[有馬記念]シンボリルドルフにグラスワンダー……有馬記念を連覇した名馬たち。

競馬ファンは勿論の事、多くの日本人に年末の恒例行事として知られている有馬記念。2020年の有馬記念のレース売り上げも464億円と、数多くのJRAのレースの中でも売り上げがひとつ抜けている。「競馬はあまり詳しくはないけれど、日本ダービーや有馬記念は知っている」「毎年このレースだけは見ている」という人もいるだろう。

有馬記念は1956年にプロ野球のオールスターゲームから着想を得て、「ファン投票による出走馬選定」という企画で、「中山グランプリ」の名前で開始。ところが、翌年に提案した有馬頼寧(ありま よしやす)氏が急死。有馬氏の功績を称える意味で1957年からは「有馬記念」という名前に改称され、現在に至っている。

有馬記念を連覇した馬は4頭しかいない。有馬記念を2勝した馬は前記の4頭の他にオグリキャップ(1988・1990年)やオルフェーヴル(2011・2013年)がいるが、連覇となると僅か4頭しかいないのである(2021年現在)

今回は、その4頭を振り返ってみたい。

※馬齢はすべて現在の表記に統一しています。

スピードシンボリ(1969年、1970年)

有馬記念を連覇した最初の馬は、1969年、1970年を制したスピードシンボリ。しかも、スピードシンボリが6歳、7歳で達成した記録である。

2歳の10月にデビューしたスピードシンボリは3歳時には京成杯を制覇。5番人気に支持された皐月賞は21着、日本ダービーは8着に終わったが、菊花賞ではナスノコトブキと僅差の2着に入っている。4歳になると、アメリカJCC、目黒記念(春)、天皇賞・春、日本経済賞(現在の日経賞)と4連勝を飾り、当時の世界競馬では唯一の招待競走・ワシントンDCインターナショナルに出走するために渡米し5着と健闘した。

5歳はアルゼンチンJCC(現在のアルゼンチン共和国杯)を制したものの、3勝に終わったスピードシンボリ。当時の天皇賞は一度勝った馬は出走できないルールがあったので、レースの選択肢が少なくなっていた。そこで、6歳には長期の海外遠征を敢行。キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(5着)や凱旋門賞(11着以下)と、イギリス・フランスを代表するレースにも挑戦した。

凱旋門賞を使った後は第14回有馬記念に出走。欧州遠征の疲れを懸念されたのか、単勝6番人気の低評価でレースに挑んだ。この年は同年の日本ダービーを制したダイシンボルガード、菊花賞を制したアカネテンリュウ、天皇賞・秋を制したメジロタイヨウなどが出走していた。レースでは中団後方にいたスピードシンボリが徐々に進出。最後の直線ではアカネテンリュウとの叩き合いとなったが、最後は僅かハナ(0.0秒)差でスピードシンボリが勝った。

そのまま引退となっても不思議ではない実績を残したスピードシンボリだったが、翌1970年にも現役続行を表明。7歳時には年明けのアメリカJCCを制覇し、さらに宝塚記念も勝利する。ところが、秋になると調子を崩し、55Kgで出走したハリウッドターフクラブ賞(現在の京都大賞典)で7着となり、第15回有馬記念では3番人気と人気は再び落ちた。1番人気はアカネテンリュウ、2番人気には天皇賞・秋を制したメジロアサマ。その他にはこの年の菊花賞を制したダテテンリュウ、春の皐月賞2着のアローエクスプレスなど、メンバーは揃った。

ゲートが開くと、マキノホープ、ハクエイホウ、スイジンが先団を形成する中、アカネテンリュウ、スピードシンボリは後方からの競馬に徹した。2周目の2コーナーではアカネテンリュウ、スピードシンボリは最後方で待機したまま。そして勝負どころの2周目・3コーナーに馬群が差し掛かった。

この時、アカネテンリュウの丸目敏栄騎手は馬群の外へとアカネテンリュウを誘導したのに対し、スピードシンボリの野平佑二騎手は他の馬が嫌がる馬場が荒れたインコースへとスピードシンボリを導く。すると、スピードシンボリはグッと加速。アカネテンリュウは外に回されたのに対し、スピードシンボリは早めに先頭に躍り出たアローエクスプレスをとらえにかかろうとしていた。

残り200mで先頭に立ったスピードシンボリ。しかし、外からはダテテンリュウとアカネテンリュウが猛然と追い込んできた。馬場が荒れているインコースから抜け出した分、スピードシンボリの脚が鈍り、アカネテンリュウとダテテンリュウが迫って来た。しかし、アカネテンリュウにはクビ(0.1秒)差凌ぎ切って、史上初となる有馬記念連覇、7歳馬による有馬記念制覇となった。

生涯成績43戦17勝という記録も凄いが、5年連続となる有馬記念出走は後にコスモバルク(2004年~2009年)に更新されるまで、歴代最多の出走となった。また、2度にわたる海外遠征で培われたノウハウが今日の日本調教馬による海外遠征の成功にもつながっていることだろう。

1989年にスピードシンボリは亡くなったが、1990年に行われた顕彰馬選考ではテンポイントらと共に顕彰馬(馬の殿堂入り)を果たした。そして、野平佑二騎手は1975年に騎手を引退。調教師の道に進んだ。

シンボリルドルフ(1984年、1985年)

引退し、種牡馬生活を送ったスピードシンボリ。種牡馬としてはステイヤーズステークス連覇を含む長距離重賞を3勝したピュアーシンボリを送り出した。そして、母の父としてはオールカマーを制したスイートカーソンやスプリングステークスなどを制したマティリアルの血統表に、スピードシンボリの名前が刻み込まれている。

1981年3月13日、スピードシンボリの娘であるスイートルナとパーソロンとの間に1頭の牡馬が生まれた。それが後にシンボリルドルフと名乗る馬であった。そして、スピードシンボリに跨った野平佑二調教師の下でトレーニングを積むようになった。

シンボリルドルフは、3歳(1984年)の菊花賞まで8戦8勝、と史上初の無敗での牡馬三冠(皐月賞・日本ダービー・菊花賞)を達成。「次は有馬記念出走か?」と思われたが、菊花賞の2週間後であるジャパンカップに出走した。中1週でのジャパンカップ出走、さらに体調不良の報道もあって単勝4番人気の支持に留まったシンボリルドルフ、は終始好位につけて直線も伸びたが、単勝10番人気のカツラギエースが先にゴール。シンボリルドルフは直線で迫るもイギリスのベッドタイムにも及ばずの3着に終わった。

次にシンボリルドルフが向かったのは、第29回有馬記念。ファン投票では前年の牡馬三冠馬であり、天皇賞・秋を制したミスターシービーが1位となり、シンボリルドルフは2位。3位はジャパンカップを制したカツラギエースだった。だが、シンボリルドルフの体調も上がって来たとの事から、単勝オッズの1番人気(1.7倍)の圧倒的支持を得ていた。2番人気にはミスターシービー、3番人気にはカツラギエースの順だった。

ゲートが開くと、ジャパンカップと同様にカツラギエースが逃げ、1周目の4コーナーでは2番手のスズマッハに3馬身のリードを付ける。ジャパンカップは後ろで待機していたミスターシービーをマークしていたシンボリルドルフと岡部幸雄騎手は、今度は好位置の3番手に付ける。一方、ミスターシービーはいつもの最後方一気のレースを捨て、後ろから3番手でレースを進める。

1周目のゴール板を過ぎると、岡部騎手が徐々にシンボリルドルフを上げ、カツラギエースの2番手に付ける。カツラギエースは10番人気でジャパンカップを制したが、春の宝塚記念を制し、毎日王冠ではミスターシービーの追い込みを封じた実績を持っている馬。「敵は前」とばかりに、岡部騎手はジワリとカツラギエースに迫る。

そして、勝負どころの2周目の第3コーナー。5馬身あったカツラギエースとシンボリルドルフの差は1馬身差に縮み、後方からミスターシービーがインコースを突いて上がっていく。しかし、ミスターシービー・吉永正人騎手が狙っていたポジションが他の馬に奪われ少し後退。こういった運も有馬記念では必要なのだろう。3~4コーナー地点ではシンボリルドルフはカツラギエースの半馬身後方まで上がって来た。

4コーナーを回り、最後の直線へ。カツラギエースの逃げ足は衰えていない。それをシンボリルドルフは徹底的にマーク。ミスターシービーも馬群を縫って来た。いよいよ、3強による戦いが始まった。

中山競馬場の最後の直線。坂を昇るとシンボリルドルフが先頭に立つ。抵抗するカツラギエース。馬場の3分所からミスターシービーがスパートした。しかし、シンボリルドルフは加速し、先頭でゴールイン。2馬身(0.3)秒離されて2着にはカツラギエースが粘った。そこから1馬身1/2(0.2秒)差でミスターシービーが3着に入線した。

牡馬三冠を挙げるに加えて有馬記念の勝ち星をも獲得したシンボリルドルフは、1984年の年度代表馬に輝いた。さらに4歳(1985年)もシンボリルドルフの快進撃は続く。日経賞では岡部騎手の手綱は持ったままで快勝。天皇賞・春ではミスターシービーが3コーナーでシンボリルドルフを交わすなどの奇襲があったが、直線で抜け出し、G1レース5勝目を挙げた。

続く宝塚記念はレース前日に故障が発生したため出走取消。秋初戦の天皇賞・春はギャロップダイナの強襲に遭い2着に敗れたが、前年は3着に敗れたジャパンカップを制した。この頃からシンボリルドルフの海外遠征が計画され、有馬記念が日本で走る最後のレースかも知れない、と言われた。

第30回有馬記念はシンボリルドルフが圧倒的な支持を得て単勝オッズは1.5倍と抜けていた。2番人気にはこの年の皐月賞・菊花賞を制したミホシンザンで単勝オッズは5.9倍。3番人気には天皇賞・秋でシンボリルドルフを負かしたギャロップダイナが続いたが、単勝オッズは20倍を超えていた。「シンボリルドルフVSミホシンザン」の構図となった。

だが、レースはシンボリルドルフの圧勝に終わった。道中は3番手をキープし、2周目3コーナーでは早くも先頭に立ったシンボリルドルフ。4コーナーではシンボリルドルフをマークしたミホシンザンだったが、シンボリルドルフは加速。終わってみればシンボリルドルフとミホシンザンの差は4馬身(0.7秒)差。実況を担当したフジテレビの盛山毅アナウンサーは「世界の(シンボリ)ルドルフ」とその強さを称えた。同時に母方の祖父であるスピードシンボリ以来となる有馬記念連覇を達成した。

5歳(1986年)になったシンボリルドルフ。海外遠征初戦はサンタアニタ競馬場で行われるサンルイレイステークスと決まった。が、サンタアニタ競馬場は芝コースでスタートするが、途中でダートコースを横切る特異な競馬場であった。シンボリルドルフは7頭立ての6着に敗退。しかも、レース中に故障が発生してしまう。

左前脚の繋靱帯炎を発生し、帰国したシンボリルドルフ。再度の海外遠征も期待されていたが、このまま引退となった。引退後は種牡馬となり、息子トウカイテイオーが1991年の皐月賞・日本ダービーを制し、「親子二代の無敗での皐月賞・日本ダービー制覇」という記録を達成。さらにトウカイテイオーは1992年のジャパンカップ、1993年には有馬記念も制した。この他にも産駒には、京都大賞典など重賞2勝を挙げたツルマルツヨシ、ステイヤーズステークス連覇など長距離で活躍したアイルトンシンボリがいる。

グラスワンダー(1998年、1999年)

かつては外国産馬が日本ダービーなどのクラシック競走や天皇賞には出走できない時代があった。そんな時代におあえ、中長距離を得意とする外国産馬が目指すG1レースの1つが、有馬記念であった。

1996年のサクラローレルが持ち込み馬として初めて有馬記念を制していたが、外国産馬の有馬記念制覇は1997年まで無かった。だが、1997年の有馬記念の2週前に行われた朝日杯3歳ステークス(現在の朝日杯フューチュリティステークス)を制したグラスワンダーに、外国産馬による有馬記念制覇を期待した人も少なからずいただろう。

朝日杯まで無傷の4戦4勝で2歳シーズンを終えたグラスワンダー。朝日杯で見せたパフォーマンスを受け、1997年の年度代表馬の選考でグラスワンダーに票を入れた記者が10人もいたほどだった。

前記の様に、外国産馬のため日本ダービーには出走できないグラスワンダー。3歳(1998年)の春の最大目標はNHKマイルカップに照準を合わせていた。しかし、3月に右後脚の第3中手骨を骨折していることが判明し、NHKマイルカップをはじめとする春シーズンの競馬は休養せざるを得なくなる。

幸い、骨折はごく小さな亀裂であったために競走能力喪失までには至らず、秋シーズンには復活するグラスワンダーであったが、もう1つの悩みがやって来た。秋初戦に照準を合わせた毎日王冠。これまでグラスワンダーは的場均騎手が乗っていたが、的場騎手にはもう1頭の有力馬がいたのである。それが、無敗でNHKマイルカップを制した外国産馬・エルコンドルパサーだった。エルコンドルパサーも秋初戦は毎日王冠に進む事となり、的場騎手はどの馬に騎乗するか、選択を迫られた。

グラスワンダーを管理する尾形充弘調教師はグラスワンダー自体が夏バテの症状が見え始めていた事などで、毎日王冠にはエルコンドルパサーの騎乗を促していたという。しかし、的場騎手はグラスワンダーの騎乗を選択。エルコンドルパサーには、蛯名正義騎手が騎乗する事となった。後に尾形調教師は、的場騎手がエルコンドルパサーを選択した場合、打診しようとした騎手は蛯名騎手であった事も明かした。

迎えた毎日王冠の当日。無敗の外国産馬のグラスワンダーとエルコンドルパサーの直接対決に加え、宝塚記念を制したサイレンススズカも出走。東京競馬場にはG2レースにもかかわらず、13万人の観衆が集った。グラスワンダーはスタートで出遅れたが、3コーナー過ぎではサイレンススズカに迫り盛り上がる場面もあったものの、最後は久々のレースもあってか、5着に敗れた。続くアルゼンチン共和国杯。初めての芝2500mのレースの不安もあったが、戦ってきた相手が違うとの事で1番人気に支持された。ところが、最後の直線で伸びを欠き6着に敗れる。この敗北を機に「グラスワンダーは早熟馬だったのか?」という声も出てきた。

当初の予定だったジャパンカップを回避し、第43回有馬記念に目標を定めたグラスワンダー。有馬記念前の調教では的場騎手がムチを連打してグラスワンダーを鼓舞させるなど、グラスワンダー陣営の努力もあってか、毎日王冠・アルゼンチン共和国杯と比べて数段良いデキになっていた。

第43回有馬記念。日本ダービーを制したスペシャルウィーク、ジャパンカップを制したエルコンドルパサーは出走しなかったものの、G1ホースが8頭出走する豪華なメンバーとなった。1番人気はこの年の皐月賞・菊花賞を制したセイウンスカイ。2番人気には前年の3着馬で前走のジャパンカップで2着に入ったエアグルーヴ。3番人気にはこの年の天皇賞・春を制したメジロブライト。グラスワンダーは4番人気であった。ただし、3番人気のメジロブライトの単勝オッズが5.3倍であったのに対し、グラスワンダーの単勝オッズは14.5倍と差は開き、グラスワンダーはやや伏兵的な扱いと言えた。

ゲートが開き、第43回有馬記念がスタートした。セイウンスカイが先頭に立つ。エアグルーヴ、グラスワンダーは5番手グループの一角を形成。メジロブライトは後方からの競馬で1周目の第4コーナーを回る。

荒れた馬場を避け、コースの真ん中を走るセイウンスカイ。中山競馬場のスタンドで大歓声が上がる。ゴール板を過ぎると、セイウンスカイがインコースに進路を取った。2番手を走るサンライズフラッグとの差を広げ、菊花賞と同様に自分が得意とする逃げ粘りの競馬を狙う。1100m通過のタイムが67.2秒。一見ハイペースに見えるかも知れないが、バックストレッチで通過ラップを12.5-12.5秒と刻む。これがセイウンスカイの競馬だ、と言わんばかりの名騎乗だった。

2番手追走のサンライズフラッグからやや離れて、天皇賞・秋を制したオフサイドトラップらが3番手集団を形成し、エアグルーヴは彼らを見ながら7番手を追走。そのエアグルーヴをピッタリとマークするかのように、ステイゴールドとグラスワンダーがいた。

勝負所の2周目第3コーナー。セイウンスカイと後続の馬との差が縮まる。1500m~1700mの通過ラップが11.6秒だったのが、1700m~1900mの通過ラップが12.2秒と落ちてきた。しかし、セイウンスカイは京都大賞典では後続に20m近い差を付けて大逃げをし、3コーナーで脚を溜めて、直線でも粘る競馬をした。徐々にセイウンスカイと2番手に上がって来たメジロドーベルの差が迫って来た。2周目の第3コーナーから第4コーナーを回った時、的場騎手騎乗のグラスワンダーが楽な手応えでエアグルーヴらを引き連れて4番手に進出するのが、ターフビジョンに映し出された。

2周目の第4コーナーを回り最後の直線。大外からはメジロブライトも迫って来た。逃げるセイウンスカイはコースの真ん中で逃げ粘りを図ろうとするが、後続との差が1馬身に縮まった。残り200mの標識を通過。グラスワンダーがセイウンスカイを捉えて先頭に立つ。大外からメジロブライトが迫って来た。的場騎手がムチを叩いてグラスワンダーを鼓舞する。ターフビジョンには粘るグラスワンダーと追い込むメジロブライトが大写しされる。しかし、グラスワンダーはメジロブライトを1/2馬身(0.1秒)差を付けて先頭でゴールインした。これにより、外国産馬による有馬記念の初制覇が達成された。同時にキャリア7戦目の有馬記念制覇は史上最短キャリアの記録でもあった。場内の実況を担当したラジオたんぱ(現在のラジオNIKKEI)白川次郎アナウンサーの「グラスワンダー復活です!」というフレーズが鳴り響いた。

それでも、インタビューでは的場騎手が「まだいい頃の出来と比べたら物足りない」と言った。本当に仕上がった時、グラスワンダーはどの位の強さを見せるのか? 再び2歳時の様な圧倒する競馬を見せるのか? ファンの期待感は、増すばかりであった。

しかし、4歳(1999年)の春シーズンもグラスワンダーは苦しんだ。筋肉痛や左目の下部に裂傷を負うなど、使いたいレースの直前にアクシデントが発生。ようやく出走したのは5月の京王杯スプリングカップだった。有馬記念から1100mの距離短縮となったが、馬場の大外から先行勢をゴール前で差し切った。だが、続く安田記念はエアジハードの強襲に遭い2着に敗れた。

迎えた春のグランプリ・宝塚記念。前年の日本ダービー馬でこの年の天皇賞・春を制したスペシャルウィークとグラスワンダーの一騎打ちとなった。単勝オッズの1番人気はスペシャルウィークの1.5倍。2番人気はグラスワンダーの2.8倍。3番人気のオースミブライトが15.9倍と大きく離れていた辺り、「勝つのはスペシャルウィークかグラスワンダーのどちら」に注目が集まったと言って良いだろう。レースでは、スペシャルウィークが4~5番手に付き、グラスワンダーがスペシャルウィークを見る競馬。直線に入ると、グラスワンダーがスペシャルウィークを引き離し、終わってみればスペシャルウィークに3馬身(0.5秒)差を付ける圧勝。ここでようやく的場騎手の口から「強い勝ち方だったと思う」というコメントも出たため、これでグラスワンダーが本格化したと考えたファンも多かったことだろう。

秋初戦の毎日王冠。単勝オッズ1.2倍の圧倒的支持を得ての出走。レースでは最後の直線で先頭に立ち、「どこまで引き離すのか?」というファンの期待があったが、内でアンブラスモアが抵抗し、外から重賞レース未勝利のメイショウオウドウが迫って来た。最後はメイショウオウドウの追い込みを凌ぎきったものの、僅か3cm差での優勝。続くジャパンカップは再び筋肉痛のため回避する事になった。

針治療などの甲斐あって筋肉痛は収まったものの、有馬記念に向けて調子が上がってこないグラスワンダー。一方、京都大賞典は7着に敗れたものの、天皇賞・秋とジャパンカップを制したスペシャルウィーク。ファン投票では1位がスペシャルウィークで約16万5千票の支持があった。

第44回有馬記念はインターフラッグが競走除外となり、14頭立てで行われることとなった。G1ホースが7頭も揃ったが、1番人気はグラスワンダー。単勝オッズは2.8倍。ファンはグラスワンダーの底力を信じて1番人気になった。2番人気にはスペシャルウィークで3.0倍、3番人気はメジロブライトが6.5倍で続いた。

確固たる逃げ馬がいない中でゲートが開いた。外から追い込んで結果を残したゴーイングスズカが先頭に立ち、ダイワオーシュウ、ナリタトップロードが続く。グラスワンダーは後方から3,4頭目を走り、メジロブライトは後方から2番手、スペシャルウィークは最後方からレースを進めた。

ゴーイングスズカが淡々と逃げ、2番手にはナリタトップロードが続く。前半の1100mの通過タイムが71秒9。途中のラップも一番速くて12.5秒と超が付くスローペースでレースが進んだ。バックストレッチに入ってもペースは上がってこない。ゴーイングスズカが刻むラップは13秒台。ナリタトップロードが2番手、テイエムオペラオーが5番手を進む。グラスワンダーが後方から4番手、スペシャルウィークは依然最後方で2周目の第3コーナーに進む。

勝負所の2周目第3コーナーの前後からゴーイングスズカのペースが徐々に上がってきた。それにつれて、1500m~1700mの通過ラップが12.1秒と上がる。そして2周目の第3~4コーナーでグラスワンダーが馬場の真ん中から上がり、それを待っていたかのようにスペシャルウィークも進出開始。最後の直線310mは瞬発力勝負になりそうな展開になっていた。

4コーナーを回り、最後の直線。馬場の真ん中からツルマルツヨシが抜け出す。内に進路を取ったナリタトップロード。ツルマルツヨシの外からグラスワンダーがやってくる。そして、スペシャルウィークはグラスワンダーの外から襲いにかかる。

残り200mの標識を通過。ツルマルツヨシが粘る。ツルマルツヨシの外側からグラスワンダーとテイエムオペラオーが上がってくる。そして、一番外からスペシャルウィークがやって来た。しかし、残り100mでツルマルツヨシが1馬身のリードを保っていた。

残り50m。ツルマルツヨシを交わしてテイエムオペラオーが先頭に立った次の瞬間、グラスワンダーがテイエムオペラオーを交わす。グラスワンダーがグランプリ3連覇達成かと思った次の瞬間、スペシャルウィークがグラスワンダーに襲い掛かる。最後はグラスワンダーとスペシャルウィークが並んでのゴールイン。勢いでは追い込んできたスペシャルウィークに分があるが、どっちが先頭でゴールしたのかが分からないほどの熾烈な争いでゴール板を通過した。

中山競馬場に駆け付けた15万人近い観客が興奮する中でのゴールを駆け抜けたグラスワンダーとスペシャルウィーク。フジテレビの堺正幸アナウンサーは「最後はやはり、最強の2頭!」と実況し、解説者とゴール前の攻防について語っていた。ゴール前の攻防を映した次の瞬間、映し出されたのは2コーナーから1コーナーへと逆回りに戻ってくるグラスワンダーと的場騎手の姿であった。そして、続いて映し出されたのはバックストレッチで流すスペシャルウィークと武豊騎手。普通であればグラスワンダーと同様に逆回りで戻るはずだが、戻ってこない。その間も解説者はターフビジョンに映し出された2頭のゴール前を見て、「うわぁ、凄い」としか言えなかった。

グラスワンダーが戻る中、3コーナーを回るスペシャルウィークと武豊騎手。的場騎手はグラスワンダーを2着馬の待機所に寄せる。これが引退レースとなるスペシャルウィークの武豊騎手はコースを1周して、観客の前で馬上からガッツポーズを見せる。1周して戻って来たスペシャルウィーク。多くのファンが、スペシャルウィークの秋の古馬三冠(天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念)を制覇したと思っていたはずだ。

スペシャルウィークが待機所に戻った瞬間、1着にはグラスワンダーのゼッケン「7」が表示され、2着にはスペシャルウィークのゼッケン「3」が表示された。その差はハナ差。単位に直すと僅か4㎝の差でグラスワンダーが前に出ていた。この瞬間、グラスワンダーがシンボリルドルフ以来14年ぶりの有馬記念連覇、スピードシンボリ以来29年ぶりのグランプリ3連覇となった。

テレビでの勝利騎手インタビューで的場騎手が「いやぁ、差されたのではないか」と乗っている騎手でさえも判断が付かないくらいの僅差であった。そして、順調さを欠く中で1番人気に支持した事に対する感謝も口に添えていた。

5歳(2000年)の宝塚記念のレース中に負った骨折で引退したグラスワンダー。引退後は種牡馬になり、息子のスクリーンヒーローがジャパンカップを制した。さらにスクリーンヒーローからは天皇賞・秋など国内外のG1レースを6勝挙げたモーリスや2015年の有馬記念を制したゴールドアクターがいる。また、モーリスからはスプリンターズステークスを制したピクシーナイトが輩出されたため、グラスワンダーから数えて父子4代のG1レース制覇が達成された。これは1984年にグレード制が導入されてからは史上初の快挙である。

シンボリクリスエス(2002年、2003年)

スピードシンボリやシンボリルドルフを送り出したシンボリ牧場。だが、シンボリルドルフ以降はツルマルツヨシやマティリアルを送り出すものの、内国産馬でのG1レース制覇は遠のいていった。その一方で、シンボリインディがNHKマイルカップを制するなど、シンボリ牧場の3代目代表・和田孝弘氏は外国産馬に活路を見出した。

そんな中、アメリカの一大馬産地のひとつであるキーンランドで行われた繁殖牝馬のセールで、和田氏はある繁殖牝馬を落札し、アメリカの牧場に預けた。1999年1月21日に生まれたのが後にシンボリクリスエスと名付けられた馬である。

この時、日本競馬界は1つの変化が起きていた。2000年から天皇賞が外国産馬の賞金上位2頭までが出走可能になり、2001年からは日本ダービー、菊花賞も条件付きながら2頭まで外国産馬の出走が認められたのである。

日本に輸入され、美浦トレーニングセンターの藤沢和雄厩舎に入ったシンボリクリスエス。藤沢和雄調教師は調教助手時代にはシンボリルドルフの調教助手を務めた人でもある。2歳(2001年)の秋のデビュー戦を制したシンボリクリスエス。2勝目は3歳(2002年)の4月まで時間が掛かったが、青葉賞を制し、日本ダービーではタニノギムレットの2着と健闘した。

秋初戦の神戸新聞杯を勝ったシンボリクリスエスは菊花賞には向かわず、天皇賞・秋(2002年は中山競馬場で開催)へと出走。ナリタトップロードやテイエムオーシャンなどの4歳以上の強豪を抑えて優勝した。騎乗した岡部幸雄騎手は53歳11か月28日で優勝。これはJRAのG1レース最年長制覇として現在も記録に残っている(2021年12月10日現在)。

続くジャパンカップは短期騎手免許で来日中のオリビエ・ペリエ騎手が騎乗したが、海外の強豪ファルブラヴの3着に敗れる。そして第47回有馬記念に、シンボリクリスエスは出走した。単勝オッズは2番人気の3.7倍。1番人気は無敗で秋華賞・エリザベス女王杯を制したファインモーションの2.6倍。3番人気は前年のジャパンカップと日本ダービーを制したジャングルポケット(4.5倍)であった。

ゲートが開くと、押して前へ行こうとするタップダンスシチーが前に出た。ファインモーションは2番手。シンボリクリスエスは馬群の中6番手付近で1周目の4コーナーを回る。ところが、1周目の直線でファンの歓声に驚いたのか、ファインモーションが前に出てくる小波乱があった。ファインモーションは一旦タップダンスシチーに4馬身程の差を付けたものの、バックストレッチで差が詰まる。前半1100mの通過タイムは68.4秒。前年の69.4秒と比べると速いペースでレースが進む。

勝負どころの2周目3コーナー前でタップダンスシチーがファインモーションを交わし、後続を引き離しにかかる。それまでは12秒台前半~後半で流れていたが、1500~1700mのラップが11.5秒と急にペースアップ。そのままタップダンスシチーが後続に6馬身以上の差を付けて最後の直線に入った。シンボリクリスエスのペリエ騎手は内から2頭目の6番手で直線に入ったが、タップダンスシチーとの差はかなりある。14頭中13番人気のタップダンスシチーが大波乱を巻き起こすか──その時であった。ファインモーションとナリタトップロードの間にできた隙を狙ってシンボリクリスエスが猛然と追い込んできた。

残り200m。タップダンスシチーが逃げ粘るが、真ん中からシンボリクリスエスが追い込んできた。そして、ゴール手前でシンボリクリスエスがタップダンスシチーを交わしてのゴール。この勝利でシンボリクリスエスは2002年の年度代表馬、最優秀3歳牡馬に輝いた。

当初は3歳限りで引退し、種牡馬になるというプランもあったというシンボリクリスエス。しかし、4歳(2003年)も現役を続行した。4歳の始動戦であった宝塚記念は5着に敗れたものの、続く天皇賞・秋では大外18番枠から抜け出し、1分58秒0の東京競馬場芝2000mのレコードタイムを叩き出した。しかし、ジャパンカップではタップダンスシチーの大逃げが決まり、シンボリクリスエスは続くザッツザプレンティにも届かず2年連続の3着に終わった。

そして、ラストランとなる第48回有馬記念。馬の脚元に負担が掛からない調教を行ってきた藤沢調教師。だが、最後という事で、いつもの調教よりもハードなトレーニングをシンボリクリスエスに課した。それでも、馬体重はジャパンカップと比べマイナス2Kgの538Kgでレースに挑む事となった。

天皇賞・秋で見せたパフォーマンスもあってかファン投票で1位になり、当日の単勝オッズも1番人気の2.6倍に支持された。2番人気はジャパンカップを制したタップダンスシチー(3.9倍)。3番人気は藤沢厩舎の3歳馬ゼンノロブロイ(5.9倍)。

戦前は、タップダンスシチーがジャパンカップと同様逃げるのではないかと予想されていた。実際ゲートが開くと、タップダンスシチーが先頭に立ったが、1周目の直線で事態は急変。アクティブバイオとザッツザプレンティが先頭に立ち、タップダンスシチーは3番手に収まったのである。前の3頭から大きく離れた4番手グループとして、ゼンノロブロイ、リンカーン、シンボリクリスエスが馬群を形成する。

前を行くアクティブバイオとザッツザプレンティが前半の1100mを通過。64.5秒のハイペース。スタート後100m~300mのラップが11.2秒。以降の200mごとのラップも11秒台を刻むなどタップダンスシチーを含め、前を行く馬にとっては厳しい流れでレースが進む。先頭から最後方の馬まで、大きくばらけた。

勝負どころの2周目第3コーナー。前を行くザッツザプレンティ、アクティブバイオ、タップダンスシチーがバテはじめる。先に仕掛けたのは武豊騎手であった。リンカーンがザッツザプレンティを交わして先頭。シンボリクリスエスはリンカーンをマークしながら2番手を追走する。しかし馬なりで、シンボリクリスエスも上がって来た。

残り400m。リンカーンが先頭に立ち、最後の直線に入る。しかし、あっという間にシンボリクリスエスがリンカーンを交わして先頭に立つ。残り200mの標識を過ぎるとグングン加速するシンボリクリスエス。リンカーンとの差は開く一方に。終わってみればシンボリクリスエスはリンカーンに9馬身(1.5秒)差を付ける圧勝だった。これは有馬記念史上、最大の着差である。そして走破時計の2分30秒5は、1991年のダイユウサクがマークした2分30秒6を0.1秒更新し、中山競馬場芝2500mのレコードタイムとなった。

優勝記者インタビューでペリエ騎手は日本語で「本当に素晴らしい」と表現した。また、ペリエ騎手は今まで乗った馬で、1997年の凱旋門賞を制し、「1990年代のヨーロッパ最強の一頭」と言われたパントレセレブルに匹敵するくらいのベストホースだ、とシンボリクリスエスの強さを称えた。

和田氏いわく「サンデーサイレンスに変わる新たな種牡馬を見据えた形でこの馬を生産した」と言ったように、2002年に死去したサンデーサイレンスの後継者として名乗り出たシンボリクリスエス。息子にはジャパンカップ・菊花賞を制したエピファネイア、チャンピオンズカップなどダートG1級レースを4勝したルヴァンスレーヴなどを送り出している。エピファネイアからは2020年の牝馬三冠を他制したデアリングタクト、2021年の天皇賞・秋、皐月賞を制したエフフォーリアを送り出した。また日本ダービーを制したレイデオロ、中山グランドジャンプ5連覇のオジュウチョウサン、エリザベス女王杯を制したアカイイトの母の父にはシンボリクリスエスである。

写真:かず

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