驚異の1分56秒1を刻んだ、トーセンジョーダンの天皇賞(秋)
■2000mレコードタイムの変遷

最近、「根幹距離」という競馬用語をよく耳にするようになった。
根幹距離の定義は、400mで割り切れる距離のレースのことで1200m、1600m、2000m、2400m、3200mなど、これらの距離が競馬のレース体系の「基幹」を成し、中央競馬のGⅠレースの大半は、この根幹距離で行われている。
これら根幹距離のレースの中でも、2000mは「中距離の王道」と呼ばれ、スピードとスタミナの均衡が問われる距離である。根幹中の根幹…ともいうべき2000mのレコードタイムには、昔から常に注目が集まっていた。2000mのレコードタイムが樹立されるとGⅠレース以外でも必ず大きなニュースになる。

中央競馬における現在のレコードタイムは、2023年の天皇賞(秋)で、イクイノックスがマークした1分55秒2。この走破タイムは、単なる数字以上に「日本競馬が世界最速水準にある」ことを示す象徴的な記録である。 まさに、馬場・血統・騎手・調教師、すべての進化が結晶した瞬間といえるだろう。

イクイノックスの1分55秒2のレコードタイムが樹立されるまで、様々な変遷を経てきた。今から半世紀前の1970年代、2000mの走破タイムは、「2分の壁を破る」というのが夢だった。その2分の壁が破られたのは1973年のこと。シンザン産駒の芦毛牡馬、シルバーランドが、菊花賞9着後に出走した愛知杯(1973年12月2日中京競馬場・芝2000m)で、1分59秒9のレコードタイムをマークした。

なかなか破れなかった「2分の壁」は、3年後の1976年には、トウショウボーイが1分58秒9(阪神・神戸新聞杯)で走破、従来レコードを1秒短縮するという驚異的なタイムをたたき出し、レコードタイムは58秒台に突入する。そして1988年の函館記念。サッカーボーイが58秒台の壁を破る1分57秒8で優勝し、遂に2000mのレコードタイムは1分57秒台となった。以降は芝の洋芝混合化やエアレーション管理が進み、1分57秒台がコンスタントに出始め、瞬発力勝負と高速決着が常態化していく。

馬場の均質化と調教技術の進歩を背景として、府中競馬場を中心に1分56秒台が現実的な数字になり始めた2011年。天皇賞(秋)で1分56秒1という日本レコードがマークされる。この記録はイクイノックスの日本レコードが樹立されるまでの12年間、2000mのレコードタイムとして輝き続けた。

そのレコードタイムを天皇賞(秋)で樹立したのが、トーセンジョーダンである。

■素質秘めたるトーセンジョーダン

トーセンジョーダンは、父ジャングルポケット母エヴリウィスパー(母の父ノーザンテースト)の鹿毛の牡馬。

栗東の池江泰寿厩舎に所属し、2008年11月京都の新馬戦でデビュー(6着)する。トニービンの血を引くその馬体は柔らかく、しなやかで、どこか品があった。中1週で福島の未勝利戦に転戦すると、直線先頭から押し切って初勝利。続く、葉牡丹賞、ホープフルステークス(当時オープン特別)を連勝し、2歳時に3連勝でオープンクラスに昇格する。池江調教師の見立て通り、早くから素質が開花したトーセンジョーダンは、3歳初戦を共同通信杯に照準を合わせる。結果は1番人気のブレイクランアウトに歯が立たなかったが、それでも2着をキープし、収得賞金を積み上げた。

これで春のクラッシック路線に乗ることが確定し、皐月賞の有力候補の一頭となる。

しかし、レース後に裂蹄から脚部不安を発症。春のクラッシックの舞台に立つことはできなかった。

「焦るな。時間をかけてやればいい」

この時の池江調教師の判断が、後々にトーセンジョーダンの素質を開花させることになる。

春を全休し、11月のアンドロメダステークスで復帰(2着)すると、古馬になった翌年夏の札幌で久々の勝利を挙げる。その後秋の府中でアイルランドトロフィ(OP)、アルゼンチン共和国杯(GⅡ)を連勝。初重賞制覇で勢いづくトーセンジョーダン、この勝利を機に、彼の歯車は静かに、しかし確実に回り始める。

■トーセンジョーダンと秋の戴冠

トーセンジョーダンが本格化したのは5歳になってからだろう。

アルゼンチン共和国杯優勝後、有馬記念(5着)を挟んで挑んだアメリカジョッキークラブカップでは逃げ込みを図るミヤビランべリを直線半ばで捉えて優勝。宝塚記念9着後に夏の札幌に遠征する。洋芝の舞台、札幌記念では、秋華賞馬レッドディザイアの追撃を凌ぎ、ゴール前接戦となったアクシオンをハナ差競り落として優勝。レース展開の節々に強さと安定感を見せたトーセンジョーダンは、重賞3勝目を飾る。この強さは本物、GⅠに手が届く馬だ──そう誰もが確信できる、決定的な一戦だった。

そして、秋が来た。

GⅡの重賞3勝馬とはいえ、4歳時の有馬記念が5着、今年の宝塚記念が9着と、GIではいま一歩の成績だったこともあり、迎えた天皇賞(秋)では伏兵の一頭に留まっていた。鞍上には、イタリアから来日中のN・ピンナ騎手が起用された。当時、まだ日本での実績は少なかったが、彼の手綱さばきには、どこか馬への敬意が感じられた。

人気はブエナビスタ、エイシンフラッシュのGⅠ馬に、重賞連勝中のダークシャドウが形成。トーセンジョーダンは7番人気。

レースは最内枠からいったシルポートが飛ばし、1000m通過は56.5秒で場内が沸く。シルポートを追うアーネストリー、エイシンフラッシュなど二番手以下の先行勢の脚色が奪われていく中、直線では差し馬が横に広がって攻防を繰り広げる。4コーナー手前で11番手から前を追ったトーセンジョーダンは、逃げるシルポートを追う。ブエナビスタは内を突くが突き抜けるだけの脚は無い。エイシンフラッシュが先頭に立った外から、トーセンジョーダンが並びかける。更に内からはダークシャドウ、大外をペルーサ…。残り100mでトーセンジョーダンとダークシャドウの一騎打ち。ようやくブエナビスタが内から伸びてくるが三番手争いに留まる。ゴール前の壮絶な一騎打ちはトーセンジョーダンに軍配。鞍上のN.ピンナ騎手は馬上で立ち上がり、喜びを爆発させた。

「ジョーダンは、走りたがっていた。僕はただ、それを邪魔しないようにしただけさ」

レース後のN・ピンナ騎手のコメントは、馬のリズムを信じて追い出した好騎乗を物語っていた。

その結果が、日本レコードの1分56秒1──。
完璧な勝利だった。

トーセンジョーダンの未来を信じて待ち続けた池江調教師。

トーセンジョーダンは、その信頼に応えるように走った。競馬は、ただ速さを競うだけのものではない。そこには、言葉を持たぬ馬と、それを信じる人との静かな対話がある。トーセンジョーダンの天皇賞制覇は、その対話が結実した瞬間だった。

■蹄跡の余韻 トーセンジョーダン、王者のその後

2011年秋、府中競馬場での天皇賞(秋)制覇──それはトーセンジョーダンのキャリアの頂点であり、同時に新たな挑戦の始まりでもあった。

「天皇賞馬」のタイトルを持って臨んだジャパンカップは、ブエナビスタとクビ差の接戦を演じ2着に敗れる。それでも1番人気の凱旋門賞馬デインドリームには先着した。

6歳になったトーセンジョーダンは産經大阪杯(GⅡ)3着、天皇賞(春)2着と好走したものの、秋以降は精彩を欠き、ゴール前の粘りが次第に薄れていく。それでも7歳秋のジャパンカップでは、ジェンティルドンナ、デニムアンドルビーとゴール前大接戦。ハナ、クビ差の3着に健闘した。11番人気という低評価を覆す走りは、トーセンジョーダンの底力と、池江厩舎の調整力の賜物だった。

8歳となった2014年、宝塚記念10着、天皇賞(秋)17着、ジャパンカップ14着。

GⅠレースに顔を出すものの、かつての輝きは影を潜めた。それでも彼は最後まで走り抜いた。そして、12月5日、登録抹消。

トーセンジョーダンは競走馬としての幕を静かに下ろした。

30戦9勝。獲得賞金7億506万円。

その数字以上に、彼の蹄跡は多くのファンの記憶に刻まれている。

勝利の美しさだけでなく、敗れてもなお挑み続けた姿勢。それは、競馬が「勝つこと」だけではなく、「走ること」に意味があることを教えてくれる。

トーセンジョーダンの物語は、秋の王者として始まり、挑戦者として終わった。

だが、その蹄跡は、今も芝の上に、そして私たちの心の中に、確かに残っている。

Photo by I.Natsume

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