[インタビュー]馬産地フォトグラファーのレジェンド、内藤律子さんが出会った名馬たち

北海道浦河町で、馬産地ならではの写真家として活躍されている内藤律子さん。

競馬報知のカメラマンを経て、数々のサラブレッドを撮影した個展の開催や、ハギノカムイオーの子、ハギノシンボルの誕生からデビューを追いかけた写真集『神威の星サラブレッド・ファンタジー』の出版など、幅広い創作活動の功績が称えられ、1989年に第3回JRA賞馬事文化賞を受賞されました。

今回は内藤律子さんが1981年夏にアメリカケンタッキー州へ渡り数々の名種牡馬の撮影に成功したお話と、内藤さんが出会った国内外の歴史的名馬たちのうち3頭の印象的なエピソードを伺いました。いずれも、日本競馬界に偉大な功績を残している名馬たちです。

吉田善哉氏の助言でサラブレッドの本場アメリカケンタッキー州へ

──アメリカへ撮影に行かれる事になったきっかけをお聞かせください。

内藤さん:(社台グループ創業者である)社台ファーム代表の吉田善哉さんが「せっかくなら本場のアメリカを見た方がいいよ、行っておいで」と応援して下さったことがきっかけになりました。

当時の私は日本で大きな生産牧場や種馬場などをまわり種牡馬の撮影をしていました。社台ファームではノーザンテーストが活躍馬を多数輩出していた頃です。その後も日本でいろいろな馬を見ていくうちに、「やはり本場の馬を見たい」という思いが強くなりました。

渡米を決めてからは、(現社台ファーム代表の)吉田照哉さんより、社台グループアメリカ駐在員のスーザンさんと、クレイボーンファームで以前に獣医をしていた菅原正善さんをご紹介いただきました。

スーザンさんは現地での住まいやレンタカーを手配してくださったり、菅原さんにはクレイボーンファームの場長を紹介していただいたりと、その後の撮影がとてもスムーズなものとなったのを覚えています。吉田照哉さんには、本当に感謝しています。

また、(ケンタッキー州で開催される)セプテンバーセールやノベンバーセールには吉田善哉さん、照哉さんについてまわっていました。お二人は現地でたくさんの牧場主と話をされていて、とても信頼関係を築かれていると感じました。

自身の作品が載っている「優駿」を片手に名種牡馬たちの撮影交渉へ

──アメリカでのエピソードをお聞かせください

内藤さん:クレイボーンファームはケンタッキー州レキシントンにあり、世界の名だたる名種牡馬が繋養されてきた牧場です。当時はニジンスキー、セクレタリアト、トムロルフ、ダマスカスなどが繫養されていました。

菅原さんに「せっかく行くのだから超一流種牡馬の立ち写真を撮っておいで」とアドバイスをいただき、私が競馬会(JRA)の雑誌の優駿編集部へ「アメリカにいる名種牡馬の写真を企画として使ってもらいたい」と売り込み、許可を得る事ができました。優駿では早々に『世界の種牡馬たち』と題した企画で掲載され、その第1号で紹介したのがニジンスキーでした。

その後は編集部から送っていただいた優駿を持って、他の牧場に撮影させてほしいとアタックしました。ちょうどアメリカの牧場に日本からお客さんが来るようになり始めていた頃だったので、牧場側は「日本の雑誌にアメリカの種牡馬が載るのは宣伝になる」と感じたようで、協力的にしてくださいました。

おかげで、シアトルスルーやアファームドのスペンドスリフトファーム、ヴェイグリーノーブルやダストコマンダーのゲインズウェイファーム、アリダーのカルメットファームなど、全部で40頭くらい撮影する事ができました。

アメリカではすでに存在した「功労馬たちの余生」という概念

──当時感じた日本競馬界とアメリカ競馬界の違いをお聞かせください

内藤さん:アメリカでは種牡馬が観光資源でもありました。種付けのオフシーズンには、牧場を訪れるたくさんの観光客やファンのもとへスタッフが種牡馬を連れていき、一緒に記念撮影をしている姿がありました。種牡馬たちも撮影に慣れているようで、ファンの人達を歓迎しているような穏やかな雰囲気が感じられました。アメリカ三冠馬のセクレタリアトは特に人気があり、よくファンと撮影をしていました。

また、私が行った1981年よりも前からケンタッキー州には観光牧場のようなものがあり、そこで引退馬の世話もしていました。牧場によっては繁殖牝馬でも功労馬は(一年中外にいるような環境ではありましたが)終生面倒をみる環境がありました。

当時はアメリカから日本へ輸出した種牡馬が活躍馬が出ず消息不明となってしまう事が多々あり、一部のアメリカ側の関係者には、墓場へ送るような認識があったようです。そのため功労馬支援の考えは日本では全くないような……あったとしても非常に稀な時代でした。

とにかく馬が観光資源として成り立っているような環境がありましたし、生きる道があるのはいい事だと思いました。現在は日本でもこの『競走馬の余生』についての考え方が根付きつつあり、とてもいい事だと思っています。

私自身が写真集『神威の星サラブレッド・ファンタジー』のモデルとなったハギノシンボルの引退後の預託料を面倒をみていた1990年代初頭は、まだ引退馬の余生を個人が請け負うということも稀な時代でした。現在の「グループで1頭の預託料の面倒をみる」というシステムはとてもすばらしいことだと思います。

──アメリカへ渡ったことで、日本の馬産地について感じた事はありましたか

内藤さん:決してアメリカの全てがすばらしかったかといえば、そうではありません。アメリカでは仕事に担当があり、馬に引き運動をさせるだけの人、馴致だけ、調教だけなど、皆が同じ仕事をしているわけではありませんでした。その点、日本では一人が何でもできるような環境があります。

また、日本の方が馬に対してきめ細やかに接する事が出来ているように思います。今の日本馬の活躍があるのは、きっとその事も要因のひとつなのでしょう。

──振り返ってみて、渡米された感想をお聞かせください

31歳の時に渡米をしたことは大きな挑戦でしたが、それまでに日本である程度は種牡馬の撮影をしてから行くことができたので、日米の違いも感じる事ができたように思います。

当時アメリカで一番有名だった種牡馬の立ち写真専門家のトニー・レオナルドさんに撮影するところを見せていただきました。その時に、スタリオンのスタッフが種牡馬を立たせているのをただ撮るのではなく、撮影側からもしっかりと要求しなければならないことを学び、その後の撮影活動にも活かすことができたと思います。

優雅であり威厳を感じたニジンスキー

こちらは、ケンタッキー州レキシントンのクレイボーンファームで撮影されたニジンスキーの写真です。

ニジンスキーと言えば、ノーザンダンサーの後継種牡馬として大成功をおさめた名馬です。そして、容姿の美しさも話題になりました。日本ではあのマルゼンスキーの父として、またエアダブリン・ダンスパートナー・ダンスインザダークの母である名牝ダンシングキイの父として有名です。ニジンスキー系のカーリアンからは、ダービー馬フサイチコンコルドやシンコウラブリイなども活躍しました。

ニジンスキーの印象について、内藤さんは「貫禄があって、放牧地ではとても落ち着いて見えました。何かのきっかけで疾走する姿もとても優雅な印象でした」と振り返ります。

とにかくかわいかったミスタープロスペクター

こちらも、ケンタッキー州クレイボーンファームで撮影されたもの。名種牡馬、ミスタープロスペクターの写真です。

ミスタープロスペクター系といえば、日本でもキングカメハメハがドゥラメンテ、ロードカナロア、そしてアーモンドアイなど、名馬を多数輩出している系統です。馬名は有名ですが、このような実際の姿を写したものは、実はほとんど残っていないそうです。

内藤さんは社台グループ駐在員のスーザンさんに「この馬はおさえておいた方がいいよ」と教えていただいたそうです。

その当時のミスタープロスペクターの様子について、内藤さんは「種牡馬に上がってきて間もない頃でこどもらしさも残っていました。"とっちゃん坊や"のように前髪がそろっていて、愛嬌もありかわいらしかったです。アメリカで走った馬でしたからよくファンに囲まれているような印象でした」と振り返ります。

おだやかな気性だったマルゼンスキー

ウマ娘で再び注目を集めるマルゼンスキーが活躍した1976年~1977年当時は、クラシック競走・天皇賞への出走禁止など、持込馬に厳しい出走制限があった不遇の時代でした。しかしスーパーカーと呼ばれたマルゼンスキーが見せた異次元の走りは、競馬ファンに新時代の到来を予感させる事となりました。

オリンピック担当大臣も務めた橋本聖子氏の父である橋本善吉氏が、マルゼンスキーの母シルをアメリカのセリで落札し輸入した事でも知られています。

シーザリオの父であるスペシャルウィークの母父として、マルゼンスキーの血は今もしっかりと存在感を示しています。

その現役時代、引退後を知るマルゼンスキーについて、内藤さんは「現役の時に競馬場で撮影していた馬の中の一頭で、いつも無敵という印象でした。ただ、引退して橋本牧場のスタリオンで担当の佐々木場長と接している時はすごくやさしい印象でした」と振り返ります。

2枚目の写真は佐々木さんの座っているところに顔を寄せている姿を撮影したもの。

「佐々木さんといる時のマルゼンスキーは、種牡馬という雄々しい感じよりも、むしろ穏やかで人に寄り添える馬、という印象でした。佐々木さんの人柄の素晴らしさがそのような信頼関係を築けた理由なのだろうと思いました」と内藤さん。


内藤律子さんが競馬報知のカメラマンをしていた1970年代後半、北海道でシンザン、トウショウボーイ、カブラヤオーなどの内国産種牡馬達を撮影した写真の数々が「優駿」で連載されました。

1970年代は、たとえ現役時代に大活躍した名馬であっても、北海道へまで引退した馬を追いかけてくる人はほぼいなかった時代。内藤さんは当時、多くの牧場関係者からとてもめずらしがられたそうです。内藤さんがおさめた名馬たちの写真は、現在においても当時の馬産地を知る事のできる大変貴重なものとなっています。

内藤律子さんご自身が管理されているホームページでは、インタビューの前編でお話しいただいた馬産地北海道ならではのサラブレッドたちの作品をみることができます。ぜひ内藤さんの世界にふれてみてはいかがでしょうか。

内藤律子さんHP:https://blue-wind.wixsite.com/ritsuko-naito/welcome

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