南半球は季節が逆転する

競馬は大人の娯楽と言われるが、小学生からゲームで競馬を覚え、そしてテレビで本格的に毎週観戦するようになると、世間の一般常識も普段の生活や勉強よりも先に競馬を通じて覚えることが多い。例えば「東雲」「斑鳩」等の読み方、「如月(きさらぎ)」「皐月」等の旧暦、さらには「Allure(アリュール)」「Precise(プリサイス)」等の英単語は確実に競馬のおかげで自然と覚えた。

大人になるに連れてそのような新たな一般常識の習得は減っていくはずだが、2007年07月に当時の筆者(21歳)は新たな知識をラジオNIKKEI賞という一つのレースと一頭の馬をきっかけに習得することになる。それは「南半球は季節が逆転している」ということである。なぜか21歳までそれを知る機会がなく過ごしてきたのだが、ロックドゥカンブという南半球産の無敗の3歳馬に出会うことで、筆者はその知識を大人になってから習得出来たのだ。

ラジオNIKKEI賞というレース

ラジオNIKKEI賞について、筆者が競馬を見始めた1990年代後半は「ラジオたんぱ賞」のレース名で行われていたが、「残念ダービー」という俗称は昔話で聞いたことがあった。というのもその昔は別定戦でダービーを勝利した馬はこのレースに出られず、またダービーで敗れた馬が走るレースだったことに起因するらしい。

一方で筆者が競馬を見始めていた頃には既にこのレースはハンデ戦となり、私の主観としてのイメージは未完の大器や遅れてきた大物がこのレースを皮切りに菊花賞を目指す登竜門的なイメージを抱いていた。実際、前年2006年の2着馬であるソングオブウインドは菊花賞を制し、2003年の勝ち馬ヴィータローザはセントライト記念を制する等、このレースでの賞金加算から更なる上の舞台での活躍馬を多く輩出していた。

ロックドゥカンブの存在を知ったのは07年のラジオNIKKEI賞をテレビ中継で観ていた時のこと。当時は関東に住む学生の身分である筆者、法律的には学生も馬券が購入出来る時代(2005年改正)になっており、前週の宝塚記念を阪神競馬場まで遠征しての現地観戦をした上に、馬券を通じて高額な観戦料を支払っていた翌週は大人しくテレビ中継を観ているしかなかった。

それだけに、馬券検討をすることなく純粋な気持ちで競馬中継を観ていると、一番人気のロックドゥカンブが南半球産の馬ということが説明された。そこで手元にあったパソコンで調べてみると、南半球は季節が逆で馬が産まれるのは9月〜10月頃になるため、日本で走る場合は半年早く年齢を重ねてしまうことになる。そのために斤量の優遇が距離や馬齢に応じて施されるということだった(なお、ハンデ戦であるラジオNIKKEI賞はこの優遇措置の対象ではない)。

それを知ると、馬の年齢は人間のおよそ4倍の早さであることから、約2年年上の先輩に混ざって飛び級でクラス入りするのは酷だな、と同情した。

怪物の挑戦と笠松の名手との出会い

斤量の優遇措置が取られるとは言え、人間に換算すると約2学年の差がある馬たちに混ざって走っていたロックドゥカンブだったが、その競争能力は全く劣っておらず、むしろ他馬よりも頭一つ抜けているようだった。デビューは3月と当然遅い時期ではあったが、安藤勝己騎手を背にしっかり前目につけると余裕たっぷりに危なげなく勝利した。続く2戦目は3ヶ月空けて6月の中京で行われたマカオJCT(500万クラス)。重馬場のタフなコンディションで中団からの競馬となったが、ゴール前でしっかりと末脚を炸裂させて2連勝となった。

そうして迎えたキャリア3戦目がラジオNIKKEI賞だった。この年の同レース出走馬の中では最少キャリアだったのだが、過去2戦の才能溢れる走りが評価されて僅差の二番人気に支持された。
この年の一番人気は前走福島の1000万クラスを勝利していたクランエンブレム(後に阪神ジャンプSを勝利)。他にもクイーンCを既に制しているイクスキューズ、新潟2歳Sの勝ち馬ゴールドアグリ、NHKマイルCで最低人気で3着に入り波乱の一役を担ったムラマサノヨートー、さらにはこの時点では未完で注目度が低かったがショウワモダン(2010年安田記念)、スクリーンヒーロー(2008年ジャパンカップ)もいたので、今思い返すと才能を秘めた実績馬から未完の大器まで多彩な顔ぶれが揃っていた。

また、このレースでは過去2戦で手綱を握った安藤勝己騎手に替わり、同じく笠松競馬からJRAに移籍し、すでに重賞を制覇しリーディング上位で活躍していた柴山雄一騎手が騎乗した。少し時を現代に戻すと、柴山騎手が2023年末をもって引退する際、記憶に残る馬として挙げていたのがロックドゥカンブであり、まさにこのレースがその馬で臨んだ初のレースであった。笠松時代の先輩でもある安藤勝己騎手に続く形で手綱を取り、無敗の重賞制覇が懸かった一戦ということで、柴山騎手にとっても特別な一戦であったことが想像できる。

南半球産の怪物の誕生

夏を感じさせる福島の重賞競走のファンファーレが鳴り響くと、スタートの時刻を迎えた。フジテレビの福島競馬の実況担当であった福島テレビの高橋雄一アナウンサーの熱のこもった実況もまた、夏の風物詩に感じていたのは筆者だけではないはずだ。

13番枠からスタートを決めたロックドゥカンブは好スタートから前目につける。逃げの手に出ようとするマイネルランページとレットイットライドの2頭を離れた3番手でしっかり折り合いをつけ、好位置を確保してレースを進めた。
直線の短い福島競馬場ということで、レースが動いたのは3コーナー。後ろに構えていた馬の鞍上の手が動き出すと柴山騎手も気配を感じたのか、手がわずかに動いたかと思えばロックドゥカンブが抜群の手応えでスパートを開始。逃げていた2頭をあっという間に捉えて先頭に立った。

柴山騎手の手が激しく動き出したのは4コーナーから直線を迎えてから。まだまだ余裕たっぷりだったロックドゥカンブは末脚を伸ばしてきた他馬をさらに突き放すかのように末脚を繰り出すと、あっという間に抜け出した。中団で構えてきたスクリーンヒーローやイクスキューズが脚を伸ばすも、脚色は変わらずロックドゥカンブが1馬身半の差をつけてゴールイン。ゴール後は柴山騎手がロックドゥカンブの首あたりをポンポンと叩いてねぎらった。まさに南半球産の怪物の誕生だった。

ロックドゥカンブの夢は続いていた

ラジオNIKKEI賞を制したロックドゥカンブはセントライト記念も制し、一番人気で菊花賞に臨むも3着に敗れてしまう。その次走は有馬記念にも参戦し、古馬に混じっての4着に健闘し翌年の飛躍が期待された。その後約半年の休養を経て目黒記念3着から宝塚記念に参戦するも、レース中に故障を発生し、そのまま引退が発表された。未完の大器が夢の途中で終わってしまったかのように思えた。

筆者がその後にロックドゥカンブのことを思い出したのは、同じ南半球産で同じ勝負服・同じ調教師だったキンシャサノキセキの活躍だった。キンシャサノキセキはNHKマイルC3着など早くから活躍していたが、古馬になってから高松宮記念を連覇するなど活躍し、種牡馬入りを果たしていた。一方ロックドゥカンブについては調べても情報が引っかからず、結局当時の状況分からずじまいだったと記憶している。

ところがうれしいニュースが入ってきたのは2018年のことだった。ニュージーランドダービーで産駒のヴィンドゥダンスが勝利したというのだ。筆者はこのニュースで、ロックドゥカンブは母国ニュージーランドで種牡馬入りしたことを知り、しかもその国のダービーを産駒が制したのだから非常に嬉しく、また、ロックドゥカンブ自身が無事に種牡馬として活躍していたことに安堵し胸を撫で下ろした。そして2024年現在も産駒が活躍しているようで、アントリムコーストがオーストラリアのGIIアリスタークラークSを勝利したという。
ロックドゥカンブ自身のGI制覇は故障のために夢で終わってしまった。しかし、その後は祖国に帰り、南半球の怪物の才能を産駒に引き継ぎ、遂にはダービーまでも制していた。その才能を初めて全国区に知らしめたのが、ラジオNIKKEI賞。「残念ダービー」とかつて呼ばれた2007年のこのレースは、海と時代を超えてダービー馬を輩出する希望溢れるレースとなったのだ。

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