
京都競馬場のパドック裏に伸びる三冠馬メモリアルロード。
喧噪から少しだけ離れた小径は季節ごとの花に彩られ、遠くから子どもの笑い声や実況の余韻が風に乗って届く。静かに佇む歴代の名馬たちの馬像は、時を超えて訪れる人々を見つめている。彼らが織り成したドラマに思いを馳せながらゆっくりと歩くと、淀の地が見守ってきたたくさんの栄光と涙が、胸にじんわりと広がっていく。
その一角に流れるたてがみと凛とした眼差しをした馬がいる。
スティルインラブ。「今でも愛してる」という名を持つ牝馬。
今から20年以上前、彼女はメジロラモーヌ以来17年ぶりとなる牝馬三冠を達成した。華やかな戴冠のあと、彼女が再び勝利を得ることは無かった。しかし、あの年に手にした三つのティアラは、季節が移ろう中で駆け抜けた一度きりの輝きとしてこの地に確かに刻まれている。

その物語を語るとき、どうしても一頭の名が並び立つ。
アドマイヤグルーヴ。セレクトセールで牝馬としては前例のない高値で取引されたその身には、祖母ダイナカール、母エアグルーヴから連なる母仔3代オークス制覇の夢が託されていた。武豊騎手を背に新馬、エリカ賞、若葉ステークスと連勝街道を駆け抜けると、その夢は現実のものとして語られるようになった。
スティルインラブも確かな歩みで頭角を現した。デビュー10年目を迎えた幸英明騎手とのコンビで新馬と紅梅ステークスを連勝。一躍クラシック候補へと名乗りを上げる。だが前哨戦ではライバルの巧みな立ち回りに翻弄され、勝負処で進路を失い2着惜敗。幸騎手は自らの判断を悔い、降板を覚悟したという。
肩を落としながら引き上げてきた幸騎手に、松元省一調教師は告げた。「本番じゃなくてよかった」と。その言葉には、再び託された重みが滲んでいた。陣営から寄せられた信頼と励ましを胸に、覚悟の手綱を握り締め、若き才媛とともにクラシックの戦いに歩を進めた。

2003年4月13日、桜花賞。春の風が桜の香を運ぶ仁川の夢舞台。
一番人気アドマイヤグルーヴが痛恨の出遅れ。スタンドがどよめく中、二番人気スティルインラブは好位で軽やかにリズムを刻む。直線に差し掛かると、目前には先行馬の厚い壁が立ちはだかる。前哨戦の苦い記憶を振り切るように幸騎手は相棒を鼓舞して馬群の隙間を突く。厚い壁を割ると、視界はぱっと開ける。先頭に躍り出たスティルインラブは、背後から迫る蹄音を背に受けながらも、風を切って、ただ真っすぐに駆けた。ゴール板を越えた幸騎手の顔に浮かんだのは、安堵と誇らしさが入り混じった笑顔だった。
続くオークス。曇天の府中に集った視線は、距離延長を味方にできると見られたアドマイヤグルーヴに注がれていた。だが、またもや出遅れ、折り合いを欠き、勝負の舞台から遠ざかっていった。
対照的に、スティルインラブは中団で穏やかに脚を溜めていた。直線に差し掛かると、幸騎手は迷いなく進路を外へ。解き放たれた瞬間、その蹄が鋭くターフを捉え、風を裂く。一頭、また一頭と交わし、伸びを欠くライバルを置き去りにした。長い直線を存分に駆け抜け、堂々の二冠。積み重ねてきた絆が、ひとつの形となった瞬間だった。
10月19日、京都競馬場、秋華賞。澄み渡る秋晴れの下、三冠達成の期待を背負うスティルインラブだったが、前哨戦のローズステークスではアドマイヤグルーヴに完敗し、掲示板に載るのがやっとの5着。世間の評価は揺らぎ、一番人気の座も再びライバルに譲ることとなった。
しかしスティルインラブは本来の走りを取り戻した。直線、逃げ粘るマイネサマンサを好位勢が捉えにかかるその外から、スティルインラブが鋭く躍り出る。「最後の一冠だけは譲れない」。そう叫ぶようにアドマイヤグルーヴが食らいつく。
抜け出したスティルインラブをアドマイヤグルーヴが懸命に追う。三冠を賭けた二頭の激しい攻防に、スタンド全体が大歓声の渦に包まれる。ゴールまで残り数完歩、その差は縮まらない。ゴール板を駆け抜けた瞬間、17年ぶりに牝馬三冠の扉が開いた。幸騎手の掲げた3本の指が、祝福の秋空に高らかに突き上がった。
秋華賞の後、彼女に勝利が再び訪れることはなかった。引退後は生まれ故郷の北海道・下河辺牧場で繁殖入り。2007年、唯一の仔となる牡馬・ジューダを授かるが、その夏、小腸の腸重積を発症し、わずか7歳で急逝した。ジューダは南関東で2勝を挙げたものの、種牡馬として血を繋ぐことはできなかった。だが相馬野馬追の戦場に立ち、甲冑をまとった騎馬武者とともに伝統の祭りを勇壮な姿で彩った。
ふと視線を上げると、馬像の彼女は変わらぬ眼差しのまま静かに佇んでいる。仁川の桜吹雪、府中の曇天、淀の秋晴れ。三つの情景が胸の奥で重なりあう。
ライバル・アドマイヤグルーヴは母としてドゥラメンテを輩出し、輝かしい血を残した。対照的にスティルインラブの血は途絶えてしまった。三冠を掴んだ彼女の輝きは、どこか儚さをまといながら記憶に浮かぶ。
けれど、あの年、互いの存在が互いを輝かせた物語は決して消えることがない。スティルインラブは史上2頭目の牝馬三冠馬として、そしてライバルを超えた馬として、我々の記憶に深く刻み込まれている。
Still in Love──その名の通り、彼女は今も、そしてこれからも愛され続ける名牝なのだ。
写真:RINOT