[有馬記念]オグリキャップ、ディープインパクト、ゴールドシップ…… 有馬記念で感動の引退を果たした名馬たち

中央競馬の総決算、有馬記念。近年は、ホープフルSの開催日が中央競馬の最終日となることも多いが、有馬記念を1年の締めくくりと感じているファンも少なくないはずだ。

そして、毎年のようにここを区切りとし、現役生活に別れを告げる馬もいるが、時にそういった馬たちが激走。日本の競馬史を彩るような筋書きのないドラマが、数多うまれてきた。

そんな名場面を目の当たりにすれば、たとえ予想が外れたとしても、素晴らしいレースを見られたと諦めがつき、清々しい気持ちにすらなる。ここでは、有馬記念を最後に感動の引退を果たした名馬たちを振り返っていきたい。

オグリキャップ(1990年)

「名馬が感動の引退を果たした有馬記念」といえば、1990年の有馬記念を外すことは絶対にできない。

引退から30年以上。この世を去ってから10年以上が経過した今なお、日本競馬史上最高クラスのスーパースターであり続けているのがオグリキャップだ。

地方・笠松が生んだ野武士のようなサラブレッドは、12戦10勝の実績をひっさげ、3歳時に中央へと移籍。しかし、クラシック登録がなかったため、裏街道をひた走りながらも、春から秋にかけて重賞6連勝を達成した。

秋のGIは、天皇賞・秋とジャパンカップで惜敗したものの、有馬記念に勝利し日本一を獲得。この頃から、ハイセイコー以来となる第二次競馬ブームが起こりはじめる。

翌1989年は、スーパークリークとイナリワンを合わせた「平成三強」が激闘を繰り返し、第二次競馬ブームは、折からのバブル景気に乗ってさらに加速。その中でも、オグリキャップの存在は際立ち、日本列島全体を熱狂の渦へと巻き込んでいった。

イナリワンとの叩き合いを制した毎日王冠の死闘。挽回不可能と思われた差を大逆転したマイルチャンピオンシップ。そこから連闘で挑んだジャパンカップで、世界レコードと同タイムの2着に惜敗したレースなど。この秋オグリキャップが走破した6戦は、いずれもが超のつく名勝負。今では、信じられないような事実にして伝説は、この年に数多く生まれている。

ところが、その激闘の影響か。5歳を迎えたオグリキャップに、かつての勢いは見られなくなってしまった。5ヶ月ぶりの実戦となった安田記念こそ、驚異的なレコードで勝利したものの、続く宝塚記念は、圧倒的な支持に応えられず2着。

さらにレース後、骨膜炎を発症すると、その後も様々な箇所に故障が見つかり、秋シーズンは調整が遅れてしまう。結果、天皇賞・秋は6着。ジャパンカップに至っては、生涯初の二桁着順となる11着に敗れてしまった。

そのため、このジャパンカップを最後に引退したほうがよいという声もあがったが、陣営は、有馬記念を引退レースに決定。堂々のファン投票第1位に応える形で、出走に踏み切ったのだ。

鞍上は、安田記念以来2度目のコンビとなる武豊騎手。当時、弱冠21歳ではあったものの、既に数々のGIを制覇。スーパースターへの道を着々と歩み、天才ジョッキーの名を確固たるものにしつつあった。ただ、馬券を買うファンの評価はシビア。オグリキャップは、最終的に4番人気でスタートの時を迎えた。

ゲート入り直前。全盛期によく見られた武者震いのような仕草を見せたオグリキャップは、道中、ちょうど中団7番手でレースを進めていた。超のつくスローペースにもかかわらず、折り合いはバッチリ。実に、気持ちよさそうに走っている。それを察知した超満員の場内からは、徐々に、奇跡が起こるのではないかという雰囲気が漂い始め、2周目の4コーナーでオグリキャップが先頭に並びかけたとき、それは最高潮に達した。

迎えた直線。宝塚記念で先着を許したオサイチジョージを捉え、先頭に躍り出ようとするオグリキャップ。全盛期のような鋭い末脚は見られないものの、坂上で単独先頭に立つと、これが最後のレースであることを分かっているように、懸命に粘り込みを図る。

そこへ、上位人気の3歳馬2頭。メジロライアンとホワイトストーンが襲いかかってきたが、オグリキャップは死力を尽くし、前に出ることを意地でも許さない。かつて、競馬場では上がったことがないほどの大歓声と絶叫。それらを一身に受け、オグリキャップは真っ先に歓喜のゴールを駆け抜けたのだ。

多くのファンが思い描いた奇跡が、まさに目の前で現実となった瞬間――

ゴール後、武騎手が左手で大きくガッツポーズを作り、さらにその数秒後。中山競馬場に詰めかけた177,779名の大観衆から、オグリコールが発生した。

オグリキャップの馬券を買ったファンもそうでないファンも、心の中では、皆が待ち望んでいただろう結末。最後の最後にファンの夢を実現したオグリキャップの現役生活は、最高の形でフィナーレを迎え、ゴールの瞬間と同時に、競馬史に残る伝説へと昇華したのだった。

ディープインパクト(2006年)

オグリキャップと並ぶ近代競馬最大のスーパースターといえば、ディープインパクトで間違いないだろう。

2戦目の若駒Sで披露した驚異的な追込みによって、その名はあっという間に全国に轟き、その後、弥生賞と皐月賞、そしてダービーも連勝。特に、皐月賞のレース後、騎乗した武豊騎手が「走っているというより飛んでいるかんじ」とコメントした頃から、一大ブームが湧き起こりはじめた。

その後、秋には菊花賞を制し、史上2頭目となる無敗のクラシック三冠を達成。有馬記念では、ハーツクライの奇襲に屈したものの、翌年は天皇賞・春と宝塚記念を連勝。世界制覇を成し遂げるべく、凱旋門賞に駒を進めたのだ。

しかし、ロンシャンの長い直線で、代名詞ともいえる「飛ぶ」ような走りは見られず、3着に惜敗。さらに、レース2週間前、咳を止めるために服用した薬がレース後も体内に残留。それが禁止薬物として検出され、失格処分となってしまったのだ。

このとき、既に年内での引退が決まっていたディープインパクトは、カウントダウンとなったジャパンカップを汚名返上とばかりに完勝。その1ヶ月後、生涯最後のレースとなる有馬記念に出走した。

もちろん、この日も圧倒的な1番人気に支持されたディープインパクトは、いつものようにゆっくりとしたスタート。アドマイヤメインが大逃げを敢行する中、後ろから3番手でレースを進める。

その後、2周目の3コーナーからほぼ馬なりで上昇を開始。4コーナーでスパートすると、一気に先行集団まで取り付き、いよいよ離陸体制に入った。

直線を滑走路に見立てて迎えた、現役生活最後の勝負。坂下で十分に「助走」がついたディープインパクトは、先頭のダイワメジャーを並ぶ間もなくかわしさると、翼を広げて一気に飛び立つ。

それは、さらなる輝かしい未来へと旅立つ、英雄のラストフライト。ゴールまでわずか10数秒の出来事だったが、あまりにも美しく優雅な飛行にファンは魅了され、酔いしれた。そのフライトを見届けながら、関係者とファンが互いに抱く、惜別の想いと感謝の想い。そのすべてを乗せたディープインパクトは、まるで「俺の最後の勇姿をしっかり見てくれ」とでも言っているかのように、ゴールまで完璧に飛び切ってみせたのだ。

レース後のインタビューで「今日は本当に強かった。強烈な飛びだった」と振り返った武騎手。その遺伝子は多くの産駒に引き継がれ、種牡馬としても大成功を果たした。

中でも、英語で「飛行機雲」を意味するコントレイルは、2020年に、史上初となる父仔での無敗の三冠制覇を達成。引退レースとなった2021年のジャパンカップで、父と同様に飛ぶような走りを見せ、有終の美を飾った。

オルフェーヴル(2013年)

オグリキャップのように、引退レースの有馬記念で奇跡の復活を果たした馬がいる一方で、生涯、最も強い勝ち方で有終の美を飾った馬もいる。

引退レースとなった2003年の有馬記念をレコードで制し、2着に9馬身差をつけて連覇したシンボリクリスエス。絶対王者のアーモンドアイをはじめとする強豪を破り、2着のサートゥルナーリアに5馬身差をつけ有終の美を飾った牝馬のリスグラシューは、記憶に新しいところだろう。

そして、2013年のオルフェーヴルもまた、これが引退レースとなるには、あまりに惜しい極上のパフォーマンスを演じて見せた。

東日本大震災が発生し、日本列島が未曾有の危機に見舞われた2011年。オルフェーヴルは、史上7頭目のクラシック三冠馬となり、年末には有馬記念も優勝。日本中に、大きな希望と感動、そして勇気を与える存在になった。

翌2012年は、波瀾万丈の1年。2周目の3コーナーでレースを止めようとし、一度は外ラまで逸走しながら再びレースに参加。他馬よりも100m近く余分に走りながら、2着に健闘した阪神大賞典。

続く天皇賞・春は大敗したものの、巻き返して、感動の復活を遂げた宝塚記念。直線で早々に抜け出して後続との差を決定的にし、日本調教馬の悲願なったかと思われた直後、急に内ラチに向かって斜行。ソレミアに大逆転を許し、2着に惜敗した凱旋門賞など。オルフェーヴルほど、敗れたレースでも強さを見せたサラブレッドは、他にいないのではないだろうか。

その後、翌年の凱旋門賞で再び2着となり、引退レースとして出走したのが、2年ぶり2度目の勝利を目指す、2013年の有馬記念だった。

ライバルは、自身と同じく、父ステイゴールド×母の父メジロマックイーンという「黄金配合」を持つ、前年の覇者ゴールドシップ。そして、オルフェーヴルが制したダービーと菊花賞で2着に惜敗し、リベンジに燃えるウインバリアシオンだった。

レースは、超スローだった2年前とは一転、ルルーシュが快調に飛ばし、淀みないペースで流れていた。ウインバリアシオンは、ちょうど中団。ゴールドシップがその2馬身後方を追走し、オルフェーヴルはそれをマークするように、後ろから4番手に控えていた。

その後、2周目の3コーナーで、馬群は一気に凝縮。続く勝負所で馬なりのままオルフェーヴルが進出を開始すると、場内からは大きな歓声が上がり、直線入口で単独先頭に躍り出ると、ファンの興奮はピークに達した。

そこからは、期待されていたパフォーマンスをはるかに超える、オルフェーヴルと池添騎手の独壇場。あっという間に3馬身ほど抜け出すと、カメラは一度、2番手のウインバリアシオンと3番手以下の各馬を捉える。そして、再び先頭を映し出すまでのほんの数秒間で、オルフェーヴルのリードは、なんと7馬身ほどに広がっていたのだ。

それは、どこまでも永遠に走って行ってしまうのではないかと思うほど感動的な強さ。これが最後というにはあまりにも惜しく、同時に寂しすぎる気持ちが胸の中に去来する。そして、その想いが琴線に触れた瞬間。それは大粒の涙に変わり、号泣しながらこのラストランを見届けたファンも、決して少なくなかった。

こうして、人々があまり経験したことがないような不思議な感動へと誘ったオルフェーヴルは、2着のウインバリアシオンに8馬身差をつけ圧勝。引退レースで、競馬史に残るとてつもない強さを見せつけ、惜しまれつつターフを去っていったのだ。

ジェンティルドンナ(2014年)

オルフェーヴルがターフを去った翌年。また1頭の名馬が、有馬記念を最後に現役生活に別れを告げようとしていた。ジェンディルドンナである。

ディープインパクトの2年目産駒としてデビューしたジェンティルドンナは、3歳1月のシンザン記念で重賞初制覇を飾ると、チューリップ賞は敗れたものの、桜花賞、オークスを連勝。秋華賞では、最後の一冠獲りに燃えるライバル・ヴィルシーナとの壮絶な叩き合いを制し、史上4頭目の牝馬三冠を達成した。

その勢いは続くジャパンカップでも止まらず、現役最強馬のオルフェーヴルを、やはり壮絶なデッドヒートの末に撃破。3歳牝馬のジャパンカップ制覇はレース史上初の快挙で、この勝利が決定打となり、2012年の年度代表馬に選出されている。

翌年は、一転して勝ちきれないレースが続くも、史上初となるジャパンカップ連覇を達成。2014年は、春にドバイシーマクラシックを制し、前年2着の雪辱を果たしたものの、帰国初戦の宝塚記念は9着に大敗。その後、天皇賞・秋2着を挟み、3連覇を目指したジャパンカップも4着に敗れてしまう。そして、引退レースとして出走したのが有馬記念だった。

初の中山コースに、5歳という年齢。そして、勝ちきれていない近走。GI・6勝の輝かしい実績があるにもかかわらず、この日の4番人気という評価は、今思えばあまりに低すぎたのかもしれない。当のジェンティルドンナもその評価を知ってか知らずか、パドックで首を激しく上下させ、一見すると、イレ込んでいるかのような素振りを見せていた。しかし、これこそ全盛期のジェンティルドンナが、パドックで頻繁に見せていた仕草だったのだ。

レースは、絶好のスタートを切ったジェンティルドンナがそのまま先行。同じく引退レースとなるヴィルシーナの逃げを前に見て、3番手でレースを進めた。

1周目のスタンド前でペースは落ち着き、ややいきたがる素振りを見せるも、2コーナーで折り合いがついたジェンティルドンナ。その後、2周目の勝負所で一気にペースが上がり、ゴールドシップやジャスタウェイなど、上位人気馬が先団に殺到。それでも、ジェンティルドンナは楽な手応えで2番手に上がり、いよいよ現役生活最後の直線勝負を迎えた。

直線に入ると、一旦はエピファネイアがリードを広げたものの、瞬発力勝負にめっぽう強いジェンティルドンナが徐々に差を詰め、坂上で、ついに先頭へと躍り出た。そこへ、後続からゴールドシップやトゥザワールド。さらにはジャスタウェイが迫るも、かつての走りを取り戻したジェンティルドンナは馬体を併せることすら許さず、冬空の中山競馬場に大歓声が響き渡る中、見事1着でゴールイン。

やや勝利から遠ざかっていた近走、そして4番人気という立場は、まさにあのオグリキャップと同じ劇的なフィナーレ。そして、これが当時の歴代最多タイとなる、芝のGI・7勝目となったのだ。

レース後に行われた引退式では、かわいらしいピンクの帽子をかぶって登場し、お茶目な一面も見せた「貴婦人」ジェンティルドンナ。この勝利で、2年ぶり2度目となる年度代表馬のタイトルも獲得し、それを手土産にターフに別れを告げたのだった。

ゴールドシップ(2015年)

ここまで振り返ってきたのは、引退レースの有馬記念を制し、有終の美を飾った馬たち。その一方で、すべての馬が引退の花道を飾れるわけではなく、むしろ、有終の美を飾ることができない馬が大半である。2015年の有馬記念で現役生活に別れを告げたゴールドシップもそうだった。

ドリームジャーニー、オルフェーヴル兄弟と同じ、父ステイゴールド、母の父メジロマックイーンという「黄金配合」と呼ばれる血統構成を持つゴールドシップは、2011年の夏にデビュー。3歳2月の共同通信杯で重賞初制覇を飾ると、皐月賞、菊花賞を制して二冠を達成し、有馬記念も勝ってこの年GIを3勝。同期のジェンティルドンナに勝るとも劣らない、素晴らしい活躍を見せた。

しかし、古馬となってからは勝利と敗戦を繰り返し、気難しい一面も見せはじめるようになった。GIレースでは、4、5歳時に宝塚記念を連覇。6歳時には、三度目の正直で天皇賞・春を制するなど強さを見せた一方で、3連覇を目指し、圧倒的な人気を背負った宝塚記念で大きく出遅れ。結果、15着に大敗してしまう。

ただ、そんな人間らしい個性や我の強さが多くのファンの心を掴み、年々白さを増す見た目も手伝ってか、ゴールドシップもまた、日本の競馬史に残るアイドルホースとなったのだ。

そんなゴールドシップにも、現役生活に別れを告げるときがやってきた。2015年の有馬記念である。

コンビを組むのは、かつてゴールドシップとともにGIを4勝。2年前のジャパンカップ以来、久々の騎乗となる内田博幸騎手だった。

そんな名コンビのこのレース最大の見所は、2周目の向正面。鞍上の指示に素直に従ってロングスパートを仕掛け、一気に馬群の外を駆け上がっていったゴールドシップ。全盛期を彷彿とさせるようなその走りに、この日一番の歓声が上がった。

ところが、直線に向くと、かつて得意としたはずの坂で伸びを欠き失速。結果8着に敗れ、3年ぶりの有馬記念制覇と、有終の美を飾ることは叶わなかった。

その後、行なわれた引退セレモニー。カクテルライトに照らされ、再び馬場に登場したゴールドシップは、レース後も残っていた大観衆の前を堂々と歩いてみせた。

続いて、ゴールドシップの小林オーナーや、管理した須貝調教師。そして、その背に跨がった経験のある、内田博幸騎手、横山典弘騎手、岩田康誠騎手が壇上に上がり、それぞれがゴールドシップとの思い出を語りはじめた。

3名の騎手の中で、最初に思い出を語ったのは内田騎手。まず、この日のレースについて聞かれ、次に、一番思い出すことはどういったことか、という質問をされたときだった。

実は内田騎手は、2011年に落馬事故に遭い長期離脱。復帰した年に、コンビを組み始めたのがゴールドシップだった。ともに4つのビッグタイトルを獲得した一方で、4歳のジャパンカップで大敗してからは、乗り替わりとなってしまった経緯もある。

そんな苦楽をともにした相棒との数々の思い出が頭の中を駆け巡ったか、我慢していたものが一気に込み上げてきた内田騎手。言葉に詰まり、なかなか話すことができずにいた。ところが、まさに内田騎手が語りはじめようとしたその瞬間、ゴールドシップが大きく嘶いたのだ!

それはまるで「頑張って話せよ!」と、言っているかのような彼なりのエールだった。そして、内田騎手が語りはじめると「ありがとう」という想いを伝えるかのように、再び嘶く。そのメッセージに、ついに涙をこらえることができなくなってしまった内田騎手。人間らしい一面を垣間見せ、頭の良いゴールドシップだからこその、彼なりの別れの言葉。涙なしでは見ることができない、あまりに感動的な名場面だった。

続いて横山騎手の番となり、大出遅れを喫した宝塚記念が一番の思い出と語ると、三度嘶いたゴールドシップ。最後に集合写真を撮影する際も、納得するまで5分以上も輪に加わらず、関係者を困惑させた一方で、心和むような笑いと温かさを見る者に与えてくれた。かつて、こんなにも泣き笑いに満ち溢れた引退式は、おそらくなかっただろう。

写真:s.taka、Horse Memorys

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