雷神と百合、得難き出会い〜2018年エリザベス女王杯・リスグラシュー〜

国民文学作家と呼ばれた吉川英治は、人生における得難い出会いについて、こう書いている。

十年語り合っても理解し得ない人もあるし、一夕の間に百年の知己となる人と人もある。

玄徳と孔明とは、お互いに、一見旧知のごとき情を抱いた。いわゆる意気相許したというものであろう。

吉川英治「三国志 赤壁の巻」(新潮文庫)

自らもその血を引く漢王室の復興という大志を抱き、その生来の人徳により綺羅星のような人材が集まってはくるものの、それを活かせずに流浪を重ねる劉備玄徳。
「伏龍」、あるいは「臥龍」と称される才覚を持ちながら、仕えるべき君子にめぐり逢えず、在野で隠居のごとき晴耕雨読の暮らしをしていた諸葛亮孔明。

その二人の得難き出会いを、吉川は「一夕の間に百年の知己となる」と書いた。

人は生きていく中で、どうしても理解し得ない人とも出会う。
しかし、吉川が書いた劉備と諸葛亮のような「得難い出会い」も、時にあるからこそ、人と人の出会いは面白い。

サラブレッドと騎手の出会いもまた、そのようなものかもしれない。

たとえば、その三国志演義の時代から下ること、およそ1,800年。
2018年11月11日、京都競馬場第11レース、エリザベス女王杯。

リスグラシューは、初めてその背で手綱を取る騎手との出会いを、どう感じたのだろう。

その騎手、ジョアン・モレイラ。

ブラジルに生を受け、2001年に当地で騎手デビューをした後、南アフリカ、シンガポールに拠点を移しながら活躍を重ねてきた。
2013年の途中から参戦した香港においては、2014年から3シーズン連続でリーディングジョッキーを獲得。

その圧倒的な成績から「雷神」、あるいは「マジックマン」の異名で称されるほどのトップジョッキーであり、この2018年は短期免許制度を利用して7月から断続的に日本へ参戦していた。

そのモレイラ騎手が初めて手綱を取った、リスグラシュー。
モレイラ騎手は、その手綱から伝わる彼女の息吹を、どのように感じていたのだろう。

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それを縁と呼ぶのか、運命と呼ぶのか。
あるいはカルマ、業とでも呼ぶのか、分からないが。

つながっている人とは、一見すると縁がないように見えていても、どうやってもつながるものだ。
時に、まるですべての物事が、その出会いに収斂していくように感じることすら、あるだろう。

劉備にとっての諸葛亮がそうであったように、諸葛亮にとっての劉備がそうであったように。
リスグラシューとモレイラ騎手も、もしかしたら、そんな縁があったのかもしれない。

本来であれば、前哨戦である10月のGⅡ・アイルランドトロフィー府中牝馬ステークスからコンビを結成する予定だった。
しかし、モレイラ騎手が前週に騎乗停止の裁定を受けたことにより、その予定は実現しなかった。

そして迎えた、ぶっつけ本番のエリザベス女王杯当日だったが、モレイラ騎手は第8レースの条件戦でスタート直後に落馬するというアクシデントに見舞われていた。

だが彼は、何事もなかったかのように次の第9レースの黄菊賞に騎乗し、コスモカレンドゥラを勝利に導く。
これが記念となるJRA通算100勝目となり、ファンの大きな喝采を浴びていた。

騎乗停止、落馬。
そんなトラブルや不運がありながらも、「雷神」と「優雅な百合」の邂逅は、実現した。

初めてのコンタクトに、お互いにどのような知己を得ていたのだろう。

舞台は、晩秋の古都を彩る女王決定戦、芝外回りの2,200m。
傾きかけたやわらかな日差しの中、そのゲートが開いた。

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揃ったスタートから、スタンド前を通って歓声を浴びながらの先行争い。

各馬それほど明確に主張をしない中、岩田康誠騎手のクロコスミアが前に出て1コーナーに向かう。
大外枠から横山典弘騎手のミスパンテールも積極的に出して、番手を取りに行く。
秋華賞を自重してここに挑んできた3歳馬ノームコアとクリストフ・ルメール騎手、そして同じく3歳馬で秋華賞3着のカンタービレといった上位人気馬も前目につける。

前年に3歳でこのレースを勝っており、本年は1番人気に支持されていたモズカッチャンとミルコ・デムーロ騎手も先行勢の中にいた。
人気の一角、レッドジェノヴァと池添謙一騎手も前目。

3番人気に支持されていたリスグラシューとモレイラ騎手は、ちょうど中団にポジションを取った。

後方から脚を溜めて進むのは、古豪のスマートレイアー、前年のヴィクトリアマイルを勝っていたアドマイヤリードあたり。

比較的スムーズに隊列は落ち着き、2コーナーを回って向こう正面へ。
ルメール騎手とノームコアが、ポジションを3番手あたりまで上げていく。
逃げるクロコスミアの岩田騎手が刻むラップは、1,000mの通過は61秒半ばとやや緩い流れ。

先行勢は抑え気味に進んでいく馬が多くみられる中、じっと中団に構えるリスグラシュー。
特徴的なモレイラ騎手の短い手綱は、絞られたままだ。

向こう正面の淡々とした流れから、3コーナーの坂を上がっていく。

静から、動へ。
各馬が仕掛けに入り、手綱が動く。

リスグラシューのすぐ外を走る同じ勝負服、コルコバードの浜中俊騎手の手綱も動く。
その横のモレイラ騎手は、まだ動かない。

──彼女にとって、初めてのGⅠ勝利へ。

「そのとき」を待っていた。

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GⅠのような大きな舞台で善戦しながら、どうしても勝ちきれない馬がいる。
古くはナイスネイチャから、マチカネタンホイザ、ロイスアンドロイス、ステイゴールド、シーキングザダイヤ、サウンズオブアース、あるいはメイショウドトウ。

宝塚記念で宿願を果たしたメイショウドトウや、大団円を迎えたステイゴールドは別としても、このエリザベス女王杯に出走した時点のリスグラシューは、その系譜に連なるように思われた。

このエリザベス女王杯までにGⅠに挑戦すること7回、そのうち2着が半数以上の4回。

父・ハーツクライ、母・リリサイド。
フランス語で「優雅な百合」を意味するリスグラシューの名も、母の名からの連想であろう。

その母の父・American Postは現役時代に3歳春までにマイル以下の距離のGⅠを3勝していて、その産駒にも仕上がりの早さと豊かなスピードを伝える傾向にある。
一方でハーツクライとの配合により、Lyphardの4×4×5のクロスが見られ、豊かな成長力と大舞台で活きる底力もうかがえる。

リスグラシューがその戦績の中で見せたのは、前者だった。

阪神芝1,800mの未勝利戦を2歳コースレコードで勝ち上がり、迎えたGⅢ・アルテミスステークスでも非凡な決め手を見せて連勝する。
しかし、阪神ジュヴェナイルフィリーズではソウルスターリングにわずかに届かず惜敗、桜花賞ではレーヌミノルを捕まえきれず、オークスは距離延長が響いたのか5着。
夏を越しての秋華賞では馬場も味方せずディアドラに差され、翌年のヴィクトリアマイルでは上り3ハロン32秒9の鬼脚を繰り出すもハナ差に泣いた。

かのノーザンファーム生産の良血、名門・矢作芳人厩舎でデビューという選良にして、その末脚の切れ味。
その存在は確実にGⅠを意識させられるのだが、大舞台ではあと一歩が届かず、勝ち切れない。

そんなリスグラシューの8度目のGⅠ挑戦が、このエリザベス女王杯だった。

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4コーナー半ば。

「そのとき」が、来た。
ひと呼吸ほど遅らせて、モレイラ騎手はついにGoサインを出した。

手応えの怪しくなっているコルコバードをかわして、絶好の進路を確保して直線を向く。

伸びる、リスグラシュー。

先頭は逃げ粘るクロコスミア、それをモズカッチャン、ノームコア、レッドジェノヴァが追う。

外から、リスグラシュー。

残り200m付近で、番手集団を外からまとめて交わす。
残るはクロコスミア。さらに伸びる、リスグラシュー。
モレイラ騎手のアクションに応え、脚を伸ばす。
クロコスミアもまた、後続を引き離して伸びる。

……しかし、リスグラシューだ。
先頭のクロコスミアを交わす。

脚色は、衰えない。

リスグラシュー、1着。

8度目の挑戦にして、初めてのGⅠ制覇のゴール。
いくつものアクシデントに見舞われながらも、実現した出会いによるGⅠ制覇。

「そのとき」を待って放たれたリスグラシューの末脚は、出走馬中唯一の上り3ハロン33秒台を記録。
これがJRA・GⅠ初勝利となったモレイラ騎手も、右手を上げて喜びを爆発させる。

スタートからロスのない位置取り、きっちりと道中脚を溜め、絶妙のタイミングでの仕掛け、そしてフィニッシュに至るまで、「マジックマン」の名に違わぬ、見事な騎乗だった。

リスグラシューと、ジョアン・モレイラ騎手。
重ねた惜敗、いくつものアクシデント。

しかし、両者は出会った。

「優雅な百合」が、「雷神」に導かれて大輪の花を咲かせた、2018年エリザベス女王杯だった。

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翌2019年。

リスグラシューは、まるで彼女に流れる偉大な血が、爆ぜたかのような走りを見せる。
オーストラリアのダミアン・レーン騎手とともに、夏のグランプリ・宝塚記念、オーストラリアのコックスプレートとGⅠを連勝。

そして白眉が、引退レースとなった有馬記念。
アーモンドアイを含む豪華メンバーが揃う中、2着のサートゥルナーリアに5馬身差をつける異次元の走りを見せて圧勝、惜しまれながら現役を退いた。

その走りの続きは、彼女の産駒に託されることになった。

そんなリスグラシューの初めてのGⅠタイトルが、2018年のエリザベス女王杯だった。
彼女はそこで、「雷神」ジョアン・モレイラ騎手の手綱と出会い、ひときわ大きく、そして美しく咲いた。

志はあれど流浪の食客を続けざるを得なかった劉備が、「伏龍」諸葛亮という軍師を得たことで、飛躍の時を迎えたように。

吉川英治の書いた「一夕の間に百年の知己となる」ような、得難い出会いだったのだろう。

それまでずっと続いていた惜敗や不運があったからこそ、出会えたのか。
そんなふうに、過去を振り返ることができる出会いが、時に人生の中で起こる。

だからこそ生きることは、ひいては競馬は、面白いのかもしれない。

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今年の古都の舞踏会には、どんな出会いがあり、どんな花が咲くのか。

今年も、エリザベス女王杯がやってくる。

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