67回目を迎える伝統の重賞オールカマー。
創設当初は中山の2000mで行われていたが、グレード制が導入された1984年にGⅢに格付けされ、距離も2200mへ変更された。その2年後には、地方競馬招待競走に変更。招待競走として開催されたのはわずか8年だったものの、多数の地方馬が挑戦し、好勝負を演じる馬もいた。
今回は、中央勢に果敢に挑戦した地方の名馬たちを振り返っていきたい。
ジュサブロー
招待競走に様変わりした86年。いきなり、5頭の地方所属馬が中山競馬場に参戦してきた。この年の出走馬は11頭。ほぼ半数を地方馬が占めたことになる。
しかも、そのいずれもが実績馬。上位人気をほぼ独占し、1番人気に推されたのがテツノカチドキだった。大井記念連覇や東京大賞典勝ちの実績。騎乗するのは、的場文男騎手に更新されるまで国内最多勝ジョッキーだった佐々木竹見騎手である。
それに続いたのが中央のシンボリカールで、3番人気はカウンテスアップ。岩手で18戦16勝2着2回の実績をひっさげ大井に移籍。川崎記念を勝利するなどし、今度は愛知に移籍して4戦3勝。さらにこの年、大井へ再移籍して川崎記念を連覇するなど、全国を渡り歩いていた。
4番人気は、前年の浦和記念の覇者ガルダンで、5番人気に続いたのが愛知のジュサブローである。
ジュサブローは、デビューから連敗を喫したものの、悲運の天才・坂本敏美騎手に乗り替わると4連勝。坂本騎手が落馬事故に遭い騎乗できなくなった後は、鈴木純児騎手にバトンが託され、通算20戦14勝。この時は7連勝中と、勢いにも乗っていた。
父シーホークは、ともに天皇賞春制したモンテプリンス、モンテファスト兄弟を輩出し、後に2頭のダービー馬も送り出すほど芝に特化した種牡馬。ジュサブローも、中京芝2000mで行なわれた東海菊花賞を2分2秒台で勝利しており、陣営は芝適性に自信を持っていたことだろう。
レースは、カウンテスアップ、荒尾のカンテツオー、そして中央のスーパーグラサードが先行する展開。最終的にはカウンテスアップが先頭に立ちレースを引っ張った。
1000m通過は1分1秒7で、馬群は一団。重馬場で、超スローというほどではなかったものの、そこからさらにペースが落ちると、ロングスパートをかけたジュサブローが先行集団まで進出。後退していくカンテツオーがいたスペースに割って入り、4頭横一線となった4コーナーでわずかに先頭に立ち、直線勝負を迎えた。
直線に入ると、ロングスパートの勢いそのままに抜け出したジュサブローが、坂下で2馬身のリードをとった。ラウンドボウルとテツノカチドキが追うも、坂をまるで苦にしないジュサブローは、鈴木騎手の激しいアクションに応えさらに加速。それまでよりさらに力強い走りを見せてリードを広げ、最後は、ラウンドボウルに3馬身半の差をつけ優勝。中央のファンの度肝を抜くインパクト大の走りで、オールカマーの歴史にその名を刻んだのだ。
さらに次走、ゴールド争覇も勝って9連勝としたジュサブローは、ジャパンカップにも挑戦。ところが、この大一番で折り合いを欠き、直線入口で先頭集団に顔を覗かせるも失速して7着。残念ながら、10連勝と地方所属馬によるジャパンカップ制覇はならなかった。
ちなみに、2020年の地方全国リーディングを獲得し、歴代の勝利数でもトップに立っている名古屋競馬の角田輝也調教師。その父哲男氏が所有していたのがジュサブローで、師はこのオールカマーで父の代わりに表彰台に立ち、後に調教師への道を歩むことになった。
ジョージモナーク
オールカマーと地方馬を語る上で外せないのが、このジョージモナーク。
ジョージモナークは、デビューからの4戦で2勝とまずまずの成績を収めたものの、翌88年、5戦目に臨む調教の過程で右脚を骨折してしまう。獣医師からは、予後不良の診断がくだされるほどの重傷だったという。しかし、オーナーサイドが治療を希望すると、馬もそれに応えるように驚異の回復力を見せ、翌2月に復帰。そこから6連勝を達成したのだ。
──ところが、その後は大敗こそないものの、掲示板確保に終始するレースが続き、10戦して勝利したのは90年6月のブリリアントカップのみ。その後、関東盃4着を経て、的場文男騎手と挑んだのがオールカマーだった。
この年の1番人気には、2年前のダービー2着馬メジロアルダンが推され、地方浦和の所属で、南関東の二冠馬アウトランセイコーがそれに続いた。
レースは、メジロアルダンが意外にもハナを切る展開。ジョージモナークがそれを追い、今度は1コーナーで内から交わすと、逆に4馬身のリードを取った。
重馬場にしては、まずまずのペースで逃げるジョージモナーク。縦長だった馬群は、一度固まりかけたものの、残り600mで2つに分かれる珍しい展開。先行集団の中では、ジョージモナークだけ手応えが楽なまま、レースは最後の直線を迎えた。
直線に入っても一向に脚色が衰えないジョージモナーク。坂下で、2番手のザッツマイドリームを完全に振り切り、メジロアルダンも伸びあぐねている。地方馬にとって、久々のオールカマー制覇はすぐ目の前にまで迫ってきていた。
──しかしそこから、驚異的な末脚を使って追いこんできたのがラケットボールだった。
3コーナーでは最後方ながら、その後、一気に中団まで押し上げると、直線では内に外にと進路を巧みに変更し、ゴール寸前でジョージモナークを差し切り優勝。一方、最も強い競馬を見せたはずのジョージモナークには、あまりに悔しい2着となった。
その後の富士ステークスとジャパンカップで、4、15着と敗戦するも、翌年の帝王賞で2着。さらには、7月の関東盃でようやく初の重賞タイトルを獲得したジョージモナーク。その勢いで臨んだのが、2度目のオールカマーだった。
この時は、逃げるユキノサンライズを前に見て2番手につける展開。4コーナーでは、1番人気のホワイトストーンが並びかけ、さらに、岩手の雄・スイフトセイダイが迫る中、迎えた直線。
前を捉えたジョージモナークは、押し切りを図って懸命に末脚を伸ばすと、ホワイトストーンの追撃も振り切り、見事1着でゴールイン。前年の雪辱を果たし、ついに中央の重賞も初制覇。5年ぶりに、地方馬のオールカマー制覇が実現したのだ。
以後は、再び富士ステークスとジャパンカップに挑戦し敗れるも、翌年、新潟で行なわれたBSN杯は2着。そして、3年連続出走となったオールカマーでも5着に健闘し、そこで引退となった。
1986年以降、オールカマーに3度出走した馬は、中央を含めても、他にマツリダッゴホとダイワテキサスのみ。大ケガだけでなく、中央勢の壁も意地で乗り越え、魂の走りを見せたジョージモナークは、オールカマーだけでなく、交流競走そのものの歴史を彩る1頭だった。
ハシルショウグン
ジョージモナークと同じ大井の赤間厩舎に所属し、オールカマーにも複数回挑戦したのがハシルショウグン。
こちらは、デビューから高い能力を遺憾なく発揮し、8月の2歳新馬戦を8馬身差で圧勝すると、2戦目ではなんと大差勝ちを収めた。しかし、その後の調教でトモを骨折して休養。クラシックを棒に振り、復帰は翌8月になってしまう。
その後、復帰戦をまたしても圧勝を飾ると無敗で勝ち進み、三冠最終戦の東京王冠賞は2着に4馬身差をつけ完勝。一気に、世代のトップへと躍り出たのだ。
ところが、年末の東京大賞典で7着に敗れ初黒星を喫すると、そこから3連敗。大井記念は勝利したものの、オールカマーやジャパンカップ、東京大賞典など、中央のみならず、地元でも敗戦が続いてしまう。
そんな中、迎えた5歳シーズンは、初戦こそ敗れたものの、その後は川崎記念、帝王賞、大井記念と3連勝。その次走が、2度目の出走となったオールカマーである。
4頭出走した地方馬の中では、最上位の8番人気。しかし、迎え撃つ中央勢は強力で、天皇賞馬のライスシャワーや、2年前の桜花賞馬シスタートウショウ。さらに、安田記念と宝塚記念で連続2着した前年の覇者イクノディクタスなどが出走してきた。
ゲートが開くと、予想どおりツインターボがハナを切り、ハシルショウグンと的場文男騎手も、一旦は追う素振りを見せたものの、さすがのスピードに諦めざるを得なかった。
レース中盤では、そのリードが15馬身に広がり、2番手のホワイトストーンから3番手のハシルショウグンの差も15馬身。最後方まではかつて見たことがないほど縦長となり、場内がざわめくも、800mの標識を過ぎてもその差はほぼ変わらない。続く4コーナーで、ようやく2番手と3番手の差だけが詰まり、レースは直線を迎えた。
直線に入っても、ツインターボのリードは依然10馬身以上。中舘騎手が懸命に追ってはいるものの、後続がこれを差し切るのはもはや絶望的だった。一方、2番手争いは激化し、ホワイトストーンに、ハシルショウグンとライスシャワー、シスタートウショウが迫り大混戦。しかし、坂上でもう一脚を使ったハシルショウグンが、しぶとくホワイトストーンを交わし、GI馬2頭の追撃も押さえ込む。最終的には、ツインターボ5馬身差で圧勝したものの、ハシルショウグンも2着に好走したのだ。
ところが──。
実はこの1週間前、ハシルショウグンは挫石を発症していた。ジャパンカップの出走権をどうしても手にしたかった陣営は、獣医師が出走を止めるのを振り切り、化膿した蹄底にメスを入れ、止血、消毒をして脱脂綿をつめ出走。文字通り、激走を見せたのだ。
しかし、ここでの無理が祟ったのか、赤間師によれば、その後は別馬のようになってしまい、本当に申し訳ない気持ちで一杯だったという。
以後は、ジャパンカップで16着に大敗するなど勝ち星を挙げられず、2年間で10戦した後、中央へ移籍。そして迎えた96年4月。障害レースに転向した初戦の最後の直線で、左前第1指関節脱臼を発症し競走を中止。残念ながら、予後不良となってしまったのだ。
タラレバをいっても仕方ないが、2歳時の骨折がなければ91年の南関東三冠は、そして挫石がなければ、オールカマーはどうなっていただろうか。
生涯最高のパフォーマンスを見せたツインターボには及ばなかったものの、負傷を抱えながら豪華メンバーの2着争いを制したハシルショウグンの走りも、後世に語り継がれるべき素晴らしい快走だった。
一方、騎手に目を向ければ、地方所属でオールカマーを制したのは、ジュサブローの鈴木純児騎手と、ジョージモナークに騎乗した早田秀治騎手の2名。しかし、それぞれ違う馬で3度も2着した、大井の帝王こと的場騎手の奮闘も見逃せない。
87年のガルダン、90年のジョージモナーク、そして93年のハシルショウグン。特に、ガルダンとジョージモナークは、それぞれアタマ、クビ差という接戦だった。
日本の最多勝利騎手となって現在もその記録を更新し続け、9月7日には65歳を迎えた鉄人。京都競馬場でJBCが開催された2018年11月4日。5レースの新馬戦で、的場騎手が見せた4コーナーでの捲りに、場内から湧き起こった大歓声は、今も忘れ得ない記憶だ。
オールカマーは、95年GⅡに昇格すると同時に指定交流競走となり、地方馬の出走枠も2頭に減少。ダート路線が充実したこともあって、以後は出走数が激減し、06年、2着に惜敗したあのコスモバルク以来、地方馬の参戦はない。
それでも、地方馬はもちろんのこと、できれば的場騎手とのコンビでオールカマーに再び出走して欲しいと願っているファンは、きっと少なくないはずだ。
写真:プーオウ
引用元
TCK Column vol.08 ターフに殉じた“平成の走る将軍”