した馬や、重斤量をはね除けて好走した馬を振り返ってみたい。

アイランドゴッテス(56kg)

タイムが早くなること以外に、リピーターが強いのも特徴の一つ。レース名がまだ京王杯オータムハンデだった時代、2年連続で好走を果たしたのがアイランドゴッテスだった。

アイランドゴッテスは、3歳時に、桜花賞やオークスにも出走するような素質馬だったが、桜花賞は2番手追走から、オークスはハイペースで逃げ、ともに大敗。その後、長期の休養に入っていた。

復帰したのは、翌2月。その初戦こそ7着に敗れたものの、休み明け2戦目から結果を出し始め、格上挑戦で出走した前走の関屋記念で重賞初制覇。その次走、3連勝を懸けて挑んだのが、86年の京王杯オータムハンデだった。

この年は、8頭立ての少頭数ながら、5頭が重賞ウイナーという豪華な顔ぶれ。牡馬と牝馬の割合が半々というメンバー構成の中、トップハンデを背負ったのは、2月に目黒記念を制した4歳牡馬のビンゴチムールで57kg。とはいえ、タカラスチールの56.5kgを筆頭に、アイランドゴッテスとダイナシュガーも56kgを背負い、アローワンスの2kg差を考慮すれば、どちらかというと、牝馬に重い斤量が課されていた。

結果は、この年ダイナガリバーでダービーを制した増沢騎手騎乗のアイランドゴッテスが逃げ切り勝ち。重賞2連勝となり、牝馬が4着までを独占したのだ。

ちなみに、2着に降したダイナシュガーは、05年に高松宮記念を制したアドマイヤマックスの母で、孫のラインクラフトは、その2週間後に桜花賞を勝利。さらに、3着のタカラスチールは、2走後にマイルチャンピオンシップを勝ってGIタイトルを獲得するなど、このレースの意義は非常に大きいものとなった。

それもあってか、翌年、連覇を目指して出走したアイランドゴッテスはさらに斤量を1キロ加増され、57kgのトップハンデが課された。さすがにこの時は、日本レコードで圧勝したダイナアクトレスに3馬身半離されたものの、2着をしっかりと確保。前年覇者の意地を見せた。またこの年も、出走10頭中6頭出走していた牝馬が5着までを独占。この時代には珍しく、牝馬が大活躍する重賞となったのだ。

サクラチトセオー(58kg)

前述したタカラスチールのように、このレースを経た後に、GIタイトルを獲得した馬も多い。その代表格が、サクラチトセオーではないだろうか。

92年10月。トニービンの初年度産駒の1頭としてデビューしたサクラチトセオーは、新馬戦を快勝すると、2戦目のひいらぎ賞では、1位で入線したカノープスが13着に降着。繰り上がりで勝利し、結果的には、2戦2勝で2歳シーズンを終えた。

しかし、3歳時は一転して思うようなレースに出走することができなかった。青葉賞を取り消した後、万全ではない状態で出走したNHK杯(当時はダービートライアルのGⅡ)で3着となり、辛くもダービーの出走権を確保したものの、本番は11着に大敗。その後は腰の状態が良くないこともあり、以後、シーズンは全休することになってしまった。

そんなサクラチトセオーが戦列に復帰したのは、4歳の2月。休み明け2戦目のテレビ埼玉杯を勝利すると、格上挑戦で挑んだ中山記念も連勝し、一気に重賞ウイナーの仲間入りを果たしたのだ。

その後は、オープンを2、1着と好走。続く宝塚記念で、ビワハヤヒデの6着と敗れた後に出走したのが京王杯オータムハンデだった。

GⅡウイナーで実績上位の存在とはいえ、トップハンデの58kgを背負ったせいか、わずかの差で1番人気をエアリアルに譲ったサクラチトセオー。道中は、前が800m通過45秒7、1000m通過57秒1と飛ばす展開を、後ろから2番手の位置取りでレースを進めていた。

その後、4コーナー手前から進出を開始し、逃げるプリンセストウジンをおよそ3馬身の圏内に捉えて迎えた直線。坂下でエンジン全開となると、残り100mで先頭。そこから後続を引き離すのにやや手間取ったものの、差されるような雰囲気はまるでなく快勝。

勝ちタイムの1分32秒1はJRAレコードのおまけ付きで、見事、2つ目の重賞タイトルを手にしたのだ。

その後の天皇賞秋は6着。オープン1着を挟んで出走した有馬記念も6着だったが、年明けのAJCC快勝し重賞3勝目。さらに、中山記念2着の後に臨んだ安田記念では、善戦したものの、ハートレイクにわずかハナ差及ばず2着。しかし、ビッグタイトルまではあと一歩のところまで迫っていた。

その後、宝塚記念が7着、毎日王冠も4着と今一歩のレースが続いたものの、秋2戦目の天皇賞秋で、ついに自慢の剛脚が炸裂。皐月賞馬のジェニュインをゴール寸前で捉えるなど、直線だけで15頭を差し切って優勝。引退レースの有馬記念も3着に好走し、この年のJRA賞最優秀5歳以上牡馬(現・最優秀4歳以上牡馬)に輝いたのだった。

トロワゼトワル(52kg)

牝馬ゆえ軽量とはいえないかもしれないが、52kgの斤量を味方につけ、スピードに任せて逃げまくったのがトロワゼトワルである。

父のロードカナロアと同様、栗東の安田隆行厩舎からデビューを果たしたトロワゼトワルは、2歳7月に中京芝1600mの新馬戦を勝利。幸先の良いスタートを切ったように思われた。

しかし、重賞やオープンで4、5、4着と善戦したものの、勝ち切れないレースが続くと、そこから1200mに主戦場を移し、通算7戦目でようやく2勝目を挙げる。さらに、4戦で2勝クラスを突破すると、3勝クラスはわずか2戦で卒業しオープンに昇級。古馬となって初めて重賞に挑戦したのが、19年の京成杯オータムハンデだった。

この時トップハンデを背負ったのは、3年前の覇者で、57kgの6歳牡馬ロードクエスト。対するトロワゼトワルは52kgで、プールヴィルと並び、最も軽い斤量に設定されていた。

レースは、好スタートから先頭に立ったトロワゼトワルが、ペースを全く緩めることなく逃げまくる展開。2ハロン目から4ハロン目まで10秒台のラップが続き、800m通過は44秒2、1000m通過も55秒4という、千直レース並みの猛ラップとなった。

3~4コーナー中間の勝負所に差し掛かり、依然として単騎大逃げの様相は変わらなかったものの、直線早々に失速する姿を想像した人は少なくなかったはずだが……。そこからが、まさに横山典弘騎手の真骨頂たるところ。4コーナーでわずかに息を入れたことにより、一度は後続との差が3馬身に縮まるも、直線に向くと再加速。坂下で2番手との差を5馬身に広げ、あとは開幕週の良馬場を味方に独走。

坂を駆け上がった後も差はなかなか縮まらず、終わってみれば、2着ディメンシオンに3馬身半差をつける完勝。勝ちタイムは、1分30秒3という驚異的なJRAレコードで、重賞初制覇を飾ったのだ。

この勝ちっぷりからも「マイル路線に新星現る!」と思われた。

──しかし、レースの反動が出たのか、それまで14戦して一度も掲示板を外していなかったトロワゼトワルは、3ヶ月後のターコイズステークスでよもやの16着に大敗。4ヶ月後の阪神牝馬ステークスも15着に敗れたが、一転して、ヴィクトリアマイルではアーモンドアイの4着に好走した。そこで復調したように思われるも、中京記念では17着に大敗。しかし、続く関屋記念では挽回して2着と、なんともアップダウンの激しいレースが続く。そして、連覇を目指し、前年から3キロ増の55kgで臨んだのが、2020年の京成杯オータムハンデだった。

この時は、1年前と対照的に「非常におとなしくて、いい感じで大人になっていた」と、後に振り返った横山典弘騎手。道中は、大外から逃げるスマイルカナの2番手につけ迎えた直線。

3番手を追走していたボンセルヴィーソとともに前を追うも、さすがに相手は桜花賞3着馬で、なおかつ52kgと斤量にも恵まれているスマイルカナ。坂を上ったところで二枚腰を発揮され、もはやこれまでと思われたものの、ゴール寸前で際どく交わし3頭のマッチレースにハナ差勝利。見事、レース史上4頭目の連覇を達成したのである。

オラトリオ(51kg)

データが残っている1986年以降、出走馬同士の斤量差に最も開きがあったのが、1990年のレースである。

この年のトップハンデは、前年の京王杯スプリングカップを制し、オープンのパラダイスステークスを勝利してきたリンドホシで58kg。反対にハンデが最も軽かったのは、3歳牝馬のサファリキャップで48kg。実に、10kgの斤量差があった。

ただ、1番人気に推されたのは、休み明けの関屋記念で5着となり、調子を上げてきた57kgのトウショウマリオ。2番人気は、CBC賞と関屋記念で連続して3着となり、念願の重賞初制覇に挑む、56kgのダイワダグラスだった。

レースは、当初サファリキャップが緩やかなペースで逃げていたものの、中盤でもペースを落とさず、800m通過が45秒8。そして、1000m通過はなんと57秒1という、現在でも間違いなくハイペースと判定されるようなペースで逃げる展開。

一方で、上位人気の2頭はそれぞれ2、3番手につけ、ハンデ頭のリンドホシは、中団7番手からレースを進めていた。その後、迎えた直線。抜け出したのは、トウショウマリオとダイワダグラスに、ハンデ51kgで9番人気のオラトリオ。そこからトウショウマリオが脱落し、代わって後方から差してきたのは、なんと50kgのリオデラプラタで、最終的には3頭横一線のゴールイン。

写真判定の結果、ハナ、ハナの大接戦を制したのは、9番人気のオラトリオだった。

この時、オラトリオに騎乗していたのは、当時デビュー2年目の田中勝春騎手で、これが嬉しい重賞初制覇。近2走は、格上挑戦ながら巴賞で5着、函館記念も14着と敗れていたものの、軽量を活かして中山で変わり身を見せ、見事に重賞を制したのだった。

一方、大接戦の2着となったリオデラプラタも格上挑戦。900万条件(現・2勝クラス)を勝利したばかりで、こちらも50kgの軽量を活かし、見事に結果を残した。

そんなリオデラプラタに騎乗していたのは、当時デビュー4年目の蛯名正義騎手。こちらは、わずかの差でチャンスを逃し、蛯名騎手の重賞初制覇は、1年半後のフェブラリーハンデまで待たなければならなかった。しかし、以後の同騎手の大活躍は、もはや語るまでもないだろう。

結局、後に関東のエースとなる若きホープが騎乗した、格上挑戦の軽量馬が1、2着を独占したのが、90年のレースだったのである。

写真:かず

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