桜が満開になった晩秋の淀~1987年菊花賞・サクラスターオー~

テレビ放送が開始70年目を迎えた2023年、ゴールデンウイークの5月3日にNHKで「アナテレビ」という番組が放送された。この番組はアナウンサーにスポットを置いた番組で、高瀬耕造アナウンサー(NHK)や水卜麻美アナウンサー(日本テレビ)、安住紳一郎アナウンサー(TBSテレビ)、大下容子アナウンサー(テレビ朝日)、それに伊藤利尋アナウンサー(フジテレビ)や松丸友紀アナウンサー(テレビ東京)と、東京のテレビ局を代表するアナウンサーが出演。司会の加藤浩次氏や元フジテレビアナウンサーの露木茂氏と様々なトークをしていた。

オープニングの映像でこれまでテレビが報じたニュースやスポーツ実況の名セリフの映像が流れた。1959年の皇太子(現在の上皇陛下)ご夫妻のご成婚パレードで、北出清五郎アナウンサー(NHK)が発した「誠にお幸せそう 誠にご幸福そう」。1989年の昭和天皇崩御に伴い元号が平成に変わる際の松平定知アナウンサー(NHK)が発した「まもなく昭和がおわります。平成元年が始まります」。そして記憶に新しい2023年3月のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本が優勝した時に清水俊輔アナウンサー(テレビ朝日)が発した「侍ジャパン! WBC! 王座! 奪還!」。

テレビは様々な時代の瞬間をとらえ、我々視聴者に伝えてきた。

そんな数多くの映像のなかに競馬実況のワンシーンがあった。1987年の菊花賞で関西テレビの杉本清アナウンサーが発した「サクラスターオーが先頭だ! 菊の季節に桜が満開、菊の季節にサクラ!!!」の実況である。競馬について全く知らない視聴者でも「菊の季節に桜が満開」のフレーズはインパクトがある実況だったのではなかろうか。競馬中継で幾多の名実況をしてきた杉本アナウンサーの実況の中でも「菊の季節に桜が満開」を名実況として挙げる競馬ファンも多いだろう。

サクラスターオーの菊花賞から35年が経過しようとしている。当時小学生で父親と共にテレビの競馬中継を見ていた私も年を取った。サクラスターオーという名馬について語られる機会が少ない中で、サクラスターオーの生涯について追ってみたい。※馬齢はすべて現在の表記に統一しています


サクラスターオーは北海道静内町(現在の新ひだか町)にある藤原牧場で1984年5月2日に産まれた。しかし、父のサクラショウリとの種付け後、母のサクラスマイルが双子を受胎していたのが判明。競走馬にとって双子は栄養が十分に行き渡らず、体力的に劣る馬が生まれてくることが多く、馬産地では縁起が悪いとされることもあるため、1頭のみの受胎になるよう片方が除去された上で産まれたのが、サクラスターオーであった。

デビューを迎えて4戦2勝で弥生賞を制覇したサクラスターオー。堂々、主役の1頭としてクラシックシーズンを迎える。

牡馬クラシック第1戦の皐月賞。1番人気に支持されたのは、寒梅賞を勝利してスプリングステークスでも豪脚を披露したマティリアル。弥生賞のレース内容が評価されたサクラスターオーは、2番人気に支持された。だが、マティリアルの単勝オッズが2.0倍に対しサクラスターオーの単勝オッズは5.6倍。スプリングステークスでの豪脚に加えて岡部幸雄騎手騎乗もあってか、マティリアルがやや抜けた人気となった。

この年の皐月賞には20頭が出走。前で競馬をしたい馬が揃った激しいレースが繰り広げられた。しかし有力馬2頭は前にはいかなかった。スプリングステークスでは最後方に待機して豪脚を披露したマティリアルは、1枠1番からのスタートを岡部騎手が考慮したのか、中団よりやや後ろのポジショニングでレースを進める。対して東信二騎手騎乗のサクラスターオーはマティリアルをジッと見るように馬場の外目を走らせている。

3コーナーから4コーナーに差し掛かるところ、インコースでもがき苦しむマティリアルに対し外から進出するサクラスターオー。最後の直線では馬群の大外から上がって来た。サクラスターオーが、残り200mの標識を過ぎて先頭に立つ。ようやく外に持ち出したマティリアルだったが、サクラスターオーには離された位置にいた。終わってみればサクラスターオーは2着のゴールドシチーに2馬身1/2差を付けて先頭でゴール。走破時計の2分1秒9はシンボリルドルフに次ぐ史上2番目に速いタイム(当時)である。厩舎開業2年目の平井雄二調教師にとっては初のG1レース制覇となった。

皐月賞を制したサクラスターオーの次なる目標は、競馬に携わる人が誰もが夢見るレースである日本ダービーの制覇であった。しかし、日本ダービーを2週間前に控えた5月中旬に前脚の繋靱帯炎を発症し、日本ダービーを回避する事となった。繋靱帯炎は治療まで長期の休養を余儀なくされて、運動の強度を上げると再発しやすい性質を持つ。平井調教師は騎手時代に利用していた山梨県の下部温泉へ車を走らせ、温泉の湯を汲んできてはサクラスターオーの脚につけていたという。下部温泉は武田信玄の隠し湯とされ、武田信玄をはじめとする多くの名将、そして無敵と呼ばれた甲州騎馬軍団の駿馬たちの脚の傷を癒したとされる名湯である。これが功を奏したのか、サクラスターオーの前脚の腫れが少しやわららぎ、6月には福島県いわき市にあるJRA競走馬総合研究所常盤支所(通称:馬の温泉)に移った。

馬の温泉で療養を続けながら、脚元に負担をかけないプールで調教を続けたサクラスターオー。繋靱帯炎を発症してから4ヶ月が経過した9月に馬の温泉を退厩し、美浦トレーニングセンターに戻る。脚元が完治した状態ではなかったが、完治を待てば11月8日に行われる菊花賞に出走させるには間に合わない。平井調教師は何としても菊花賞出走にこぎ着けよう考えていたという。ただ、10日前の調教での状態と東騎手の意志を確かめてから出走を判断しよう──そう考えると、調教で東騎手から「大丈夫」と進言される。菊花賞への出走が、決定した。最終追い切りでは終始馬を追わないことに徹し、脚元の負担をかけないよう心力を注いだ。レース2日前には長期休養から復帰する際に必要な検査を受け、JRAの獣医師による診断で出走許可を得たものの「レースにでるにはぎりぎりの状態です」との診断。そして、平井調教師は東騎手に対して「万が一の時は馬を止めてもかまわない」と依頼したという。満身創痍とも言える状態で、サクラスターオーは菊の舞台へと向かった。

──迎えた菊花賞。
サクラスターオー不在の日本ダービーを制し、前哨戦のセントライト記念を制したメリーナイスが単枠指定(特に人気が集中しそうな時、その馬を単枠=1枠1頭に指定する制度。1991年9月まで導入)された。そのため、メリーナイスの単勝オッズが2.2倍の圧倒的な人気であった。2番人気は皐月賞2着のゴールドシチーが8.5倍。以下はデビュー戦でサクラスターオーに勝ち、夏に力を付けたウイルドラゴン、皐月賞3着のマティリアルなどが続き、サクラスターオーは単勝オッズが14.9倍の9番人気であった。皐月賞以来の出走等が懸念されての評価であった。

ゲートが開くと、逃げ宣言をしたリワードランキングが先頭に立つ。2番手には菊花賞トライアル(当時)の京都新聞杯を制し、新人の武豊騎手が乗るレオテンザンが続く。大外18番ゲートからスタートしたメリーナイスが3番手だが行きたがる素振りを見せていて、鞍上の根本康広騎手が必死に宥めようとする。5番手にはゴールドシチー、その後ろには日本ダービー2着のサニースワロー。サクラスターオーは中団よりやや後ろで、マティリアルと併走していた。1周目の直線を迎える。7万人のファンから歓声があがると、サニースワローが大西直宏騎手との折り合いが悪くなったのか、引っかかり気味に進んでいった。

バックストレッチに差し掛かる18頭。リワードランキングが先頭、レオテンザンが2番手、3番手にはメリーナイスとサニースワローが併走する。ゴールドシチーは7番手から8番手を進み、ゴールドシチーの後方にサクラスターオーとマティリアルが続き、京都競馬場の難所である坂を迎えた。坂の頂上でリワードランキングにかわってレオテンザンが先頭に立ち、2番手にメリーナイスという隊列となる。そこで、それまで落ち着いていた杉本アナウンサーのテンションが、徐々に高まっていく。サニースワローは内側でジッと待機して追い出しのタイミングをうかがっていると、外からウイルドラゴン、真ん中からサクラスターオーがポジションをあげていく。サクラスターオーの直後にはゴールドシチーが待機していた。

最後の直線に差し掛かる。レオテンザンが先頭。この時であった。前を進むレオテンザンとサニースワローの間にスペースができた。そこにサクラスターオーの東騎手とゴールドシチーの河内洋騎手が突こうと馬を進める。だが、サニースワローが内へ寄って来てスペースが狭まって来た。この時サクラスターオーがスペースの間に入り、後方にいたゴールドシチーがサニースワローの外へ進める。

残り200mの標識を過ぎると、メリーナイスの脚色が鈍り、レオテンザン、サクラスターオー、それにサニースワローの3頭が先団を形成。しかし、杉本アナウンサーは「先頭はこのあたりで、サクラ、サクラ!!!」と、サクラスターオーが先頭に立ったと実況する。その実況を体現するかのように、レオテンザン、サニースワローの脚色が鈍くなる。外からゴールドシチーが、大外からユーワジェームスが迫ってくるが、サクラスターオーが1馬身差を付けて先頭に立つ。

「サクラスターオーが先頭だ! 菊の季節に桜が満開、菊の季節にサクラ!!!」

杉本アナウンサーが叫ぶと同時に、サクラスターオーが先頭でゴール板を駆け抜けていった。2着にゴールドシチーが入ったのを伝えると再び杉本アナウンサーが「菊の季節に、9番サクラスターオー! 桜が満開になりました京都競馬場です!!!」「菊の季節に桜が満開の京都競馬場」と言葉を続ける。そして、「うーん、びっくりした9番のサクラスターオーです」と驚嘆した。

杉本アナウンサーが興奮するのも無理はない。
皐月賞から菊花賞の「中202日」は、1984年シンボリルドルフの「中41日」を上回り、菊花賞における最長間隔での優勝だった。八大競走における史上最長間隔での優勝としても、1943年クリヒカリの帝室御賞典・秋(現在の天皇賞・秋)の記録に並んだ。これは1993年の有馬記念でトウカイテイオーが破るまで、最長期間であり続けた。外厩制度が充実した今日の競馬では、長期間のブランクでもいきなり好走できる馬の出現率は向上していることだろう。しかし、G1レースは一度トライアルレースや前哨戦を使ってから本番のレースに向かう事が当たり前だった当時の競馬界において、「中202日」での勝利は競馬関係者や競馬マスコミ関係者に衝撃を与えた。


さて、この名実況について、杉本アナウンサーが予め「菊の季節に桜が満開、菊の季節にサクラ!!!」というセリフを用意していたのか…という疑問については、後日、杉本アナウンサーは自著やインタビューで明らかにしている。思いついたのは、2周目の第4コーナーだという。

当時のムードとしては、日本ダービー馬・メリーナイスが単枠指定され"一強"という評価が大半だった。しかし、菊花賞では不利と言われる大外18番ゲートからのスタート。しかも燃えやすい気性や血統的にも、3000mの菊花賞には向いてはいなかったという。普段なら勝ち馬をある程度は予測して実況に臨む杉本アナウンサーだったが、菊花賞の実況に臨む際には見当がつかなかったらしい。案の定、メリーナイスはレース序盤で引っかかり、根本騎手が必死に宥めることになる。

一方のサクラスターオーはインコースでジッと待機していたが、2周目の第3コーナーの坂の下りで先行集団の馬に離されずに手応えも良かった。この時のサクラスターオーを見て杉本アナウンサーは「菊なのに桜か…」と思ったらしい。そしてサクラスターオーが先頭に立つと「このあたりでサクラ、サクラ、サクラスターオーです!」と実況し、道中で閃いたセリフを言おうとした。だが、最終的に「菊の季節に桜が満開!!!」のセリフは、ゴールの瞬間まで引っ張った。この言葉を一回溜めておくのが、当時50歳の杉本アナウンサーのこれまでのアナウンサー生活で培った「勘」ではないだろうか。このタイミングがズレていたら、果たして競馬中継やスポーツ史に残る実況──上述のテレビ放送70年を迎えた特別番組で取り上げられるほどの名セリフになっていただろうか。いずれにしても、サクラスターオーの復活に華を添えた実況であったのは間違いない。

……菊花賞での激走後、サクラスターオーは続く有馬記念を回避して休養をし、来年の天皇賞・春に目標を定めようとしていた。しかし有馬記念でファン投票1位に輝く。3歳馬としては、1976年のトウショウボーイ以来となるファン投票1位であった。陣営は、ファン投票1位の栄誉に応えるため、有馬記念への参戦を決定。しかし、その有馬記念で悲劇は起きた。3番人気メリーナイスの根本騎手がスタート直後に落馬するという波乱の幕開けとなった有馬記念。勝負どころの2周目の3コーナーで東騎手がインコースを選択し進んだ時であった。「バキッ!!!」という音が鳴り響く。他馬の鞍上にも聞こえるほどの音を立てたサクラスターオーは馬群から離れ、競走中止をした。診断の結果は左前脚繋靭帯断裂および第一指関節脱臼、予後不良が宣告された。しかし陣営はなんとかサクラスターオーの命を繋ぐための方法を模索。サクラスターオー専門の医師団が結成され、懸命の看病が続いた。しかし4歳(1988年)の冬を迎えると、サクラスターオーは馬にとって致命的な蹄葉炎を発症。春には自力で寝たり起きたりすることができなくなるほどに状態は悪化していた。現役時代は450Kg台の馬体を誇っていたサクラスターオーだが、その頃には250Kg前後まで衰弱していたという。そして、5月12日に平井調教師は安楽死という苦渋の選択をした。1988年5月12日午後10時2分、サクラスターオーは息を引き取った。137日間の闘病だった。

サクラスターオーが闘病生活を送っていた1988年4月29日。サクラスターオーが目指していた天皇賞・春が行われた。メリーナイスやゴールドシチーなど1987年の牡馬クラシック戦線でサクラスターオーと戦った馬、そしてサクラスターオーが競走中止した有馬記念を制したメジロデュレンなどが出走した。しかし、勝ったのはサクラスターオーとは同期ながらも牡馬クラシック戦線には出走しなかったタマモクロスであった。後にタマモクロスは史上初となる天皇賞の春秋連覇を達成し、1歳下のオグリキャップとの「芦毛対決」で後の競馬ブームの礎を築いた。

競馬に「たられば」は禁物なのは分かっている。だが、もしサクラスターオーが当初の予定通りに有馬記念の出走を回避し、天皇賞・春に出走していたら──先に抜け出したサクラスターオーとタマモクロスの追い比べになっていたかも知れない。そして昭和最後の天皇賞・春が、昭和の競馬史に残る名勝負になっていたかも知れない。

サクラスターオーの競走馬のキャリアは僅か7戦。昭和63年から平成初期にかけて続いた競馬ブームの頃に走っていた馬ではないため、サクラスターオーという競走馬について語る機会が少なくなった。サクラスターオーという馬を知らない競馬ファンも増えてきた。しかし、杉本アナウンサーの「菊の季節に桜が満開!!!」の実況は競馬史に残る名実況であり、その勝者であるサクラスターオーは、私の記憶に一生刻み込まれた名馬である。

写真:かぼす

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