女王の信念と天使が歩んだ軌跡のぶつかり合い~テンシノキセキ・2003年セントウルS~

2000年代前半の競馬界は、後に伝説の名馬としてこの世に名を残す馬達が非常に多かったようにも感じられる。短距離界においてもそれは例外ではなく、キングヘイローにブラックホークといった実力馬から、ダイタクヤマトにカルストンライトオなど個性派も勢揃い。更に香港からの使者サイレントウィットネスや豪州の弾丸テイクオーバーターゲットなど、後になって振り返ると相当な実力馬が揃い踏みしていた時代だった。

恐らく、一番混沌としていたのは2002~2006年にかけてではないだろうか。当時、今ほど短距離路線は番組が充実しておらず、外厩制度もまだまだ未発達。そのためG1である高松宮記念やスプリンターズSは勿論、前哨戦である函館スプリントSや京王杯スプリングCなどのプレップレースにおいても相当な実力馬が集結していた。前走でG1を制していようともあっさりその差をひっくり返されてしまうことも往々にしてあり、レースのたびに着順が入れ替わるような状況であった。

そんな激戦の時代に、1200m戦でたった5度しか掲示板を外さなかった牝馬がいた。

父はフジキセキ。その名から一部を貰い受けた彼女の名を、テンシノキセキという。

天使の微笑

京都のダートで公営・愛知の吉田稔騎手を背にデビューしたテンシノキセキはスタートから逃げるとそのまま逃げ切ってあっさり初勝利。返す刀で福島2歳Sに出走すると岩手のセイントリーフ、上山のマルハチマエストロを抑えて2連勝。

重賞初出走となったフェアリーSも後に活躍するダイヤモンドビコーやタイムフェアレディ相手に勝ちG3を無敗で制覇と、2歳時から既にその非凡なスピードを披露していた。その快速ぶりは、2週前に2歳女王に輝いたテイエムオーシャンに「早くもライバル誕生か!?」と話題を集める程だった。

着差こそないが確実に後続を抑えきるスピードは天性のもの。
デビューからわずか2か月足らずで、一気に翌年のクラシック候補に名乗りを上げたのである。

しかし年明けの紅梅Sを5着し、トライアルのフィリーズレビューに向けて調整していた矢先、剥離骨折を発症してしまう。やっと復帰できたのは秋の福島で、期待された牝馬クラシックやNHKマイルCの舞台に立つことは叶わずに3歳シーズンを終えることとなった。ライバルと目されたテイエムオーシャンは2冠を達成。フェアリーSで下したダイヤモンドビコーはローズSでオークス・秋華賞2着のローズバドに勝利していただけに、もし無事に春を迎えていたら…と考えずにはいられない結果だった。

年が明け、古馬となった初戦の阪急杯で1番人気に支持されながら7着と期待を裏切ると、初のG1挑戦となった高松宮記念は中団から見せ場も作れず11着。

とはいえ、この結果に決して悲観する人ばかりではなかったのが、この当時の短距離界事情なのである。最初に述べた通り、この時代の短距離界は立ち位置の入れ替わりが激しく、その現象はこのレースでも顕著に表れていた。

5着のトロットスターはこの前の年に春秋スプリント制覇を成し遂げており、14着のメジロダーリングは前年のスプリンターズSで2着。6着のディヴァインライトは2年前の同レースでキングヘイローの2着と、着外に敗れていた馬たちは軒並み近年のスーパースプリンターたちだったのだ。

では上位の馬たちは新世代かといえばそんなこともなく、勝ったショウナンカンプこそ1600万下から3連勝での栄冠奪取だったが、2着アドマイヤコジーンは2歳時から常に短距離~マイルの一線級で活躍。3着スティンガーも距離を問わずレースに参戦しており、決して世代交代がなされたわけでもない。まさにカオスの時代だったのだ。

そんなメンバー相手に11着だったテンシノキセキ。未だ4歳の底を見せない少女の経験不足ゆえの大敗と取った人もいただろう。果たしてその評価は正しく、次走に選んだ駿風Sでメジロダーリング相手に勝利すると、そこから短距離OP、重賞路線で研鑽を積んでゆく。

これ以降、ほぼ1か月に1走のペースで走り続けたテンシノキセキは1年後、兵庫の小牧太騎手に導かれて中京芝1200mのコースレコードを樹立。その走破時計1分6秒9は、1年前の高松宮記念の勝ち時計より1秒8、自身の走破時計を3秒1上回ってのゴールイン。経験を積み、1年間で【2-3-0-3】の好成績を残したテンシノキセキに、最早G1を大敗した時の面影などなかった。

そこから休むことなく2戦を挟み、迎えた秋初戦のセントウルS。今までの経験を力に変えるには絶好の相手と言っていいメンバーがそこには揃っていた。

天使の奇跡

2003年の短距離界は、安藤勝己騎手とビリーヴの話題で持ちきりだった。公営・笠松のトップジョッキーとして活躍し、この年にJRAへと移籍してきた安藤勝己騎手は、移籍から僅か1か月足らずでJRAのG1を初制覇。その時の相棒こそ、高松宮記念を制し秋春スプリントG1制覇を成し遂げたビリーヴだった。

続けて乗り込んだマイル路線はさすがに距離が長く惨敗に終わったが、適距離に戻った函館スプリントSでは貫禄の2馬身差完勝を見せた彼女は、スプリントG1・3連覇を目指すべく秋初戦にセントウルSを選択。実績が見込まれて斤量はメンバー最重量の57キロだったが、そんなことも関係なしに勝ち切ってしまうと思えるほどに、この年のビリーヴには凄味があった。単勝オッズ1.8倍が、その事実を何より雄弁に物語ってくれている。

一方テンシノキセキはここまでの成績を評価されて2番人気の3.5倍に推されてはいたものの、観衆のほとんどはビリーヴの勝利を信じて疑わなかっただろう。

しかし、彼女にテン乗りで跨ることとなった鞍上の横山典弘騎手は勝負師。こういう時の彼にはどこか怖さがある。そしてその予感を上回るかのように、彼はテンシノキセキの実力を遺憾なく発揮するばかりか、レースまで操ってしまったのである。

ゲートが開くと、テンシノキセキは好スタートを決めた。4枠4番の好枠ということも相まって、出たなりに先手を取りに行く。横山騎手も促して先頭を取るような動きを見せた。

それに呼応したのが外の2頭。ギャラントアローとカルストンライトオの逃げ馬2頭である。当代きっての逃げ馬であった2頭は、単騎で逃げなければ自身の強みを活かせない2頭。テンシノキセキにハナを叩かれまいと手綱をしごいて一気に競り掛けに行った。

瞬間、横を見やった横山騎手は無理に競らずに手綱をぐーっと絞った。自身が主張するように見せかけて外の2頭を行かせ、脚を使わせたのである。そして自身はビリーヴのひとつ前の番手につけて単騎の3番手。プレッシャーもなく、楽に番手をキープした。真後ろにいるビリーヴの動きを真前で感じられる絶好位である。流石名手と言わざるを得ないような動きだった。

改修前の阪神、飛ばすカルストンライトオは新潟直線1000mのレコードホルダー。更に2ラップ目の1ハロンはゲート後の駆け引きに加え、一瞬競り掛けに行ったギャラントアローを振り切るべくピッチを上げた影響で10.5秒とかなり速いペース。600m通過も33.4秒とこの時代ではかなりのハイペースで、いくら短距離戦といえども通常であれば前の馬達には厳しい展開。

だが、番手に控えたテンシノキセキも1200mのコースレコードホルダーだ。そう簡単に捕まるほどのスピードの持ち主ではなく、3.4コーナーで満を持して進出を開始。同時にビリーヴも進出を開始し、そのまま併せ馬の格好で直線に向かっていく。

直線に向いたところでカルストンライトオの逃げ脚は既に鈍り、内にいたギャラントアローも前半脚を使わされた影響で伸びがない。テンシノキセキとビリーヴの2頭だけが、末脚鋭く仁川の坂を駆け上がっていく。

そして一度は内から抜けたテンシノキセキの外から、猛然とビリーヴが迫る。

手ごたえは完全にビリーヴが上。しかし、その手応えに反応するかのように、テンシノキセキが馬体を合わせてからもう一段階、ギアを上げた。

まるでビリーヴのリズムに合わせて、テンシノキセキが競り合いを楽しむかのように。

ハイペースで有利なはずの後方から追い込んでくるアドマイヤマックスとデュランダルが、2頭の叩き合いの影を踏むことすら叶わない状況が、先団2頭の強さをより際立たせていた。

坂の頂上、テンシノキセキが再度内から抜け出す。

その外からビリーヴが2度目の猛チャージ。抜け出したはずのテンシノキセキのリードが、半馬身、アタマ、クビまで詰まる。

スプリント女王の威信を賭けて、負けられないビリーヴ。

それでも今までの経験を力に変えるかのように、テンシノキセキは懸命に内で粘り続け、決して女王が前に出ることを許さない。

そしてそのままゴール坂を駆け抜けた両頭の軍配は、テンシノキセキに上がった。

その差、僅かに2センチ。

決して諦めずに戦い続けた天使へ、2年9か月ぶりに重賞の女神が微笑んだのだった。

天使の軌跡

次走、スプリンターズSでも持ち前のスピードを活かして逃げ5着となった彼女。そのスプリンターズSで有終の美を狙うビリーヴを差し切ったのは、セントウルSで4着であったデュランダル。慢性的な蹄不安を抱えながらも強烈な切れ味を誇る彼は、この勝利を皮切りに歴史に名を刻む名馬として短距離界に君臨することとなる。

テンシノキセキ自身のその後は4戦して2着が最高だったものの、立派にスプリント路線の主役として戦い続けた彼女の軌跡は、間違いなく勇気を与えた。

翌年、このレースが怪我から復帰後の初戦であったカルストンライトオがスプリンターズSでG1初勝利を挙げ、歓喜の復活劇を遂げている。2年後、このレースで4着だったアドマイヤマックスが高松宮記念で復活のG1制覇。このレースで5着だったネイティヴハートも以後は凡走が続くが、3年後のオーシャンSで14番人気の低評価を覆して勝利し大穴を開けた。

混沌としていたこの年代の短距離路線。もしかすると時代の最大のテーマは「諦めずに歩み続けること」だったのかもしれない。

それを体現した最初の馬に、勝利の女神は女王に屈しない強さという奇跡をもたらしたのだから。

写真:かず

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