
2005年の競馬界はディープインパクトの衝撃に揺れていた。
シンボリルドルフ以来、日本競馬史上2頭目の無敗の三冠馬となった「日本近代競馬の結晶」の話題は、普段は競馬を見ないという人々にも時事ニュースとして知れ渡るほどであった。それこそが、ディープインパクトの異次元の強さ・影響力を物語っていた。
そんなディープインパクトと共にクラシック三冠を駆け抜けた馬の一頭にローゼンクロイツがいた。

ローゼンクロイツを語る上で、薔薇一族の話は避けて通れない。
「薔薇一族」とは繁殖牝馬ローザネイから派生する一族で、ローズバド、ローズキングダム、スタニングローズなど、薔薇に関する馬名がつけられることが多い。
2007年にローズキングダムが朝日杯フューチュリティステークスを制するまで、薔薇一族には「重賞は勝利するもGⅠではなかなか勝ちきれない」というジンクスがあった。特にローズバドはGⅠで3戦連続2着をはじめ、勝ちきれないレースが多かった。逆に言えば、それだけの能力の高さを持っていたということでもある。

ローゼンクロイツはそんなローズバドの全弟。当然、血統的な価値からもローゼンクロイツの活躍にも期待が高まった。
しかしローゼンクロイツは一口馬主募集時に体調を悪くしており、他の兄弟たちと比べると低い価格帯での募集となっていた。そのようなローゼンクロイツを取り巻く状況の中、デビューに向けて時は進んでいく。
2004年、ローゼンクロイツは京都競馬場にてデビューを迎える。
新馬戦では2着に敗れたものの、未勝利戦、京都2歳ステークスを続けて勝利し、年末のラジオたんぱ杯2歳ステークスでは2着となった。

デビュー前に体調が悪かったことなど微塵も感じさせない活躍ぶりだ。
年が明け2005年、毎日杯を制して重賞ウィナーの仲間入りを果たしたローゼンクロイツはクラシック候補として注目される。
しかし、すでに若駒ステークスや弥生賞でのレースぶりからディープインパクトは「他馬とは格が違う」という見方が多く、クラシック戦線においてローゼンクロイツは2番手候補までと見られていた。事実、ローゼンクロイツの三冠挑戦は皐月賞9着、日本ダービー8着という結果に終わっている。菊花賞では3着まで健闘するも、すでに歴史的名馬に名を連ねる活躍をしていたディープインパクトの前では脇役に徹するほかになかった。

たしかに、ディープインパクトの活躍は眩しかった。
──しかし、ローゼンクロイツが輝きを放つことができる場所はたしかに存在した。
菊花賞の翌年、2006年の始動は中京記念。
当時、中京記念は春季開催に施行されており、3月の中京競馬場をローゼンクロイツは走った。
はじめての古馬との対戦だったが、結果は同期のマチカネオーラにクビ差で敗れ、悔しい2着となった。
そう、中京競馬場。
ローゼンクロイツの喜びとそして悲しみが存在した場所だ。
中京記念の後には金鯱賞にも出走し、どちらも2着に連対という結果を残した。
2007年は京都記念から始動し13着と惨敗。
しかしその年も中京記念に挑戦し、今度は見事1着でゴールを駆け抜けた。
それもコースレコードで、1年11か月ぶりの勝利だった。
続いての金鯱賞でも1着となり、中京巧者として注目された。
レース後、脚部不安からの放牧の後、秋はGⅠに出走。
天皇賞(秋)11着、ジャパンカップ15着。
ジャパンカップから数日後に左第一指骨の剥離骨折のため3ヶ月以上の休養を要するとの発表があった。
2008年、復帰戦に選ばれたのもまた中京記念だった。

これで3年連続の出走であり、1番人気に支持される。しかし、結果は7着。
次走は前年と同じローテーションで金鯱賞へと向かった。
中京記念の結果を受け8番人気ではあったが、それでも得意の中京ならば……。
期待と不安が入り混じる出走であった。しかし、ローゼンクロイツはレース中に左第一指関節脱臼を発症、競走中止。予後不良の診断となり、ローゼンクロイツの馬生は幕を閉じた。
……淡々と書き連ねることで、事実としてのローゼンクロイツの戦績を伝えることで、この悲しみが薄れてはくれないだろうか。
そう願ってみたが、どう書いたとしても結局は、あの日突如として訪れたローゼンクロイツとの別れを受け入れなくてはならない。
中京競馬場でのレースを最後にこの世を去ったローゼンクロイツ。
しかし、彼がその輝きを放った場所もまた中京競馬場だった。
「運命」の一言で片付けてしまいたくはない。
そんな言葉では抱えきれないほどの命の煌めきが、そこには存在していた。
中京に咲き、中京に散った一輪の薔薇をせめていつでも思い出せるように、ローゼンクロイツと中京競馬場の記憶を此処に残しておきたい。
薔薇はあのとき、中京競馬場でたしかに咲いていたのだ。

写真:I.Natsume、ふわまさあき