[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]福ちゃんは世界をどう見ているのか(シーズン1-11)

毎日のように牧場から届く、福ちゃんの幸せな日々を眺めていると、福ちゃんは片目が見えないことをつい忘れてしまいがちになります。他の仔馬たちと同じように走り回り、母ダートムーアの乳房を吸い、草を食み、天使のような寝顔で眠っています。小眼球症という病気があることを知らずに遠くから見れば、普通の馬と何ら区別がつかないのではないでしょうか。これは喜ばしいことであり、福ちゃんが生まれてきたときに僕たちが感じた不安や心配は、今のところほとんど現実のものとはなっていません。彼女は彼女の馬生を当たり前のように生き始めているのです。

僕たちが思っているほどに、福ちゃんは片目が見えないことを辛いとか、嫌だとか、不運だとか思っていないのではないでしょうか。もしかすると自分が他者と違って、片目が不自由だという感覚すらないのかもしれません。

僕たち人間は、情報の8割から9割を視覚によって得ており、視覚は感覚の王として君臨します。その視覚が失われた状態を想像するだけで、僕たちは不安や恐怖を感じ、絶望の淵に立たされてしまいます。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。見えない者の世界は、僕たち見える者が思うような世界なのでしょうか。

生物学者を志していた伊藤亜紗さんによる「目の見えない人は世界をどう見ているのか」という本があります。著者は目の見えない人は世界をどう見ているのかに興味を持ち、視覚障害者たちへの綿密なインタビューによって、ほんとうの目の見えない人たちの世界の全貌を解き明かしていきました。そこで見えてきたものは、視覚情報に支配されてしまっている僕たちが、いかに視覚情報のない世界を誤解し、誤った形で広めてしまってきたかということでした。

僕たちにこれから求められているのは、障害者は健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使っている人と考え、助けるのではなく違いを面白がることから、障害に対して新しい社会的価値を生み出すことを目指すべきだと著者は主張します。

見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのでしょうか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまりひき算。そこで感じられるのは欠如です。しかし僕たちが知りたいのは目の見えない者に見えてくる世界のあり方であり、その意味を実感したいのです。

目の見えない人の世界は、見える人が目をつぶった世界とは違う。目をつぶるのは、4本脚の椅子から1本取るようなもので、椅子は倒れてしまう。見えない人の世界は、もともと3本脚の椅子である。脚の配置を変えれば、3本でも椅子は立つように、視覚以外のバランスを変えることで、見える人とは異なる世界を構成している

──「見えない人は世界をどう見ているのか」光文社新書より引用

もともと4本足の椅子から1本を取ってしまったら、その椅子は傾いてしまい、壊れた不完全な椅子になってしまいます。でも脚の配置を変えることで、3本でも立てますし、むしろ状況によっては3本の方が安定していることもあります。目の見えない者の世界を理解しようとするとは、脚が一本ないという欠如ではなく、3本がつくる全体を感じるということ。異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてくるのです。意味が違ってくるということです。

福ちゃんは片目が見えないから、世界の半分しか見えてなくて可哀そうではなく、福ちゃんは片目で僕たちとは異なった見かたで世界を見ていて、また違った世界が見えているということです。

(次回へ続く→)

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