[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]ムー子の虹(シーズン1-73)

その日の晩は、慈さんのお母さまがつくってくれた、行者ニンニク漬けの唐揚げや行者ニンニクの茎の部分を醤油で味付けして細かく刻み、それを上にのせた冷ややっこなどを食べました。お母さまの手作り料理はいつも美味しく、癒されます。ミヅキさんから、ムー子のたてがみをいただきました。ピンクのゴムで結わってくれて可愛らしい。食卓ではムー子の話をしながら弔い、そして福ちゃんの今後に話は及びました。

僕が知りたかったのは、具体的にいつぐらいまで福ちゃんは碧雲牧場にいられるのか?という点です。7月に開催されるセレクションセールにて、マンちゃんが誰かに買ってもらったとすると、8月には育成牧場に向けて出ていく可能性はあります。ミーちゃんとサバちゃんのオーナーさんはいつでも良いと言ってくれているらしく、そうなると9月一杯には全頭出て行く形にしたいと慈さんは考えているようです。これで期限が決まりました。遅くとも9月中には碧雲牧場を卒業して、育成牧場に移らなければなりません。その前に育成牧場を決め、卒業アルバムを制作しなければいけないことになります。残り4か月の猶予期間です。

マンちゃんがセレクションセールの審査に通ったことで、コンサイニングをするために丸馬場のある本場に戻されることになりました。離れの放牧地ですと、トレーニングのために本場まで引いて連れてこなければならず、コンクリートの道路を歩かせるので蹄も擦り減ってしまったり、慈さんも体力的に厳しいそうです。マンちゃん1頭だけ連れてくるわけにもいかず、候補に挙がったが福ちゃん。福ちゃんとマンちゃんはお互いにちょっかいを出し合う対等な関係にあるので、パートナーとしてはちょうど良いのかもしれません。サバちゃんだとバタバタしすぎますし、ミーちゃんを連れてくると、残されたサバちゃんと福ちゃんのコンビは相性が良くない。積極的理由でも消極的それでも選ばれた福ちゃんは、マンちゃんと共に長谷川家のリビングから見える放牧地まで連れてこられました。

マンちゃんがトレーニングをしているとき、福ちゃんは1頭で待っていることになりますが、その際、うるさくなってしまうそうです。ひとりが寂しいのか不安なのか、落ち着いて待っていられなくなるのです。体つきは立派でも、精神的にはまだ幼さを残しているということですね。

そうした面を見ると、「馬運車が心配だなと思ってしまいます」と慈さんは言います。かつて馬運車に乗った時は大人しくしていましたが、あれはムーア母さんと一緒だったからです。この先、碧雲牧場を出て、育成牧場に移動する際は、1頭で馬運車乗られなければなりません。狭い空間にひとりきりで閉じ込められて、しかも馬運車は動くため、福ちゃんが暴れて怪我をしないか心配ですね。そう考えると、やはり育成牧場は近い方が輸送のリスクは少ないと思います。福ちゃんのお姉さんやスパツィアーレの23のようにじっとしていられる馬であれば問題ありませんが、福ちゃんはどうでしょうか。鎮静を打って、大人しくできるでしょうか、馬運車の中で寝てしまわないかなど、いろいろと心配です。親バカなのでしょうか。

福ちゃんのグッズについても話しました。ちょうど福ちゃんの実寸大の足形が押されたノート&クリアファイルを発売した直後です。碧雲牧場にはプレゼントしたのですが、それ以外にも理恵さんは個人的に3つも買ってくれていたみたいで、「これは良いよ!」、「これで1980円は安い」とかなり好評です。これまでの全てのグッズを碧雲牧場に持って行っているのですが、過去イチの反応の良さです。今までのグッズはあまり響いていなかったのかと思いつつも(笑)、いや、ノート&クリアファイルの出来があまりにも良いからだと思うことにしました。もちろん、福ちゃんファンの皆さまにも好評であっという間に200セットが売り切れてしまいました。

皆さんに喜んでもらえると次も作りたいと思うもので、次回のグッズを提案しました。そのうちのひとつに、福ちゃんの蹄のかけらを小瓶に入れて、匂いを楽しめるアイデアがありました。前回、削蹄の動画を撮った際、毎月このように出る蹄を捨ててしまうのはもったいないなと感じたことがきっかけです。メンマ先輩が馬の蹄を食べるという話もありましたし、おそらく適度な獣臭と味がするのではないでしょうか。小瓶に福ちゃんの蹄だけを入れても殺風景ですから、蹄碧雲牧場の草も混ぜることで、碧雲牧場にいる福ちゃんの香りを楽しんでもらえるかなと考えました。

そんな話を喜々としてしたところ、慈さんが「僕はどうかなと思うんですよ。馬の身体の一部を売るのはやりすぎかと。たしかにたてがみはお守りに入れましたけど、あれはギリギリかなと。福ちゃん自身の姿が入っている(映っている)物を売るのは全然良いと思いますけど」。喜んでもらえるかと思いきや、思わぬ反対に遭い、僕は戸惑いました。慈さんは(いつものことですが)お酒を飲んでいるので、もしかして酔っているのかとも思いました。しかし、どうやら少し酔っているからこその本音のようです。

もう少し耳を傾けてみると、「今回もムー子のたてがみを治郎丸さんに渡したように、唯一残る、馬にとっても大切なものなのです。蹄も同じですが、たとえ捨てるものであっても、馬の身体の一部を売るのは、僕は嫌なんですよね。競走馬を引退した後なら問題ないと思いますが…」と話してくれました。なるほど、たてがみも蹄も伸びてくればカットして廃棄してしまうものですが、それでも馬の大切な身体の一部であることに変わりはありません。競走馬として生まれてきて、これからアスリートとして頑張らなければならない馬の身体の一部を切り売りすることに、抵抗を感じるということなのでしょう。生産者と全く同じ感覚になれたわけではありませんが、慈さんの言いたいことは分かった気がしました。

ということは、福ちゃんのたてがみを入れたお守りは僕が考えている以上に貴重な品だったということになります。福ちゃんが身を削って、僕たちに福を分け与えてくれたのです。良いアイデアだと浮かれて、軽いノリでグッズ化してしまった自分を恥じるとともに、生産者にとっての馬の価値や関係性に気づかされました。僕と慈さんは世代を超えて、競馬をとおして心がつながっていますが、それでもなお馬に対する見かたや感覚は少し異なるのです。「慈さんの許可が出なければダメですから、やめておきましょう」と僕はあっさりと引き下がり、皆も頷きました。福ちゃんの蹄の香りグッズは引退後に回せばよいのです。

結局のところ、日曜日には酪農学園大学の教授と連絡がつかず、ムー子の検体の話は翌日に流れてしまいました。大学の方で解剖してもらえないとすると、家畜保健所に持っていくことになります。後者では特に解剖等をするわけではないため、ムー子の病の原因は調べられずお蔵入りになってしまいます。できれば大学へと運びたいものですが、それも全ては大学側の都合次第です。翌日に備えて、その日は生産者のように早く寝ました。

翌朝、揖斐獣医師が往診に来られたので、「最後まで寄り沿ってくださって、ありがとうございました」と深く頭を下げてお礼を伝えました。「残念でした」と言ってもらえて改めて良い先生だなと感じ、揖斐先生のおかげもあってムー子は自然死を迎えることができたのだと思いました。他の獣医師であれば、もしかするとダミーフォールを発症した時点で、遅くとも2度目に立ち上がれなくなった時点で、安楽死処分をされていたはず。揖斐先生にも結末は見えていたのだと思いますが、合理的判断よりも家族の想いを優先して付き合ってくださったのです。その結果、僕たちは少なからず救われたのでした。

福ちゃんが生まれる前、僕は50歳を目の前にして、生きる気持ちを失いかけていました。いわゆるミッドエイジクライシス(中年の危機)だったのかもしれません。50歳まで生きれば十分だし、やりたいことはおおよそやり遂げてきたし、50歳から先でなければ成し得ないことなんて1つもないと思っていました。大きな借金を背負っているわけでもなく、生きづらさや苦悩を抱えているわけでもないのに、死ぬのがええわと諦念していたのです。

そんな僕が今は生き延びたいと願っているのです。会社が傾き始め、片目の福ちゃんが生まれ、福ちゃんのお姉さんはセリで売れず手元に残り、スパツィアーレは何度種付けに行っても受胎せず、そして今年は福ちゃんの妹(ムー子)は原因不明の病に倒れてしまったのに、僕は何とかして這い上がってやると生きる気力が湧いてきたのです。ムー子の最期の姿を見て、僕も呼吸が止まるまで生きてやると心に誓ったのです。自らあきらめて命を絶つなんて百年早い。どれだけ惨めな姿になっても、心臓が止まるまで生き残ってやる。僕には福ちゃんの生涯を支え、描き続けるという使命があるのです。

昼過ぎに揖斐獣医師から連絡があり、酪農学園大学に検体としてムー子を引き取ってもらう手筈が整いました。15時に新千歳空港のさらに先にある北広島までムー子を運んでいかなければいけません。それでも、これからのサラブレッドの医療に何らかの貢献ができれば、ムー子が無駄死にならずに済みます。さっそく僕たちは、ムー子の遺体を軽トラックに積み、大学に向かう準備を始めました。

ガレージの中に眠るムー子を、僕と慈さんとミヅキさんの3人で持ち上げ、軽トラックの荷台に乗せます。生まれた当初は60kg近くあったムー子も骨と皮ばかりになり、3人で軽々と運ぶことができました。生き物は死ぬと物体になります。中に入れている防腐剤を交換し、2時間の長旅に備えます。幸いにも、この日は比較的涼しく、遺体の状態は安定していて、向こうに着いても傷んでいる心配はなさそうです。ムー子の額に手を当てながら、そのくぼんだ目を見て、「また会おうね」と言いました。天国でと言えなかったのは、僕は行ける自信がないからです。

軽トラックの助手席に乗り込み、慈さんの運転で酪農学園大学まで向かいます。理恵さんは別の車で一緒に来てくれるようです。碧雲牧場の皆さま(慈さんのお母さま、ミヅキさん、コーセーくん)に見送られ、僕たちは旅立ちました。碧雲牧場の中の細い道を通り抜けながら、後ろにブルーシートに包まれた遺体をのせて走るのは、遺影こそ抱えていませんが、霊柩車に乗っているような感覚でした。北広島にある酪農学園大学までは意外と遠く、新千歳空港を超えてさらに1時間乗って、ようやくたどり着きました。途中から揖斐獣医師も同行してくれました。

大学構内の奥の奥にある解剖ラボの前に到着すると、すでに扉が大きく開かれており、解剖をしてくれる先生と学生さんたちが出迎えてくれます。若い女性も多く、これからの獣医学を担う人たちだと思うと、ムー子を引き渡すことに躊躇はありません。解剖の様子を外から見学することもできるようでしたが、「僕たちはここで失礼します」と慈さんは言い、頭を下げて、退散しました。扉が閉まり、解剖はすぐに始まります。僕たちは少し離れた場所から、手を合わせました。理恵さんは目に涙を浮かべています。ムー子のことをいちばん面倒見て、可愛がってくれたのは理恵さんだったのだと思います。何も気の利いたことは言えず、「同じ誕生日なんだから頑張って生きなきゃね」と慰めにならない慰めを言いました。解剖室の窓から、ムー子の下半身が吊るされて逆さになっている姿が薄っすらと見えました。僕たちは3週間背負い続けた重荷を下ろし、一区切りがついた気持ちもありつつ、たとえようのない無力感を抱きながら大学をあとにしました。

福ちゃんの声の人から、「今日とても大きな虹が見えました」と写真付きのLINEが入っていました。彼女も同じ誕生日のムー子の行く末を、東京から心配してくれていました。「ムー子の虹だね」と返すと、「大きな橋だから、ムー子もたくさん走れるよ。今ごろ虹の上ではしゃいでるね」。その瞬間、僕にはムー子が虹の橋をはしゃぎながら駆け上がっていく姿がはっきりと見えました。お転婆だったムー子は、こちらをよそ見しながら走っています。天国の牧場で僕はムー子を撫で、ムー子は僕に甘えてくれています。お母さんともゆっくり過ごせるといいね。

ファンタジー(幻想)がすぎると思われるかもしれませんが、残酷な現実を真に受け止めるのではなく、少しでもカモフラージュ(偽装)するために、僕たちは夢を見るのです。

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